第二話 推理合戦
「ふぅん、これが密室に出現したクリスマスプレゼントか」
そう言って、草加多恵はローテーブルの上の木箱を手に取った。
「物はオルゴールだっていうから、もっと小さいのを想像してた。結構大きいね」
全体的に光沢のある茶褐色の木箱は広辞苑ほどの大きさで、底に真鍮製の猫足が付いている。蓋の表面には、色調の異なる木材を嵌め込んで模様を画く象嵌細工で大輪の薔薇が施され、流線型の側面には、真鍮製の鍵穴に金糸の総の付いた鍵が刺さっていた。
鍵を回して蓋を開けると中は二室に分かれていた。左側は臙脂の布張りの小物入れで、右側には三十六弁のオルゴールが納まっている。
一度蓋を閉めて箱の裏のゼンマイを回し、ふたたび蓋を開けると、静かに演奏が始まった。シリンダーの回転に合わせて弾かれた櫛歯が、複雑に連続した金属音で曲を奏でる。その無機質な音源は、木箱を通すことで丸みのある柔らかな響きへと変化し、幾重にも重なり、聴く者を魅了した。
「綺麗な音色ね」
テーブルに両肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せた毬谷透子が、うっとりと目を細めた。
「何て曲ですか?」
テーブルの中央に置かれた木箱の中を物珍しげに覗き込みながら、遊佐碧が、オルゴールの所有者――西島真奈美に尋ねた。
「メモリーです。キャッツというミュージカルの劇中歌なんですよ」
西島が答えるのと同時に、誰かがドアをノックした。西島が立ち上がってドアを開けると、部屋の外に、物憂げな顔をした中年男性が立っていた。
「どうしたの、お父さん」
「いや、オルゴールの音が聴こえたものだから」
「ああ、ごめんなさい。今、職場の人たちと一緒に聴いてたの、煩かった?」
「べつに煩くはないが。……なら、いいんだ」
西島の父親は部屋の中を覗き、娘がいつもお世話になっております、と言って頭を下げた。ローテーブルを囲み床に座っていた三人は慌てて腰を浮かせ、各々お辞儀をした。
一通り挨拶がすむと、西島は物言いたげな父親を追い立てながら、
「気が利かなくてすみません。すぐにお茶の用意をしますね」
と言い置き、部屋から出て行った。階段を下りる二人分の足音が小さくなると、残された三人は気まずそうに顔を見合わせた。
「お邪魔だったかしら。夜分に大勢でおしかけたりして」
淡い花柄のティーカップに紅茶を注ぐ西島に、毬谷が心配顔で訊いた。
先刻まで四人は駅前の居酒屋で飲んでいたのだが、その席で西島が語った『密室に出現したクリスマスプレゼント』の謎に他の三人が興味を持ち、推理合戦に興じるべく、こうして場所を西島の私室へと移したのだった。
「大丈夫です、気にしないでください」
「でもお父様、迷惑がっているようにみえたけど……」
「もともとあんな辛気臭い顔なんです」
西島はかすかに苦笑し、それぞれの手元に紅茶を配り終えると、
「それよりもどうです? 謎は解けそうですか」
仕切り直すように明るい調子で言って、三人の顔を見回した。
「うーん、部屋には鍵がかかってたんだよね。こじ開けた痕跡とかなかったの」
思案顔の草加が口火を切った。西島が、クッキーの並んだ皿をテーブルに載せながら首を横に振った。
「ありませんでした」
「この部屋の鍵は誰が持っていたんですか」
遊佐がドアに視線を向ける。木製のドアは真鍮製の丸いドアノブと、内鍵の役目を果たすサムターンが付いているだけのごくありふれた物だった。
「母が持っていました。でもこれだけは誓って言いますけど、絶対に鍵は使ってません」
草加がやおら立ち上がり、室内を時計回りに回り出した。
「内装は当時のまま?」
「成人する時に家具は買い替えましたけど、配置はほぼ一緒です」
「ふぅん、なるほどねぇ」
