艦隊来援
作品中の日本海軍第一艦隊の編成は史実と異なる可能性があります。本作に登場する陸軍部隊は完全な架空の存在ですが、海軍部隊も似たようなものだと思ってください。
「何が暴動の鎮圧に協力しろだ。あんな化け物と戦っているなど聞いていないぞ」
日本海軍第一艦隊司令官の岡田大将は、旗艦長門の艦上でクトゥルフの落とし子の巨体を眺めながら呟いた。
彼の指揮する第一艦隊は日本海軍の主力戦艦全てを集中配備した部隊で、高知県の沖合で演習中だった。そこに陸軍から、沖縄北部の宇賀那という村において銃で武装した暴徒が暴れているので、海軍も鎮圧に協力してほしいとの要請が入ったのだ。
第一艦隊としては、別にこの要請を無視してもかまわなかった。陸軍に海軍部隊への命令権はないのだ。それに相手は軍艦でも要塞でもなく銃で武装した人間、それの相手をするのは陸軍の仕事であるはずだ。少なくとも、戦艦まで連れてくる必要など何もない。
だが海軍大臣は岡田に戦艦部隊を連れて宇賀那に急行するよう命じた。陸海の違いはあれど同じ皇軍どうし助け合うべきだと美辞麗句をこねていたが、あのわざとらしい口調からすると、本音は別のところにあったのだろうと岡田は思っている。
どこの国でもそうだが、海軍と陸軍は非常に仲が悪い。その陸軍がなぜか海軍に支援を要請してきた。ここで貸しを作っておけば来年度の予算配分を始めとする権力争いで優位に立てると、海軍大臣は考えたのだろう。
それでも岡田が素直に命令を聞いてここまで戦艦部隊を連れてきたのは、彼自身この要請は受けるべきだと考えていたからだ。
日ごろ対立意識を隠さない陸軍が、その節を曲げてまで依頼してくるのは信じがたい程異例の事態であり、敵は非常に強力な武器を持っていて訓練も行き届いていると考えられる。ということは敵は「暴徒」ではなく、外国の支援を受けた軍事組織ではないかと岡田は疑ったのだ。
そして陸軍と警察は、日本国内で組織された敵性の軍事組織が数千人規模になるまで、自分たちがそれを発見できなかったことを隠すために、「暴徒」という表現を使っているのではないかと。
であれば、確かに海軍も出撃すべきだ。岡田の予想通りなら今回の事件には外国勢力、具体的にはフィリピンに展開するアメリカ軍や、シンガポールに駐留するイギリス軍、あるいはインドシナに展開するフランス軍が関わっている。
単純に暴徒を鎮圧するだけなら駆逐艦で十分だが、敵艦隊が暴動に呼応して出撃してくる可能性を考えれば戦艦も出すべきだろう。
それに戦艦という艦種は海軍の象徴であり、その巨体で暴徒を威圧するとともに海軍の本気度を見せつける効果もある。場合によっては戦艦の姿を見せただけで、敵部隊は投稿するかもしれない。
そのような思惑を胸に宇賀那まで来てみたが、実際にそこで目にしたのは軍隊同士の衝突ではなかったし、ましてや暴動でもなかった。巨大な化け物と、それに蹂躙される味方の兵士たちだったのだ。
陸軍部隊を追い回していたその化け物は、ゆっくりと第一艦隊のほうを向いた。姿からはどちらが前でどちらが後ろなのかも分からないが、着弾を見て姿勢を変えた以上、今艦隊に向いているほうが前なのだろう。
蛸を途方もなく巨大にしてさらに醜悪にしたような姿は、10km以上離れた戦艦の艦上から見てさえ、胸が悪くなるほどに不気味だった。
そこからかなり離れた位置に、第一艦隊の戦艦群が放った砲弾が続けざまに落下していく。
地上に落下した砲弾は付近の木造建築を跡形もなく吹き飛ばし、一帯を巨大なクレーターを含んだ更地に変える。漁港内に落下した砲弾は周囲の木々の10倍を超える高さの水柱と高波を発生させ、繋留されていた粗末な漁船を次々に転覆させた。
「どう出る」
岡田は怪物を見据えた。敵が人間であれば嫌でもこちらの存在に気づくはずだが、相手は化け物だ。起きていることを知覚する能力を持っているかは分からない。
知覚したとして、どういう行動で艦隊の出現に応えるかも不明だ。岡田が想定していたような準軍事組織なら戦艦の主砲を向けられた時点で投降するだろうが、あの怪物にそのような発想があるはずもない。
岡田が座上する長門と他の5隻の戦艦の主砲はしばし沈黙した。相手の出方を伺っているのだ。動きがなければ、砲撃を再開する予定だったが。
「正体不明の敵、こちらに向かってきます。陸軍部隊への追撃は中止した模様」
その報告を聞いて岡田はとりあえず作戦が図に当たったことを知った。怪物と味方の陸軍部隊はかなり近くにいて、下手に撃てば友軍を誤射する危険があった。そこで岡田は怪物ではなく海岸を一度砲撃し、相手の注意をこちらに逸らすよう命じたのだ。
「陸軍部隊は撤退中、森の中に逃げ込みました。怪物は尚もこちらに接近中」
