AI小説は、有りだと思う。~ただし、現状においては、という条件つきで。~
AI小説は、有りだと思う。
ただし、現状においては、という条件つきで。
AI小説への批判は、だいたい三つに集約される。「面白くない」「違和感がある」「自分で書いたものじゃないのに自分の作品と称するのはおかしい」。どれもわかる。特に三つ目は、創作の倫理に触れる問いだ。
けれど、少し立ち止まって考えてみると、手書きの小説だって、一人で全部作っているわけじゃない場合が多い。編集者が構成を直す。校正者が文章を整える。プロットを誰かに相談することもある。漫画なら原作と作画が分業し、映画やゲームはそもそも集団制作だ。ゴーストライターが関わる作品も、昔からある。
「他者が関与したら自分の作品ではない」とは、言い切れないはずだ。問題は、AIを使ったかどうかではなく、作者がどこまでその作品に関与しているか、だと思う。最終的な表現の責任を誰が持っているか。方向性を誰が決めたか。そこに、作者自身の感性や判断が入っているか。
AIに「異世界ファンタジーを書いて」と丸投げして、出てきた文章をそのまま投稿する。これは作者性が薄い、と言われても仕方ない面がある。でも、世界観を考え、キャラクターを決め、テーマを持ち、AIの提案を取捨選択し、違和感のある表現を直し、何度も対話しながら磨き上げるなら——それは立派な創作行為だと私は思う。
AIは便利な道具だ。でも、丸投げして面白い小説が書けるわけじゃない。小説に必要なのは、きれいな文章よりも、「何を面白いと思っているか」「どこに怒っているか」「何を信じているか」——そういう作者の核だ。AIだけでは、ここが弱い。人間がここを持ち込んで初めて、AI小説は力を持つ。
もっとも、「現状では」という条件を私がつけるのには、理由がある。
AIの発達は凄まじい。数年分の対話データを学習すれば、特定の人間の発想に近い文章を生成することが、技術的には不可能ではなくなりつつある。そうなった未来に、「人の手が必要」という条件は消えるかもしれない。
だから今、問いはここに来る。
AIが自分の代わりに書けるようになったとき、それでも自分が書く意味は何か。
その問いに答えを持っている人が書いた作品こそが、AI時代の「本物の創作」になるのかもしれない。今のところ、私はまだその問いと格闘しながら書いている。