ローテーブルを囲んで車座に座る三人の周りを、顎に手を当てた草加がしきりに頷きながら闊歩する。その長身の、長い脚が前後するのに併せて、ジーンズの衣擦れが硬い音をたてた。
部屋は六畳ほどの広さで、左手、ドアと平行に大型の本棚、垂直の壁際にベッド。ドアと対面の壁には南向きの大きな腰窓があり、窓際の右手には鏡台も兼ねた机が配置されていた。家具は全て明るい木目調で統一されている。ドアから見て右手の壁は、一面クローゼットになっていた。
「プレゼントは枕元に置いてあったんだよね。ベッドのどの辺り?」
部屋を一周し、二周目に入ってすぐに草加はベッドの脇で足を止めた。
「いえ、正確にはベッドの上じゃなくて、ナイトテーブルの上です」
そう言って西島が、ベッドの横のナイトテーブルを指差した。ベッドフレームとお揃いの、木製のテーブルの上には目覚まし時計と文庫本が置かれている。草加はテーブルとベッドの向こうの壁とを交互に見てから、
「ちょっとベッドに乗ってもいい?」
と、訊いた。西島が承諾すると、ベッドに右膝を突き、手の甲で壁を叩いた。時折耳を澄まし、何事かを確かめるようにあちらこちらをこつこつと叩く。
「隣には何があるの?」
壁の方を向いたまま草加が質問する。
「物置です。当時もそうでした」
「ふむ、やっぱりね。私の読みどおりだ」
ベッドから下りた草加は、仁王立ちになって不敵な笑みを浮かべた。ティーカップに口を付けようとしていた毬谷が手を止め、まあ、と驚いた。
「この家リフォームしたでしょ。今は新しい壁紙で綺麗に見えるけど、この下の壁には隙間や節穴があるはず。だって、音がすかすかしてるもん」
草加がふふん、と鼻を鳴らす。
「それが密室とどう関係するんですか」
遊佐が、ナッツの練り込まれたクッキーを摘みながら問うた。
「プレゼントは密室の中に持ち込まれたんじゃなくて、もともと密室の中にあったんだよ」
草加は腰に手を当て、得意満面で断言した。
「ボトルシップってあるでしょ、瓶の中に帆船が入ってるやつ。あれって、細かく分解したパーツを瓶の中で組み立てるんだよね。それと同じ要領で、分解したプレゼントをあらかじめ部屋の中に隠しておいて、西島が眠った後、壁の隙間や節穴から長いピンセットを挿し込んで組み立て直したんだよ。すごいでしょ」
「何に対して凄いと言っているのか分からないけれど、確かにそれができたら、西島さんのご両親は物凄く手先が器用よね」
毬谷は呆れたように溜め息を吐くとゆるゆると首を横に振り、あらためてティーカップに口を付けた。
「西島さんのご両親がどれほど器用かは知りませんが、何も分解して一から組み立てなくても、プレゼントそのものを部屋のどこか、――例えばベッドの下とか、目につき難い場所に隠しておくだけでいいんじゃないですか。それをその長いピンセットとやらでナイトテーブルの上へ移動させる方が、労力も少なく、現実的だと思いますけど」
頬張ったクッキーを飲み下して遊佐が言う。
「えー、でもそれだと芸がないじゃない」
草加が不満気に唇を尖らせた。すると西島が、ブー、と口で発して、
「ハズレです。人の家を勝手にリフォームしないでください。当時からこの状態です」
体の前で腕を交差させて大きなバツ印を作った。それを見た毬谷が右手を上げて、
「はい。じゃあ次は私の番ね」
おっとりとした口調で言った。そして、憮然とした面持ちでローテーブルとベッドの間の床に腰を下ろす草加と入れ違いに立ち上がり、窓辺へと歩を進めた。
「ボトルシップ作戦は非現実的で馬鹿げていたけれど、プレゼントが最初から密室の中にあった、という着眼点だけはよかったと思うの」
毬谷の言葉に不貞腐れた草加が、市松模様のクッキーを二枚重ねてばりばりと噛み砕く。その様子に悪戯っぽく笑ってから、毬谷はおもむろに両開きのカーテンを中央から左右に開いた。
