第十一話④ また、なってもいいよ
夜が更けていた。
居間に全員がいた。夕飯の片付けが終わって、一が茶を淹れ直していた。ななせがテーブルの前で雑誌をめくっている。好が窓際でスマホのメモを打っている。千は——お茶を飲み終わり、二階に上がっていた。
律は居間の隅で座っていた。四つの波を見ていた。ななせの二重波形は穏やか。好の心拍リズムは落ち着いている。一の波紋はさっきまでの鋭角が消えて、元の広がりに戻っている。千の断片化は——まだ続いているが、暴走前の速度まで落ちている。日常の千の波だ。
洗い物の音が止まった。一が台所から出てきて、スリッパの音を立てて二階に上がっていった。千のところに行くのだろう。律にはわかっていた。ドミノが止まっても——千が固まったことを一は覚えているから。
律は動かなかった。
しばらくして——縁側に二人の影が見えた。一と千が。廊下を通って縁側に出たらしい。昼間と同じ場所に並んで座っていた。庭に面した縁側。夜の空気。月明かりが庭の雑草に影を落として、一が水を撒いた痕跡が土の色の濃淡になって残っている。
律は居間から動かなかった。引き戸の隙間から射す月明かりの中で——一の穏やかな波紋と千の断片化する波が隣り合っているのが見えていた。
千が口を開いた。
「……見えなくなるかもしれない。一さんのことも」
千の声は平坦だった。十三歳の声。ゲシュタルト崩壊を抱えた少女が自分の呪いを記述する声。今日崩壊しかけた事実を、静かに確認する声。
一は黙っていた。
千が続けた。声が少しだけ震えた。
「律に止めてもらった。でも——また、こうなると思う。一さんの顔を見て、好きだと思って、そしたら——また、見えなくなる」
千の口から出た「また」は——呪いの音だった。律はその音を知っていた。何かを諦めた人間が繰り返しに名前をつけるときの音。千はこの二文字を生活の一部として使っている。また見えなくなる。また崩壊する。また一さんの顔がわからなくなる。千にとっての「また」は未来の予告であり、過去の総括であり、現在の呪いだった。
千の波が揺れていた。断片化が少しだけ速くなった。でも暴走ではない。暴走の手前にある、ただの——恐怖だった。繰り返しを知っている少女の、静かな恐怖。
一が千を見た。
「うん。知ってる」
穏やかな声だった。バーナム効果の波紋ではなかった。誰にでもしっくりくる言葉ではなかった。律の視界の中で——一の波が動いていた。穏やかな波紋の中から、波紋の一つが千のほうに向かって伸びていた。全方向ではなく、千の方向にだけ。意図的に。一つだけ。
一の波が——律がこれまで見たことのない形をしていた。波紋が千に向かって伸びる動きは今日の午後にも見た。千の暴走を止めた時にも。でも今の波は——そこに意志が乗っていた。バーナム効果の自動的な広がりではない。一自身が選んで、千に向けて、波を差し出している。
蝉の声が止んでいた。七月の夜の空気だけが縁側を包んでいた。
「また、なってもいいよ」
一の声が、夜の空気に溶けた。
律は一の波を見ていた。千に向かって伸びた波紋が——千の断片化する波に触れていた。砕けなかった。一の波は千の波に触れて、砕けなかった。ことわりつきの壁を越えたわけではない。壁の外側から手を伸ばしている。壁があることを知った上で、それでも。
千の目から涙が出た。
声はなかった。声が出る前に涙が出た。十三歳の目から、月明かりの中で、涙が一筋こぼれた。止まらなかった。千は泣いていなかった。泣いていないのに涙だけが出ていた。呪いを肯定された瞬間の涙は、悲しみとか喜びとか、そういう分類に入らない涙だった。
一が千の頭に手を置いた。千の銀髪が一の指の間をすり抜けていった。千が一の膝に額を押し当てた。声のないまま、肩だけが小さく震えていた。
律の視界の中で——千の波が変わっていた。
断片化は止まっていなかった。相変わらず繋がりかけて切れている。一に向かう波は相変わらず途中で砕けている。ことわりつきは消えていない。呪いは消えていない。
でも——砕けた波の破片が、散らばらずにとどまっていた。一の波紋が千の破片を受け止めている。散逸を防いでいる。
言葉が浮かんだ。律の中で。自分でもどこから来たのかわからない言葉。でも今この瞬間——はっきりと。
「(——呪われたまま、隣にいていい。そういうことなんやね)」
律は居間から動かなかった。ここは二人の場所だ。律が入る場所ではない。
ななせが律の横に座っていた。いつのまにか。雑誌を閉じて、引き戸の隙間から縁側を見ていた。ななせの二重の波形が——穏やかに揺れていた。何も言わずに。
