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カルコサの歌

「我々は深き者の儀式の妨害に成功した。それなのに、クトゥルフは復活するというのかね!?」

 

松田連隊長が、佐村と共に連隊本部に戻ってきた実田に質問した。「嘘だと言ってくれ」、そう懇願するような口調だった。

 実田の方は、松田の顔を見もせずに無愛想な口調で言った。

 

「儀式はかなり進展していたし、現在の星辰はかなり理想に近い位置にある。既にルルイエが浮上している以上、クトゥルフが復活する可能性は高い」

 「ど、どうすればいいのだ?」

 

 「とりあえず、これから部隊をまとめて、宇賀那に入って頂けるかね?」

 「出来るが…」

 

松田は実田の奇妙な要求に対し、少し混乱したような顔になった。深き者が儀式に使っていた機械は味方戦艦の砲撃で破壊されたし、宇賀那自体も砲撃によって廃墟同然の状態だ。今更、そんな所に行ってどうするのだろうと佐村も思った。

 

「あの村の地下には、未だに深き者と人間の混血たちが隠れている。そいつらを狩りだして、一か所にまとめて欲しいのだ。できれば、別動隊との戦闘で傷ついた深き者も捕獲してくれ」

 「そんなことをしてどうするのだ? 捕虜を取ったところで、奴らの神が復活してしまえば意味がないと思うが」

 「貴殿らには関係のないことだ。深き者共を集めた後の処置については我々に任せて頂ければいい。それより、貴殿らは貴殿らの任務を実行したまえ」

 

松田と幕僚たちは顔を見合わせた。実田の要求は余りに意味不明だ。だから、彼らがそれを実行するべきか戸惑うのも無理はないが。

 

「小官は実田氏の提案に従うべきと考えます。クトゥルフの落とし子を倒すことが出来たのも、セラエノ神智教会の指示のお陰ですし」

 

それでも佐村はそのような意見を出した。これまでの戦いでは、実田たちの指示は大体正しかった。だから、今回もそれに賭けてみようと考えたのだ。

 

「成程、道理だな。それに、生き残っている深き者を掃討する必要があるのは確かだ。いつまた他の村を襲撃し始めるかも分からんしな」

 

これまで沈黙していた滝村参謀長が言った。これで議論の流れは定まった。



 



夕暮れに近い陽光が、異様な集団を照らし出していた。破壊された宇賀那の家屋の下に、必ずと言っていい程存在した地下室、そこに隠れていた数百人を軍が引っ張り出したのだ。

 彼らは基本的には人間に見えたが、その姿はどことなく歪んでいた。肌は死体のように灰色を帯びていて、所々に鱗状の部分がある。目には瞼がなく、顔から飛び出しているようにも見える。彼らのうち何人かの手には、水かきのようなものもついていた。

 その隣には旧高木連隊(現在は北本中佐が指揮)が回収してきた、深き者の負傷者が転がされている。宇賀那の地下にいた人々と彼らの容貌には、明白な類似性があった。もちろん、深き者のほうがより異様な姿をしているが。

 

「ご苦労。貴軍はよくやってくれた。もう帰ってもらっていい」

 

実田がその光景を見ながら尊大な態度で言った。彼とセラエノ神智教会の姿を見て、連行されてきた宇賀那住民はざわめいた。セラエノ神智教会のことを知っているのか、単に異様な風体に驚いたのかは不明だが。

 

「帰っていいとはどういうことだ?あなた方はこれから何をする気だ?」

 

佐村少尉は聞き返した。宇賀那の住民は深き者になりきった者も含めて全員拘束したので、これ以上の戦闘がないという意味だろうか。だがそれにしても、拘束した連中をセラエノ神智教会だけで連行するのは難しいはずだが。

 

「クトゥルフは復活しつつある。我々はそれに対抗するための儀式を行うつもりだ。儀式の方法を我々しか知らない以上、貴軍がいても意味がない」

 「住民はどうする気だ? セラエノ神智教会だけで見張れるのか?」

 「それについても心配してもらう必要はない」


「連隊長、いかがなさいますか?」

 

清水作戦参謀が松田連隊長に困惑したような表情で言った。実田の言う通り、軍を帰還させてよいものか。それが原因で宇賀那住民が逃げ出したりすれば、のちに禍根を残すことになるのではないか。

 

「まあ、ここにいたいというならそれで構わん」

  