「このカーテンレールをロープウエーに見立ててみて。右端が始点、左端が終点ね。で、始点側のカーテンの端を一つ外して……」
言いながら、腕を伸ばしてカーテンの掛かっているフックを外す。オレンジ色のカーテンの端がめくれてマグネット式のランナーが露わになった。そこへ毬谷は、赤い石のぶら下がったイヤリングを左耳から取り外し、二つ並んだ穴の一つにそれを引っ掛けた。
「こうやって車輪付きのコマの部分にプレゼントを吊るして、それからカーテンの端を元通り立てれば、はい、準備完了。プレゼントは隠れて見えなくなったわ。後は西島さんが眠ってからナイトテーブルの上に移動させれば、密室にプレゼントの出現よ」
「でもそれってカーテンを閉める時にばれるんじゃない? それに、そこからどうやってナイトテーブルの上に移動させるの」
草加は頭の後ろで手を組むと、背後のベッドに背中をもたれかからせた。
「西島さんのご両親は、ロマンチストな我が娘が、幻想的なイルミネーションを目の当たりにしてカーテンを閉めるはずがないと確信していたのよ。事実、西島さんはカーテンを閉めなかったわけでしょう。子供の性格を熟知した、親ならではの素晴らしい読みだわ」
心底感心したふうに一つ頷いてから、毬谷は続けた。
「移動に関してはこうよ。カーテンの端、――終点はちょうどナイトテーブルの真上に位置しているでしょう。なら、あらかじめ左下がりに傾斜をつけておくだけで、吊り下げられたプレゼントは自身の重みで滑り落ち、カーテンの束に当たって落下するわ」
毬谷はカーテンの端をめくり、イヤリングを指で弾いた。車輪が軽やかな音を立ててレールの溝を滑る。それはやがて、左側のカーテンの束に当たって大きく揺れ、落下した。それを掌で受け止めた毬谷は、
「ほらね、完璧でしょう」
三人の方へ向き直って、にっこりと微笑んだ。
「その方法だと、西島さんが眠るまでの時間プレゼントを始点側に固定しておく必要があると思うのですが。時限装置を備えているか、もしくは遠隔操作のできるストッパーでも使うんですか」
遊佐が質問を投げ掛ける。すると毬谷は、よくぞ訊いてくれた、といわんばかりに顔を綻ばせた。
「ストッパーには氷を使ったのよ。コの字型の氷を二つ用意して、カーテンレールを左右から挟み込むの。接合部分は塩で接着すればいいし。氷の大きさで解除時間も調節できるわ」
「それはまたえらく古典的な……」
「でもそれだと、融けた氷でプレゼントがびしょ濡れになるんじゃない」
草加がからかう口調で言う。毬谷は負けじと人差し指を立てて、
「だからこそラッピングの一部に薔薇の造花があしらわれていたのよ。造花は飾りのためじゃなく、吸水のために付けられていたんだわ」
「……何か毬谷の推理って、ずいぶんご都合主義というか、運頼みというか。プレゼントがカーテンの束にぶつかって落ちるとか、氷のストッパーで時間稼ぎとか、それを造花で吸水とか、不確定要素が多すぎじゃない?」
「不確定じゃないわよ。西島さんのご両親が、娘の驚く顔見たさに何度も演習を重ねた結果の確定要素よ。努力の賜物だわ」
「えー、納得できないなぁ。じゃあさ、百歩譲ってそれが可能だったとして、プレゼントがテーブルの上に落ちたら結構大きな音がするんじゃない。これ、かなり重いよ」
草加がオルゴールを持ち上げ、重量を確認するように二、三度上げ下げした。
「絶対、物音で起きるよ」
「テーブルの上にタオルでも衣類でも何か音を吸収できそうなものを置いておけばいいわ」
「いえ、テーブルの上にはプレゼント以外何も載っていませんでした。ハズレです」
それまで静観していた西島が、再び腕でバツ印を作った。
「あら、そうなの? 残念だわ」
言葉とは裏腹にさして残念がるふうでもなく、毬谷は先程まで座っていた場所に帰って、スカートが皺にならないよう手で整えながらクッションに腰を下ろした。斜向かいで紅茶を飲む遊佐に視線を送る。