新しい報告が入った。怪物と陸軍との距離は十分に離れたようだ。やっと本格的な戦闘ができる。
「射撃を再開する。目標は宇賀那を歩行中の怪物、使用弾は榴弾」
岡田は新たな命令を出した。今第一艦隊には6隻の戦艦がいる。長門型戦艦2隻は40センチ砲8門、各2隻の伊勢型戦艦と扶桑型戦艦は36センチ砲12門を持つから、怪物に対して指向される火力は戦艦の主砲だけで40センチ砲16門、36センチ砲48門となる。
さらに戦艦の副砲と、巡洋艦や駆逐艦の砲が加わるのだ。これだけの火力を浴びて耐えられる生物など存在しないはずだ。
上甲板の乗組員が主砲発射時の爆風で吹き飛ばされるのを防ぐため、射撃開始を知らせるブザーが艦上に鳴り響いた。合わせて長門の4基の40センチ連装砲塔が、甲板上で旋回と射角の調節を開始する。
数十秒後、岡田を始めとする長門の艦橋要員は巨大な衝撃と轟音を聞き、凄まじい量の硝煙が立ち上るのを見た。長門が誇る40センチ砲、世界最大の戦艦主砲が日本に仇為す敵に対して初めて火を噴いたのだ。ただし敵は外国の軍艦ではないどころか人類ですらない、異形の怪物であったが。
南緯47度9分、西経126度4分にて。
象形文字に覆われた緑色の扉は、ブライドゥンの言葉通り外側に向かって動いていた。扉が開くにつれて、「それ」が動く音も大きくなっていく。
ヨハンセンは魅入られたように開口部から建物の中を覗き込んだ。そこには圧倒的な闇が広がっていた。
午後の強烈な陽光が背後から照り付けているにも関わらず、中の存在が照らし出されることはない。ただ凄まじい悪臭と気配だけが、実体を持つ存在であるかのように島を動いている。
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
いあ いあ くとぅるー ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるなふ くとぅるー るるいえ うがなぐる ふたぐん
理解不可能な言語体系から生み出されるあの耳障りな声もまた、悪臭と気配に匹敵するほどに濃密に漂っていた。さっきの死体は銃弾で破壊したはずなのに、その声はますます強くなっている。
「ど、どこから聞こえてくるんだよ!?」
ブライドゥンが喚いた。彼が精神の均衡を失いつつあることを、ヨハンセンはうっすらと悟った。そういう自分はどうなのかと、どこか他人事のように思いもする。そもそもこの島において正気などというものは存在しないのではないか。
悪臭が一段と強くなった。建物の中にいたものが外に出ようとしているのだ。
「それ」はゆっくりと扉から出てきた。まず粘液に塗れた巨大な蛇のようなものが、奥の闇から突き出してきた。物体はしなやかに虚空を這い回りながら、段々と長く伸びていく。
ただ、出てきた建物と比較すれば、物体の大きさはむしろ過少とも言えた。身構えていたヨハンセンは一瞬の安堵のようなものを覚えた。あの程度なら、予想していたより小さいではないか。
ヨハンセンたちの感想をよそに、蛇のような物体は扉に取り付くと、それをさらに大きくこじ開け始めた。ヨハンセンたちはその様子をぼんやりと見ていた。逃げなくてはいけないはずなのに、眼前の光景からどうしても目を逸らせなかったのだ。
建物の中の闇が大きく揺らいだ。この世の邪悪と悪意を全て集めたかのような、あるいは悪意ですらない理解不能な力を湛えた瘴気が、その闇の中から流れ出してくる。
ヨハンセンたちは自分たちの間違いに気づいた。この世にいるどんな蛇よりも大きいあの触手は、建物中にいるモノのほんの一部に過ぎない。本体はまだ中にいて、これから出てくるところなのだ。
扉が完全に開いた。相変わらずその中は闇に覆われているが、「それ」の存在は白昼に視覚で感知できるどのようなものより強く感じられる。
触手に覆われ、先端にカギ爪が付いた途方もなく巨大な足が、唐突にヨハンセンたちの目の前に突き出された。その指の一本の高さは、人間の背丈を超えていた。 彼らは呆けたように上を見上げた。そこにはいつの間にか新しい山が突き出していた。いや、そこからも触手が伸びて動いている。圧倒的な大きさのせいで即座に認識できなかったが、これが頭部なのだ。
奇形の頭足類を思わせる「それ」の頭部は、ゆっくりと神殿の内部から這い出してきた。腐ったような濃緑色の地肌からは、血とも膿とも体液ともつかない液体が終始流れ出している。
どこが目なのかすら分からなかったが、「それ」が自分たちの方を向いていることをヨハンセンたちは即座に悟った。そして、彼らの意識は圧倒的な恐怖と混沌で埋め尽くされた。