実田はいかにも面倒そうにそう言うと、それきり何を言われても無視する姿勢を取った。そして彼とセラエノ神智教会は、奇妙な呪文を唱え始めた。


いあ いあ はすたー はすたー くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん 

ぶるぐとむ あい あい はすたー

いあ いあ はすたー はすたー くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん 

ぶるぐとむ あい あい はすたー

いあ いあ はすたー はすたー くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん 

ぶるぐとむ あい あい はすたー

 

 その呪文は深き者が使用していた呪文とは違っていたが、響きには何か共通するものがあるようにも感じられた。おそらく、同じ言語体系からなっているのではないだろうか。

 そして、軍によって一か所に集められていた宇賀那住民は、その呪文を聞いた瞬間苦悶の声を上げ始めた。ある者は地面をのたうち回り、ある者は大きく震えながら空を掴む。何が起きているのかは全く分からないが、呪文が彼らに凄まじい苦痛を与えていることだけは分かった。

 

やがて宇賀那住民は全身の穴から夥しい血を噴き出し始めた。目、鼻、口、耳から毛穴に至るまで、あらゆる部分から赤黒い液体が流れ始めたのだ。クトゥルフの落とし子が軍に対して使用した魔術ともまた違う、異様な現象だった。

 魔術の効果なのか、深き者の血が混ざっている者の肉体が頑丈なせいかは不明だが、宇賀那住民の中に死んだり気絶したりするものは出なかった。自らが流した血の中に全身を浸しながら、彼らは弱々しく動き続けている。

 

彼らの血が流されるごとに、呪文は力強さを増していくように感じられた。周囲の森では大量の鳥が鳴いているようだが、もはやその声は呪文の陰に隠れていた。そして深き者の呪文が引き起こしたあの感覚、自分たちが全くの異世界に放り込まれたような感覚が将兵を襲う。

 

「こういうことか」

 

佐村少尉は絶句した。セラエノ神智教会が宇賀那住民の連行を要求した理由がやっとわかった。彼らは深き者が人間を生贄にしたのと同じように、深き者を生贄にする気だったのだ。


いあ いあ はすたー はすたー くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん 

ぶるぐとむ あい あい はすたー

いあ いあ はすたー はすたー くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん 

ぶるぐとむ あい あい はすたー

いあ いあ はすたー はすたー くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん 

ぶるぐとむ あい あい はすたー

 

 3月の夕暮れ近くとはいえ沖縄の日差しは肌に突き刺さるほどに強い。その強烈な陽光の中、呪文の詠唱は続く。宇賀那住民は相変わらず苦悶している。

 今や彼らは全身から血を噴き出しているだけでなく、身体を原型をとどめないほどに破壊されていた。構造上あり得ない方向に曲がった手足の指先だけが痙攣を続け、辛うじてまだ立っていた者の背骨が砕け、上体が120度ほどの角度で下に曲がる。

 

 儀式を為すすべもなく見ていた将兵の多くが、その光景を見て吐き気と共に怒りを感じた。深き者と混血している可能性が高いとはいえ、宇賀那住民の多くは人間の形をしている。さらにもしかしたら、深き者に連行されてきただけの人間、無辜の被害者もいるかもしれないのだ。

 その宇賀那住民をセラエノ神智教会は余りにも残虐な方法で殺している。住民が極限の苦痛に苛まれていることは、彼らの表情を見るまでもなく明らかだ。

 

 「これは…」

 

 佐村の近くにいた滝村参謀長も、あまりに無残で不愉快な光景に言葉を失っていた。

「これは…」の続きは発音されなかったが、おそらくこう言いたいのだろう。「一応は人類の、日本国民の血が混ざっている連中に対して、このような行為を行ってもいいのかと」。

 


 だが滝村も松田連隊長も、実力行使を行って儀式を中止させるという命令は出さなかった。実田の言葉が正しいとすれば、この儀式はクトゥルフの復活を阻止するためのものだ。いかに不愉快であれ、止めるわけにはいかない。

 それに、宇賀那の住民は現在は人間に近い姿をしていても、いずれは深き者に変貌する。となれば、生かしておくべきではない。セラエノ神智教会が彼らを処分してくれるなら、それに任せるべきだと松田達は思っていた。

 

