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『泡粒と血流』柳井正

初秋の冷気が、有明のファーストリテイリング本部の窓ガラスを静かに冷やしていた。


眼下に広がる東京湾の波面は、鈍い鉛色の光を反射している。広大な執務室の中央、無駄な装飾を一切削ぎ落としたデスクの前に、柳井は立っていた。姿勢は崩れず、小柄な身体からは、室内の空気を張り詰めさせるほどの密度を持った気迫が漂っている。


机の上に置かれたタブレットには、最新の世界長者番付の速報が表示されていた。

「柳井正と家族、資産総額 約9.89兆円――」


傍らに立つ秘書室長の木村が、恐る恐る口を開いた。息を潜めるように、しかし確かな興奮を滲ませた声だった。


「会長、ご覧になりましたか。9兆8000億円を超えました。国家予算並みの数字です。もはや世界でも指折りの……」


柳井はディスプレイからすっと視線を外し、木村の顔を正面から見据えた。その瞳には、歓喜の色など微塵もなかった。あるのは、氷のように澄んだ、冷徹なまでの現実主義だった。


「木村君、君は通帳の数字が増えたら、服の縫製が勝手に美しくなるとでも思っているのか?」


「えっ……いえ、そういうわけでは……」


「くだらない」


柳井は短く、吐き捨てるように言った。その声は決して怒鳴り声ではない。だが、鋼の針のように木村の鼓膜を刺した。


「そんなものは、ただの『結果の残骸』だ。市場が勝手につけた今日の評価にすぎない。明日、世界中の消費者がうちの服に背を向けたら、一瞬で消し飛ぶ泡粒だ。9兆円? だから何なんだ。それで明日、世界一良いカシミヤセーターが作れるようになるのか? 違うだろう」


窓の外の空を、一筋の旅客機が横切っていった。柳井はその航跡を目で追いながら、静かに息を吐いた。


「金を目的に商売を始めた奴は、必ず守りに入る。守りに入った商人は、その瞬間から死に始めるんだ。商売は毎日が真剣勝負なんだよ。昨日勝ったからといって、今日の試合に1点もアドバンテージはない」


柳井は机の上のシンプルな黒い手帳を手に取った。革の表紙は長年の使用で端が擦り切れ、幾重にも及ぶ思考の痕跡を物語っている。


「山口の、宇部のちっぽけな紳士服屋から始まった。親父の店を継いだとき、社員はみんな辞めていったよ。僕のやり方についていけないと言ってね。あのときの悔しさと孤独、君にはわかるか?」


「……想像を絶するものがあったかと拝察します」


「想像なんてしなくていい。事実、僕には何もなかった。金も、名声も、人望すらもね。残ったのは、たった一人の店番と、『なぜ服はこんなに不便で、高くて、退屈なんだ』という果てしない怒りだけだった」


柳井の目が微かに細まり、遥かな過去の記憶をなぞるように熱を帯びた。


「服を変え、常識を変え、世界を変える。そう口にしたとき、周りはみんな僕を笑ったよ。『田舎の洋服屋の倅が何を寝言を言っているんだ』とね。だが、僕は本気だった。本気で信じて、行動して、死ぬほど失敗した」


その時、ノックの音が部屋に響いた。

扉が開き、グローバル商品開発担当の執行役員である真壁が入ってきた。その表情は強張っており、抱えた黒いサンプルケースを持つ指先がわずかに震えている。


「失礼します。会長、欧州市場向けに開発を進めていた次世代ヒートテックの最終試作が上がってまいりました」


柳井は手帳を机に戻すと、無言で手を差し出した。


「見せてごらん」


真壁は緊張した面持ちで、滑らかな黒い生地を取り出し、柳井の両手に広げた。室内に、張り詰めた沈黙が落ちる。布地が擦れ合うかすかな衣擦れの音だけが、異様なほど大きく響いた。


柳井は親指と人差し指で生地を挟み、撫で、引っ張り、光にかざした。眉間の皺がわずかに深くなる。その指先の繊細な動きは、まるで生き物の脈拍を確かめる外科医のようだった。


