第一話 出題
「どうしよう、おかあさん。たいへんだよ」
車の助手席で窓ガラスに額を押し付け、車窓を流れる夜景を眺めていた真奈美が、突然大声を出した。
「びっくりした。どうしたのよ急に」
運転席で母親が目を丸くする。
「サンタさんはエントツからおうちにはいるんだよね。でもね、どこにもエントツがないの。これじゃあサンタさん、プレゼントをくばれなくてこまっちゃうよ」
眉尻を下げ、困惑した様子で真奈美が窓の外を指差した。
クリスマスイブ。夜の住宅街は、色とりどりのイルミネーションで眩いばかりに飾り立てられていた。煌びやかな街路樹が連なる歩道を、家族連れや恋人達が肩を寄せ合い、感嘆の声を上げながら歩いている。物見遊山を楽しむ人々の視線の先には、赤や青や黄色の電飾が施された住宅が建ち並んでいる。宝石を鏤めて作った、さながらお伽の国の街並みのような光景に、道行く人々は足を止め、恍惚の表情を浮かべていた。
その、夜空をも染める夥しい数の光に照らされた家並みのシルエットには、確かに煙突と思しき形は見当たらなかった。
あそこにもない、ここにもない、と、通り過ぎる家々の屋根を指差す真奈美を横目で見やり、母親はくすりと笑った。
「大丈夫よ。いまどきのサンタさんは皆のお家の合鍵を持ってるから、どのお家にも簡単に出入りできるのよ」
「ホント? じゃあ、わたしのおへやのカギももってるの」
「もちろん。真奈美の部屋の鍵も持ってるわよ」
「すごい! じゃあさ、おかあさん。きょうはおへやにカギをかけてねてもいい?」
真奈美が目を輝かせて興奮気味に訊いた。母親は少し考えてから、
「そうねえ、今夜だけならいいわよ。でも普段は鍵をかけちゃだめよ、危ないから」
噛んで含めるように言った。
「わぁ、おかあさんありがとう」
真奈美は感激して、床に届かない両脚の、膝から下をばたばたと交互に動かした。それに合わせて体を前後に揺らしながら、零れんばかりの笑顔で赤鼻のトナカイを口ずさむ。時折外れる音程に、母親がまた小さく笑った。
家に辿り着くと、真奈美は勢いよく車から飛び降りた。
「真奈美、自分の荷物を持って行きなさい」
母親に言われ、真奈美は後部ドアを開けて座席の上の赤いリュックサックを引きずり出した。中には着替えや歯ブラシが入っている。
本当ならば、今夜は父親が残業で遅くなることもあり、祖父母宅でクリスマスを祝うついでに一泊するはずだった。けれど、サンタさんがプレゼントを届けに来た時、家に誰もいなかったらかわいそう、という真奈美の言い分により、急遽予定を変更して帰宅したのだった。
真奈美はリュックサックを背負うと、祖父母から貰った大きなクマのぬいぐるみとお菓子の詰まった赤い長靴を両腕で抱えて、玄関へ向かった。
何度もずり落ちそうになるぬいぐるみを膝小僧で押し上げながら、母親にドアを開けてもらい、転がるようにして室内に駆け込んだ。上がりがまちで靴を脱ぎ捨て、
「おかあさん、おやすみなさい」
大声で言って、二階の子供部屋へと続く階段を駆け上がる。玄関の戸締まりをしていた母親が、驚いた顔で真奈美を見上げた。
「あら、もう寝るの? 今日はずいぶんと早いのね」
「だっておばあちゃんが、サンタさんははずかしがりやだから、わたしがおきてたらおへやにはいってこれないっていってたんだもん。だから、きょうははやくねるの」
階段の途中で立ち止まり、得意顔で答える真奈美の姿に、母親が目を細める。
「そうね、それじゃあ今晩は早く寝なくちゃいけないわね」
おやすみなさい、と言う母親の声を背中で聞きながら階段を上り、左右に伸びる廊下の、左手一番奥にある子供部屋のドアを開けると、真奈美は思わず息を呑んだ。
カーテンを開け放した正面の窓いっぱいに、道路を挟んで向かいの家のイルミネーションが、光の洪水となって押し寄せてきた。家の壁面を覆いつくす白色の発光ダイオードは、まるで満天の星空を優雅に流れる天の川のようで、その白く輝く流れの中に点々と、青い光で冬の星座が描かれていた。それら数多の光の粒を背に、大きな袋を担いだサンタクロースが、六頭のトナカイの牽くソリに乗って夜空へと昇って行く。
庭の大きな樅の木は青を基調とした電飾で飾られ、その周りをトナカイやサンタクロース、小人が数人囲んでいた。皆、ぷっくりと丸いおなかを淡い橙色に光らせ、輪になって楽しげに踊っている。
真奈美は部屋の灯りをつけることもせず、窓辺に佇み、その夢のような光景に見蕩れていた。だが、やがて我に返り、
「あっ、いけない。はやくねないと、サンタさんがこまってるかも」
慌てて、クマのぬいぐるみとお菓子の詰まった長靴をベッドの枕元に並べ、学習机のイスの背もたれにリュックサックを掛けた。カーテンは閉めず、窓明かりで手早くパジャマに着替えるとベッドに入る。
しかしベッドに片膝を突いたところで、ドアに鍵をかけ忘れていたことを思い出し、小走りでドアへと駆け寄った。真鍮のつまみを右に回すとカチリと鍵のかかる音がした。鍵をかけた部屋で眠るという初めての行為に真奈美は高揚し、弾むように軽やかな足取りでベッドへ戻った。飛び込むようにして潜り込んだ布団は暖かく、枕元でかすかに甘い香りがした。
毛布を鼻先まで被り、天井を見上げる。青く照らされた天井は、海の底から仰ぎ見る空のようで、ほぅ、と溜め息が零れた。
「サンタさん、いまどこらへんにいるのかな……」
目を瞑ると、瞼の裏に夜空を駆けるサンタクロースの姿が浮かんだ。首から提げた鍵の束をシャラシャラと鳴らし、忙しそうに飛び回る白い髭のお爺さんを微笑ましく眺めながら、真奈美はやがて眠りについた。
翌朝、真奈美は眩しさに目を覚ました。窓から射し込む朝日とは別に目を射るものがある。眩しさに顔を顰め、寝転がったまま光のありかを探す。
「あっ!」
ベッド脇のナイトテーブルに視線を向けた瞬間、真奈美は勢いよく跳ね起きた。テーブルの上に、華やかにラッピングされたプレゼントが置かれていたのだ。
プレゼントは鮮やかな赤い包装紙で包まれ、銀色のリボンがかけられていた。きらきらと輝くリボンは花弁のように幾重にも重ねられ、その中央には深紅の薔薇の造花が飾られている。
「すごいっ! サンタさん、ホントにわたしのおへやのカギをもってたんだ」
真奈美は頬を紅潮させて、ベッドの上でぴょんぴょんと飛び跳ねた。そして、ずっしりと重みのあるプレゼントを大切そうに胸に抱くと、
「すごい、すごい」
と、連呼しつつ、両親のいる一階へと駆け下りて行った。