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『一時間の値札』――金持ちが最後まで買えなかったもの

『一時間の値札』――金持ちが最後まで買えなかったもの


 雨上がりの東京は、宝石箱をひっくり返したように輝いていた。


 地上四十六階。全面ガラス張りの窓の向こうで、無数の車のライトが赤と白の川になって流れている。


「一時間、いくらだと思う?」


 黒革の椅子に深く腰掛けた男が、唐突に尋ねた。


「……何がですか?」


「君の一時間だよ」


 男の名は九条征一郎。七十二歳。投資会社を一代で築き上げ、資産は数百億円とも噂される人物だった。


 向かいに座るのは、二十六歳の家事代行スタッフ、三浦花音。


 彼女は銀のトレーに紅茶を載せたまま、困ったように笑った。


「時給なら、千六百円です」


「安いな」


「九条さんには、そうでしょうね」


「怒らないのか?」


「怒ったら時給が上がるんですか?」


 征一郎は一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。


「面白い。君はなかなか頭がいい」


「ありがとうございます。でも、紅茶が冷めますよ」


「君は、自分の時間を安売りしているとは思わないのか?」


 花音は窓の外を見た。


 雨粒が一つ、ガラスをゆっくり滑り落ちていく。


「思いますよ。毎日」


「なら、なぜここにいる?」


「家賃を払うためです」


「もっと稼げる仕事を探せばいい」


「簡単におっしゃいますね」


 花音は紅茶を置いた。


「九条さん。わたし、朝六時に起きて、母のお弁当を作るんです。母は病気の後遺症で、右手が少し不自由なので」


「ふむ」


「七時半に家を出て、ここまで一時間。仕事が終わったらスーパーで値引きのお惣菜を買って、帰宅は八時。洗濯して、お風呂に入ったら十一時です」


「それで?」


「資格の勉強をしたいんです。でも、眠くて文字が読めない日もあります」


 征一郎はカップを持ち上げた。


「時間の使い方が下手なのではないか?」


 花音の指が、わずかに震えた。


「……そうかもしれません」


「私は若いころ、一日十六時間働いた。睡眠は四時間。遊びも恋愛も捨てた。その結果が、この景色だ」


 征一郎は窓の向こうを指さした。


「金持ちは金を買うのではない。時間を買うんだ。掃除も料理も運転も、人に任せる。そうして空いた時間で、さらに金を生む」


「なるほど」


「君も時間を売る側から、買う側に回ればいい」


 花音は小さく息を吐いた。


「九条さん」


「なんだね?」


「そのお話、わたしの時給に含まれていますか?」


 征一郎は紅茶を吹き出しかけた。


「ははっ! そうだな。今日は特別に講義料を払おう」


「いえ。講義を聞くより、仕事を終わらせて早く帰りたいです」


 笑っていた征一郎の顔から、少しずつ表情が消えた。


 *


 翌週、花音は一通の封筒を渡された。


「開けたまえ」


 中には十万円の小切手が入っていた。


「……これは?」


「君の十時間を買いたい」


「十時間?」


「私の話し相手になってくれ。仕事のあと、週に二時間ずつ。五回でいい」


「一時間一万円ですか」


「不満かね?」


「いえ、破格です。でも、どうしてわたしなんです?」


 征一郎は窓に目を向けた。


「息子は忙しい。娘は海外だ。友人たちは皆、私に投資話を持ち込む。誰も、くだらない話をしない」


「くだらない話?」


「昨日食べた夕飯とか、道端に咲いていた花とか、そういう話だ」


 花音はしばらく黙っていた。


「……九条さん、寂しいんですか?」


「馬鹿を言うな」


 即座に返ってきた声は、妙に大きかった。


「私は一人でいるのが好きだ」


「じゃあ、十万円は必要ないですね」


「待て!」


 征一郎は思わず立ち上がった。


「……少しだけだ」


「え?」


「少しだけ、寂しい」


 その声は、ガラスに当たる雨粒より小さかった。


 花音は封筒を見つめた。


「分かりました。でも、条件があります」


「何でも言いたまえ」


「お金を払うからって、わたしの話を途中で遮らないこと」


「……分かった」


「それと、九条さんも本当のことを話してください」


 征一郎は苦笑した。


「高い買い物になりそうだ」


 *


 一回目の面談で、征一郎は自慢話をした。


 二回目は、株価の話。


 三回目は、若いころの苦労話。


 そして四回目。


「私は、妻の誕生日を一度も祝ったことがない」


 突然、そんな言葉がこぼれた。


 窓の外では、銀杏の葉が黄色く色づき始めていた。


「……一度も?」


「ああ。誕生日には必ず宝石を贈った。花束も、旅行券も。だが、食卓には座らなかった」


「どうしてです?」


「仕事だよ。大事な商談があった」


「毎年?」


「毎年だ」


 征一郎は自分の手を見下ろした。


「妻はよく言っていた。『あなた、今年は一緒にケーキを食べましょう』と」


「それで?」


「私は答えた。『その一時間で、君に新しい指輪を買えるだけ稼げるんだぞ』と」


 花音は何も言わなかった。


「妻は笑っていたよ。いつも」


「……奥様は、今は?」


「五年前に亡くなった」


 遠くで救急車のサイレンが鳴った。


「病院に駆けつけたとき、もう意識がなかった。私は医師に言ったんだ。金ならいくらでも払う。最高の医療を用意しろ、と」


 征一郎の喉が動いた。


「だが、妻は目を開けなかった」


「……そうですか」


「私はね、花音さん」


 初めて、彼は彼女を名前で呼んだ。


「妻のために稼いだつもりだった」


「はい」


「妻が欲しがったものは、全部買った」


「……はい」


「だが、妻が一番欲しがった一時間だけは、最後まで渡さなかった」


 征一郎は顔を覆った。


「私は、何をしていたんだろうな」