「次は遊佐さんね」
指名された遊佐はすっくと立ち上がり、窓辺へと直進した。腰窓の前で立ち止まり、一度右上の天井を見上げてから引違いのガラス窓を開ける。
「西島さんの言っていた大きな樅の木とは、正面に見えるあの大きな木のことですか」
遊佐が向かいの家の庭を眺めながら尋ねた。
木造二階の屋根より高く直立する樹幹の三分の二は、豊かに茂った針葉に覆われている。まめに剪定が行われているらしく、樹冠は見事な円錐形だった。
「ええ。毎年クリスマスシーズンになると、あの樅の木に飾り付けをしてクリスマスツリーにするんです。お向かいのご夫妻はそういうイベント事になると燃えるタチらしくて、冬になると電気代がかさむって愚痴りながらも、年々電飾が増殖し続けてるんです」
「そういえばこの住宅街って、クリスマスイルミネーションが盛んで、冬場のちょっとした観光名所になってるのよね」
緩やかに波打つ髪を耳に掛け、手慣れた様子でイヤリングをつけ直していた毬谷が、上目使いで西島を見た。草加が小首を傾げる。
「あれ? それじゃあひょっとして、市の広報誌にいつも写真が載ってる気合の入ったど派手なイルミネーションの家って、向かいの家?」
「そうです。毎年、広報課の職員が撮影に来てますよ。見物客の数も一番多いし、観光の目玉ですね」
「へぇ、そんなにすごいんだ。だったら今年は見物に来てみようかな」
「それなら家でクリスマスパーティーしませんか。この部屋からの眺めが一番綺麗なんです。特等席ですよ」
「いいね、それ」
「私も交ぜてもらおうかしら」
クリスマスの予定で盛り上がる三人をよそに、遊佐は腰の高さにある窓の桟に手をかけて身を乗り出した。右手の壁を軒下から地面まで観察し、次いで左の方向を見やった。
端の部屋から明かりが漏れている。それはカーテンの隙間からのものらしく、細長い光の筋が、庭の大樹に薄橙色の線を引いていた。
「左端の部屋は誰の部屋ですか」
「両親の寝室です。この二階は階段を上って左端から、私の部屋、物置、中央の階段を隔てて両親の寝室が並び、寝室の向かいに廊下を挟んで父の書斎があります」
「そうですか、分かりました」
そう言って納得すると、遊佐は窓を閉め、草加のもとへ行き、
「草加さん、オルゴールを貸してください」
掌を上向きにして両腕を伸ばした。目の前に差し出された白い両手の上に草加がオルゴールを載せる。それを受け取った格好のまま、遊佐は踵を返してベッドへと向かった。そしてナイトテーブルの上にオルゴールを置き、羽織っていた薄手のジャケットを脱いで被せた。
「何してるの?」
毬谷が訝しむ。
「これでオルゴールは見えません」
遊佐が振り向いて抑揚のない声で答えた。表情の変化に乏しく感情の読み取りづらいその面は、悪ふざけとしか思えない行動に出てもなお、微塵の変化も見せなかった。
「今はジャケットをかけただけなので丸分かりですが、実際にはプレゼントを置いたナイトテーブルそのものを、布で作った一回り大きなナイトテーブルで覆い隠します。早い話がマトリョーシカのような入れ子構造です。後は、西島さんが眠った頃を見計らって布製のナイトテーブルを回収すれば、密室にプレゼントが出現します」
草加が半眼になった。
「今、普通にさらっと言ったけど、その布製のナイトテーブルって何? そんなのすぐばれるに決まってるじゃない」
「まあ、市販の木目のプリント生地を立体に縫い合わせて被せただけならば、仰るとおり、一目で見破られてしまうでしょう。しかし、これはそんなお粗末な代物ではありません。まずは、ナイトテーブルの正面、上面、左右側面の写真を印刷した布を用意します。これは飲食店などののぼりを扱っている印刷会社に頼めば一枚からでも作ってくれます。それを縫い合わせて立体にします。背面と底面は必要ありません。上面と左右側面の直交する辺にワイヤーを入れ、テグスで背後の壁側に引っ張れば布製ナイトテーブルの完成です」