 呪文の詠唱はいよいよ最高潮に達したようだ。既知のあらゆる言語体系から外れた言葉が、将兵たちの聴覚、さらには精神を埋め尽くしていく。

 彼らの一部は血を流し倒れていく宇賀那住民の身体をまさぐる何かを見たように思った。それは天空から、あるいは異界から伸びるもの、強いて言えば触手のように見えた。烏賊や蛸のそれを思わせる柔軟で粘液質の触手が、宇賀那住民の身体に巻き付き、侵していく。

 

 それと同時に微かな歌のような音が聞こえた。限りなく透明なその音は詠唱される呪文の中に潜んでいるが、どこかにその存在を顕していた。音は流れ続ける。どことも知れない異界から、ただ透明に。

 そして彼らのさらに一部は、巨大な湖とその畔にたつ城館を幻視した。湖の黒い水面には二つの月が浮かび、忘れ去られた城館の上をただ風が吹き続けている。「カルコサ」、「ハリ湖」、「黄衣の王」、訳もなくそんな言葉が脳裏に浮かぶ。

 

 ハスターが降臨する。彼らは直感的にそれを悟った。


 





 「くそ、どうするんだ!?」

 

 グスタフ・ヨハンセンは快速船、アラート号の上で絶叫した。今そこにいるのは彼一人だけ。正確にはもう一人いるが、彼は全く意味をなさない言葉を不定期に呟いているだけだった。

 残りの船員が全滅する中、ヨハンセンと共にアラート号に乗り込んだもう一人の船員、ブライドゥンは船がヨハンセンの操舵であの怪物に突撃した瞬間に、壊れた。かつては優秀な船乗りだった男は、今や最低限の意識すら持たない抜け殻と化している。

 

 自分も彼のようになってしまえばいい。ヨハンセンは心からそう思った。そうなれば救われる。アラート号の背後にそびえたつ怪物の存在と恐怖から。

 船のエンジン音の中、ヨハンセンは呆けたように後方、海図にない島とそれを覆い隠すように立つ巨大な怪物を見つめていた。まるでそうすることで、自分もブライドゥンと同じく、恐怖が存在しない世界に行けると期待しているかのように。

 


 ヨハンセンの後方にいて、その巨大な手をこちらに伸ばしている怪物は、おそらく数百メートルの大きさがあった。怪物、いやそれはもはや「神」と呼ぶべき存在なのかもしれない。途方もなく強大で、理不尽な存在。それが神の定義だとするなら。

 吐き気を催すような不快な濃緑色の怪物は蛸のそれを思わせる巨大な頭部を持ち、そこを含む全身からこれも頭足類を思わせる長い触手が伸びていた。

 頭部の下に続く胴体は人間のそれに近いが、全身が爬虫類のような鱗で覆われている。不釣り合いに長い腕には巨大なカギ爪が備わり、そのカギ爪がアラート号めがけて伸びていた。

 

 この怪物を人界の言葉で表現するなら、蛸と竜と人を合わせたようなとでも言えばいいのだろうが、そのような表現は怪物の本質について何も語っていないと言えるだろう。姿について如何なる描写を行ったところで、この怪物の悍ましさは表現できまい。 

 突如南太平洋に浮上した奇怪な島から出現した怪物は、明らかにこの世ならざる存在だった。ヨハンセンはその姿を見た瞬間に、それを悟っていた。

 このような生物が通常の進化によって現れるはずがない。いや、これはそもそも生物などではないのだろう。神、あるいはそれに類するものだ。

 


 ヨハンセンの乗るアラート号は、先ほどこの怪物に突撃してその体内を突き抜けていたが、怪物がダメージを受けた様子はない。そして怪物の巨大な腕は、アラート号を叩き潰すべくこちらに向かって振り下ろされている。

 数百メートルの巨体のため緩慢に見えるが、実際には恐ろしく速いのだろう。ヨハンセンは他人事のようにそう思った。あの腕がアラート号を捉える瞬間に、自分の人生は終わる。

 それでいいのかもしれない。もはや自分は知ってしまった。普段は海底に眠っているのであろうこの怪物の存在を。その圧倒的な力を。

 

 人類の支配は仮初めのものに過ぎなかった。これが目覚めた以上、矮小な裸のサルは地上から駆逐される。そしてこの怪物、いや神とその眷属が支配する世の中になるのだろう。

 無知とは何と幸福なことか。人類はこれまで知らずに済んだのだ。この世ならざる存在が、この銀河系辺境の一惑星に眠っていることを。自分たちの支配は、その存在が束の間眠りについた僅かな時間、火の粉が一瞬舞い上がるほどの刹那の出来事に過ぎないことを。