「真壁君」


「はい」


「これ、いくらで売る気だ?」


「想定価格は、現地通貨換算で約3,500円です。原価を抑えつつ、現地のプレミアムインナー市場をターゲットに……」


柳井は手の中の生地を、まるで紙屑のように机の上へ放り投げた。乾いた音がした。


「やり直しだ」


真壁の顔から血の気が引いていくのが見て取れた。

「し、しかし会長、ラボの試験データでは従来の保温性を15%上回っており、現地バイヤーの反応も上々でした!」


「バイヤーの顔色を見て服を作っているのか、君は!」


柳井の声が、部屋の空気を切り裂いた。激昂ではない。それは魂の底から湧き上がる、妥協を絶対に許さない情熱の爆発だった。


「肌に当てた瞬間、違和感がある。裏地の起毛の編み目が均一じゃない。ほんのわずかだが、チクチクするんだ。君はこれを着て、一日中快適に過ごせるか? 自分の家族に、自信を持って着せられるのか?」


「それは……」


「『この価格ならこんなものだろう』という甘えが、この布の端々に染み付いている。それが一番我慢ならないんだ!」


柳井は一歩、真壁に歩み寄った。小柄な身体が、真壁を見下ろす巨人のように感じられた。


「いいか、真壁君。僕たちが提供しているのは、単なる布切れじゃない。『LifeWear』だ。世界中のあらゆる人々の生活を、より豊かに、より快適に変えるための道具なんだ。難民キャンプにいる人から、ニューヨークの富裕層まで、等しく最高品質の温もりを、誰もが買える価格で届ける。それが僕たちの存在意義だ。妥協した3,500円の服なんて、この世に一着も存在する必要はない!」


真壁は唇を噛み締め、深く頭を下げた。

「……申し訳ありません。設計から見直します」


「謝る暇があったら工場へ飛べ。失敗したっていいんだ。一勝九敗だ。僕の人生なんて九割が失敗の連続だよ。だがな、本気で挑んで散る失敗と、適当に手を抜いて通そうとする失敗は、天地ほどの差がある。もう一度、最初から限界を突破しろ」


「はい!」


真壁が深々と一礼し、サンプルの生地を抱えて足早に部屋を出ていく。バタンと扉が閉まった後、再び部屋には静寂が戻った。


木村はおずおずと、冷めた紅茶のカップを新しいものと取り替えながら呟いた。

「……会長は、いつまで走り続けられるのですか。もう十分すぎるほど、富も名声も手にされたはずです。世界中どこへ行っても、柳井正の名を知らぬビジネスマンはいません」


柳井は窓辺に戻り、腕を組んだ。

夕暮れが迫り、空は深い藍色と燃えるような茜色のグラデーションに染まりつつあった。地平線の彼方に、無数のビルの明かりが灯り始めている。


「木村君、君は富を持つ人間を何人知っている?」


「え……何人かの著名な投資家や経営者なら、存じ上げていますが」


「彼らの中で、本当に生き生きとしている奴はどれくらいいる?」


木村は答えに詰まった。柳井は小さく鼻を鳴らした。


「金を貯め込むこと、贅沢を極めること、人から羨まれること。そんなものを目標にした瞬間、人間の魂は腐る。金なんてものはな、エネルギーなんだよ。世界を動かし、より良い未来を作るために循環させるための血液にすぎない。溜め込んだら鬱血して死ぬんだ」


柳井は窓ガラスに映る自分自身の姿を、厳しい目で見据えた。


「僕が本当に恐れているのは、死ぬことじゃない。自分が作った会社が、安定という名の泥沼に浸かって、挑戦をやめて老いさらばえていくことだ。『ユニクロは昔は尖っていたよね』なんて言われるくらいなら、明日全財産を失って倒産したほうがよっぽど清々しい」


「会長……」


「僕はね、毎日が創業初日だと思っている。毎朝起きるたびに、『今日、自分は何を成し遂げるために生きているのか』と自分に問いかける。9兆円の資産? そんなものは昨日の数字だ。今日、世界中のお客様がレジに運んでくれた1枚のTシャツ、1着のフリース。その1枚の向こうにある信頼に報いることだけが、僕の仕事だ」


冷たい風が、二重サッシの窓をわずかに震わせた。外の街には、それぞれの生活を営む数え切れないほどの人々の姿があった。駅へ向かう人、家路を急ぐ人、寒そうに身を縮める人。


柳井はその光景を、愛おしそうに、そして挑むような鋭い目で見つめていた。


「服を変える。常識を変える。世界を変える」


柳井は誰に聞かせるでもなく、自らの魂に刻みつけるように低く呟いた。


「まだ何ひとつ、完成しちゃいないよ。僕たちの挑戦は、今始まったばかりだ」


その横顔には、老境の陰りなど微塵もなかった。ただひたすらに前を見据え、嵐の中へと帆を張る探検家のような、冷徹で純粋な熱情だけが宿っていた。



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