 花音はテーブルの上の小切手を見た。


 十万円。


 彼女の暮らしでは、簡単に手に入らない金額だった。


 けれど、目の前の老人が欲しがっているものは、紙に数字を書くだけでは手に入らない。


「九条さん」


「……なんだ」


「奥様のこと、好きだったんですね」


「ああ」


「それ、ちゃんと伝えました?」


 征一郎は首を振った。


「……伝えなくても、分かっていると思っていた」


「わたしも、母にそう思ってるかもしれません」


 花音は少し笑った。


「帰ったら、言ってみます。いつもありがとうって」


 征一郎は顔を上げた。


「君は、母親と一緒に暮らしているんだったな」


「はい」


「……いいな」


 その一言が、花音の胸に静かに落ちた。


 *


 五回目の面談の日。


 征一郎は、いつもの黒いスーツではなく、紺色のカーディガンを着ていた。


「今日は外へ行こう」


「外ですか?」


「近くの公園だ。銀杏が見頃らしい」


「九条さん、散歩なんてするんですか?」


「馬鹿にするな。歩き方くらい知っている」


「それはよかったです」


 二人は笑った。


 公園には、落ち葉が黄金色の絨毯を敷き詰めていた。


 ベンチに腰掛けると、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。


 征一郎は紙袋から、小さなケーキの箱を取り出した。


「妻が好きだった店のモンブランだ」


「おいしそう」


「二つ買った」


「……九条さん」


「一緒に食べてくれるかね」


 花音は頷いた。


「もちろんです」


 プラスチックのフォークで栗のクリームをすくう。


 甘くて、少しだけ洋酒の香りがした。


「おいしいですね」


「ああ。……こんな味だったのか」


「初めて食べたんですか?」


「妻には何十回も買って帰ったが、私は一度も食べなかった」


 征一郎はもう一口食べた。


 目尻に、細い涙が浮かんだ。


「……うまいな」


 花音は何も言わず、隣でケーキを食べ続けた。


 しばらくして、征一郎が尋ねた。


「花音さん。君は、金持ちになりたいか?」


「なりたいですよ」


「即答だな」


「母に楽をさせたいし、資格も取りたいし、いつか小さな店も開きたいです」


「金があれば、時間を買える」


「そうですね。でも……」


 花音は足元の銀杏の葉を拾った。


「わたし、誰かの時間を買えるようになっても、その人にも帰る家があるってことは忘れたくないです」


 征一郎は黙って聞いていた。


「お金持ちって、自由な時間が多い人のことだと思ってました。でも、九条さんを見てると、ちょっと違う気がして」


「どう違う?」


「自分の時間を、何に使うか決められる人が、本当に豊かな人なのかもしれません」


 風が吹いた。


 黄色い葉が、二人の肩に降りかかる。


「……耳が痛いな」


「すみません」


「いや。もっと早く聞きたかった」


 征一郎は空を見上げた。


「私はずっと、時間を金に換えてきた。金を増やせば、いつか自由になれると思っていた」


「はい」


「だが、いつの間にか、金を増やすために時間を使うことしかできなくなっていた」


 花音は頷いた。


「お金は大事です。ないと困ります」


「ああ」


「でも、何のために稼いでいるのか、忘れたくないですね」


 征一郎は、ゆっくり笑った。


「……まったくだ」


 *


 その冬、征一郎は会社の経営を後継者に任せた。


 そして、社員の労働時間と休暇制度を見直すための基金を設けた。


 花音には、資格取得のための奨学金を申し出た。


「返済は不要だ」


「そんなの、受け取れません」


「なら、条件をつけよう」


「条件?」


「資格を取ったら、君が望む仕事をすること。そして、休むときはきちんと休むこと」


「……変な条件ですね」


「そうかね?」


「でも、ありがとうございます」


 花音は深く頭を下げた。


 征一郎は少し考えてから、付け加えた。


「それと、もうひとつ」


「はい?」


「時々でいい。君のお母さんと三人で、夕飯を食べさせてくれないか」


「えっ、うちで?」


「ああ。豪華な料理でなくていい」


「うち、狭いですよ。テーブルも小さいし」


「構わん」


「母の料理、味が薄いですよ」


「健康に良さそうだ」


「九条さん、皿洗いもしてもらいますよ?」


 征一郎は一瞬、目を丸くした。


 それから、少年のように笑った。


「いいとも。教えてくれ」


 *


 年が明けたある夜。


 小さな団地の食卓に、三人分の湯気が立ち上っていた。


「九条さん、お味噌汁、おかわりします?」


「いただこう」


「花音、そこのお漬物を取って」


「はいはい」


 征一郎は不器用に箸を動かし、少し焦げた卵焼きを口に運んだ。


「……うまい」


「焦げてますよ?」


「それがいい」


 壁の時計が、午後七時を告げた。


 かつての征一郎なら、この一時間で何千万という商談をまとめていたかもしれない。


 けれど今、彼は誰かの作った味噌汁を飲み、くだらない冗談に笑い、食後の皿を洗おうとしている。


「九条さん、お皿、割らないでくださいね!」


「任せろ。私は数百億円を動かした男だぞ」


「お皿は一枚三百円です!」


「……それは慎重に扱わねばならんな」


 三人の笑い声が、狭い台所に弾けた。


 窓の外では、冬の星が瞬いている。


 誰もが、それぞれの時間を金に換えて生きている。


 けれど、人生のすべての時間に値札をつける必要はない。


 征一郎は泡だらけの手で皿を持ちながら、ふと思った。


 この一時間を、私はいくら積まれても売りたくない。


 それが、七十二歳にして初めて知った、彼自身の本当の豊かさだった。



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