ななせが律の手の甲に指先を乗せた。軽く。
律はその指先を感じた。ななせの指。四十二ヶ月と四十四ヶ月を一緒に落ちてきた指。
律は手のひらを返して、ななせの指を包んだ。
何も言わなかった。何も言う必要がなかった。
---
一と千が縁側から戻ってきた。千の目は少し赤かったが、泣き顔ではなかった。泣いた後の顔ではなく——何かが抜けた後の顔だった。居間に入ってきた千が一の背中の後ろに隠れるようにして座ったのを、律は見ていた。千の波は断片化を続けている。でも波の温度が変わっていた。さっきまでの冷たい恐怖の層が、少しだけ——薄くなっている。
一がお茶を淹れ直した。千の分も。千はお茶を両手で包むように持って、湯気を見ていた。一が「千ちゃん、お菓子もあるよ」と言って、棚から煎餅を出した。千が一枚取って、小さく齧った。
律は——畳の目を指でなぞりながら、その光景を見ていた。これが、ドミノが倒れなかった夜の風景だった。前のループでは見られなかった光景。千が居間にいて、煎餅を齧っていて、一がその隣にいる。これだけのことが——八十六ヶ月かかった。
好が「私もお茶」と立ち上がった。ななせが「私はジュース」と言った。律は「俺もお茶で」と言った。
五人が居間にいた。いつもの夜だった。
律は四つの波を見た。暴走の痕跡は残っている。完全に安定しているわけではない。でも今夜は——静かだった。
ななせが「暇だから律の手相見てあげる」と律の手を引っ張った。
「意味あるんそれ」
「ない! でも楽しいから」
好が横から「ちなみに手相占いもバーナム効果の一種だよ」と言った。一が「えっそうなの」と驚いた。千が——小さく笑った。
律はその笑い声を聞いていた。千が笑っている。さっき泣いていた千が笑っている。一が隣にいて。居間の蛍光灯の下で。
ふと——庭のほうから、かさかさと音がした。
律が縁側のほうを見た。庭の低い塀の上を、茶色い猫が一匹歩いていた。塀の端まで歩いて、ぴょんと降りて、庭を横切って消えた。
二秒後。
同じ茶色い猫が、同じ塀の上を、同じ方向に歩いてきた。同じ速さで。塀の端まで歩いて、ぴょんと降りて、庭を横切って消えた。
ななせが顔を上げた。
「あ——デジャヴ、見えた」
律は猫が消えた方向を見ていた。身構えた。前のループでは——猫が何十匹も続いた。暴走の前兆だった。大デジャヴの直前だった。
——何も起きなかった。
猫は二匹目で終わった。三匹目は来ない。庭は静かだった。虫の声だけが聞こえていた。
ななせが首をかしげた。
「……あれ。なんも起きない」
ケロッとした声で。
「まあいっか」
笑って、律の手相に戻った。
律は庭から視線を居間に戻した。ななせがいる。好がいる。一がいる。千がいる。四人の波が律の視界で揺れている。穏やかに。
「(止めた。今回は止められた。ドミノが動かなかった。千ちゃんの波の核に触れて、一さんの尖りの根元に触れて——暴走を止めた。外部伝染は起きなかった。定理過剰の条件は満たされてない)」
しかし、千のことわりつきは消えていない。一のバーナム効果も消えていない。暴走を止めただけだ。ループの仕組み自体は消えていないだろう。ななせのデジャヴは健在だ。新たな条件が揃えば——ドミノは起きうる。暴走が起きれば外部伝染が始まり、定理過剰が発動し、リセットがかかる。ループ二十四回目が始まる。
でも——今夜はドミノが起きなかった。十日目を過ぎても、千は出ていかなかった。一は泣かなかった。好は走らなかった。ななせの波に嵐は来なかった。
それは初めてのことだった。
律が記憶を持つ三回のループの中で——初めて、ドミノが倒れなかった夜。前の前のループではドミノを止められずに終わった。前のループでもドミノを止められずに終わった。今回は——止めた。
律はその思考を止めた。
今夜は、考えなくていい。
ななせが「律の将来を当てます」と真面目な顔で言った。
「律は将来——いいことがあります」
「ざっくりしすぎやろ」
好が「バーナム効果の教科書に載せたいレベルのセリフだった」と言った。一が笑った。千が笑った。
律は——笑った。
畳の感触が脚にあった。一が淹れたお茶から湯気が上がっている。縁側から七月の夜風が流れ込んでいる。ななせの指がまだ律の手のひらの中にあった。温かかった。
四つの波が揺れている夜の居間で。答えは出ていない。でも今夜は静かだった。猫が二回通って——何も起きなかった。それがどれだけ贅沢なことか、律はもう知っていた。