「写真を印刷していくら実物らしくなったからって、やっぱり無理があるよ。一回り大きくなってるわけだし」
「世の奥様方がよく嘆いているじゃないですか、自分が髪を切ろうが、パンチパーマにしようが亭主は気付きゃしない、って。人間というのは常に身近にあるものの変化には気付きにくいものなんです」
「いや、それってたんに相手に関心がないだけなんじゃ……」
毬谷が唖然とした。普段の生真面目な遊佐からは想像もつかない台詞に、どう反応すればよいのか判断できずにいる。
「幸いその日は灯りもつけなかったようですし、絶対にばれてません」
遊佐はきっぱりと言い切った。
「じゃあまあ、それが偽物だと気付かなかったとして、その布製のナイトテーブルはどうやって回収するの?」
「それは、布端に長いテグスを結わえておいて、その反対側の先端をエアコンの中を通して屋外に出しておくんです」
真っ直ぐに伸ばした人差し指で、遊佐はナイトテーブル真上に位置するカーテンレールの端、天井と窓の間の壁、部屋の右隅の壁面に設置されたエアコン、の順番に指し示す。大きな身振りで経路を説明するのを、草加が目を丸くして止めた。
「ちょっとまって、まさかそのテグスを引っ張って布を回収するとか言わないよね。細いテグスならやりようによっては可能かもしれないけど、布はどう頑張っても無理だよ」
「確かにそのままでは無理です。ですから、エアコンに細工を施します。まずは室外機側でポンプダウンを行い、フロンガスを室外機内に封じ込め、配管パイプを外します。次に室内機を壁から取り外します。一般的に室内機は壁面に固定した取付金具に引っ掛けてあるだけなので上に持ち上げるだけで外れます。室内機を外し、配管パイプを回収したら、本体からカバーを外します。これも、数ヶ所ネジ止めしてあるだけなので簡単に分解できます。これで下準備は完了です。慣れていなければ手間取るかもしれませんが、全工程一時間もあれば充分でしょう。最後に、布製のナイトテーブルに結わえたテグスを室内機カバーの送風口を通し、外壁まで貫通した配管穴から屋外へ出したら、カバーを取付金具に引っ掛けて完成です。配管穴はカバーで隠れてしまいますし、ぱっと見ただけでは本体が抜かれているなんて気付きません。後は、庭からテグスを引っ張って布を回収すればいいだけです」
「でもそれってエアコンをつけられたらおしまいじゃない。本体を抜いてあるんだから暖かくならないわけだし」
「就寝時にエアコンはつけません」
遊佐は眉一つ動かさず、さも当然のことのように言った。
「私はつけるよ、寒くて眠れないじゃない」
草加は反論し、あんたもつけるよね、と毬谷に同意を求めた。
「いいえ。部屋が乾燥して喉を痛めるから、エアコンをつけっぱなしで眠るなんてありえないわ。あなたそんなんだからしょっちゅう風邪ひいてるんじゃないの? ちゃんと加湿してる」
「加湿なんてどうでもいいのよ。ねえ、西島はどう?」
同意を得られなかったばかりか生活態度まで言及され、草加は縋るような目で西島を見つめた。すると西島は、
「そうですね、時と場合によります。でもその晩はエアコンがついてましたよ。部屋が暖かかったのを憶えてます」
その瞬間、草加は満面の笑みを浮かべ、
「はい、残念でした。遊佐もハズレ」
嬉しそうに腕で大きなバツ印を作った。しかし、遊佐はそれを一瞥しただけで、
「すみません、御手洗いお借りできませんか」
ジャケットに袖を通しながら西島に請うた。
「ええ、どうぞ。トイレは一階の階段下にあります」
「お借りします」
そして、ジャケットのボタンを全てきっちり留めると、何事もなかったかのように平然と部屋を出て行った。