 

 ヨハンセンは目を見開いて、アラート号めがけて振り下ろされる怪物の腕を凝視した。自分の生命はあと数秒で終わる。ならばせめて、終末をもたらす者の姿を見据え続けよう。

 だが次の瞬間に起きたことは、ヨハンセンの理解を全く超えていた。怪物の腕に天空から降りてきた触手のようなものが巻き付き、その動きを止めたのだ。

 ヨハンセンは全く思いもよらぬ出来事に唖然とした。何が起きたのだ。そして空を見上げて絶句した。そこにあるのは蒼穹でもなければ、雲でもなかった。

 



 今はまだ昼間のはずだった。だが頭上に広がっているのは暗黒の空間だった。いや空間ではない。湖だ。途方もなく巨大な湖の黒い水面が空を覆い尽くしているのだ。水面には複数の月と巨大な星々が浮かび、こちらに向けて微かな光を投げかけている。

 そして唐突に不思議な感覚が現れた。この世のいかなる言語とも異なるが、確かに意味を持つであろう何らかの旋律が感じられる。信じがたいほど美しいが、それでいて恐ろしい声が。

 それは何か、オペラで使われる戯曲のようだった。ただ限りなく透明で、にも関わらず奇妙かつ激烈な感情を掻き立てる声。それがヨハンセンの脳髄に浸透していく。

 

 声を夢見るような気持ちで聞いていたヨハンセンは、背後の島にある神殿から現れた怪物の咆哮を聞いて我に返った。そう、先ほど怪物はあの湖から伸びてきた触手によって動きを止められたのだ。そして今、怪物はその触手を振りほどこうとしていた。


  「助かったのか?」

 

 ヨハンセンは誰にも聞き取れない呟きを発した。彼の乗るアラート号は現在、エンジンを全開にした状態で進んでいる。後何秒かすれば、怪物の腕が届かない場所まで出られるはずだ。

 ヨハンセンは後方の怪物ではなく、空から伸びてきた触手を凝視した。あれは何なのだろう。少なくとも怪物と敵対しているのは確かなようだが、全く正体は分からなかった。

 

 やがて怪物は触手を振りほどくと、一際巨大な咆哮を上げた。するとそれに応えるように、上空の暗い湖から何かが出現した。ヨハンセンは虚ろな目でそれを見た。

 何か触手に覆われた奇妙な塊、全体の印象は巨大なトカゲを歪めて頭足類の特徴を加えたように感じられる。湖から出現したのはそのような存在だった。

 おそらく浮上した島から現れた怪物と同じくらいの大きさがあり、全身からあの声、南極の氷塊のように透き通った旋律を分泌している。

 

 正常な感覚をもってすれば悍ましいと感じるはずなのに、途切れる間際のヨハンセンの意識は何故かこれを美しいと感じていた。そしてあの怪物たちの姿も。

 常人には理解できない作品を生み出した芸術家たちの何人かは、おそらく彼らを理解したのだろう。常人の矮小な意識では受容不可能な存在を。

 彼らの多くが発狂したのも当然だ。サバンナでの狩猟のために設計されたに過ぎない人間の精神では、決して耐えられないものを知覚してしまったのだから。

 


 島から出現した怪物は、ヨハンセンから視線を逸らすと、空から現れた怪物の方に向き直った。2体の怪物の触手が激突する。人間には受け止めることが出来ない巨大な意識の波が、ヨハンセンの精神を直撃した。

 ヨハンセンの瓦解しかかった意識の一部に、激突の余波を食らったあの島の輪郭が大きく歪む様子が映った。ヨハンセンたちを襲った怪物は、さらなる怒りの声を上げる。その声を聴いたとき、ヨハンセンは自らの精神を支えていた支柱が砕けるのを感じた。

 

 忘却という恩寵がヨハンセンの意識を覆っていく。彼は意識を失う瞬間までただ二体の怪物、いや二柱の神を見つめていた。宇宙的な力、彼らはずっと戦い続けてきたのだろう。その足元を這いずり回る卑小な存在のことなど気にもかけずに。

 彼の背後ではルルイエが沈み始めている。それはひとまず、人類が「今回」を乗り切ったことを意味していた。幸運にも、人類のうちほとんどがそれを知ることはなかったが。

 

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