『一千億ドルの静寂』フランソワーズ・ベッテンコート・マイヤーズ
パリ郊外、ヌイイ=シュル=セーヌの朝は、いつだって静謐な灰色の霧に包まれている。
高い鉄格子の門をくぐると、手入れの行き届いた菩提樹の並木がそびえ、パリの喧騒は一瞬で遮断される。邸宅の奥、庭園を望む大きな窓の前に置かれたスタインウェイのグランドピアノから、バッハの平均律クラヴィーア曲集が流れていた。
タッチは驚くほど正確で、かつ冷ややかだ。
ピアノの前に座る女性――フランソワーズ・ベッテンコート・マイヤーズは、黒いタートルネックに身を包み、飾り気のない眼鏡の奥で譜面を見つめている。世界最大の化粧品帝国ロレアルの筆頭株主であり、女性として史上初めて純資産一千億ドルの大台を突破した大富豪。だが、その指先にマニキュアは塗られておらず、ダイヤの指輪ひとつ嵌まっていない。
演奏が一段落すると、執事のジャンが銀のトレイを手に、足音を忍ばせて入ってきた。
「マダム。本日午前十時のパリ証券取引所の速報です。ロレアル株の時価総額に基づき、マダムの保有資産評価額が更新されました」
差し出されたタブレット端末には、桁が多すぎて感覚が麻痺するような数字が並んでいた。
七十二歳を迎えてなお、世界の頂点に君臨するその資産総額。
フランソワーズは視線を譜面台に向けたまま、手元のエスプレッソに口をつけた。
「数字ね。ただの記号よ、ジャン」
「ですが、メディアはまた騒ぎ立てております。『世界一裕福な女性、再び記録更新』と」
「下品ね。まるで競馬の勝ち馬を囃し立てるようなものよ」
ふっと眉をひそめ、フランソワーズは眼鏡の位置を直した。その瞳には、熱狂や歓喜の影は微塵もない。
「ジャン。母は派手な社交界が好きだったわ。華やかな宝石、煌びやかな夜会、そして甘言を弄して群がってくる怪しげな取り巻きたち……。でも、彼女が遺したものは何だった? 醜い骨肉の争いと、タブロイド紙の餌食になった家族の傷跡だけよ」
母、リリアン・ベッテンコート。かつて世界を魅了した社交界の女王。だが晩年、母の莫大な財産を狙った写真家兼作家との間に起きた泥沼の裁判劇は、フランス全土を巻き込むスキャンダルとなった。フランソワーズにとって、あの歳月は「富」という怪物が人間の理性をいかに食い破るかを骨の髄まで知らしめるものだった。
「お金そのものに魂はないのよ。人がそれに群がり、欲望を投影するから魔物になるの」
「マダムは、毎朝こうして二時間ピアノを弾き、執筆をなさる。誰もが羨む富を持ちながら、なぜこれほどまでに孤高でいられるのですか」
ジャンの問いに、フランソワーズは鍵盤の上にそっと指を置いた。
「ピアノの鍵盤を叩いてごらんなさい。正しいタッチで打てば、美しい音が返ってくる。書物に目を凝らしてごらんなさい。過去の賢者たちが、誠実な思索を返してくれる。けれど、人はどうかしら? 私が『ロレアルの相続人』である限り、微笑みかけてくる人間の半分は、私の背後にある金庫の鍵を見ているわ」
彼女は小さく、自嘲するように笑った。
「私が守りたいのは、数字の大きさじゃないの。祖父が築き、母が広げたこの企業の尊厳と、私自身の精神の静けさよ。真の贅沢とはね、欲しいものを何でも買い集めることではないの。関わりたくない人間を遠ざけ、愛する孤独と知性に身を浸すことができる――その自由こそが、私がこの富から得た唯一の価値よ」
窓の外では、秋の冷たい風に吹かれて黄金色の落ち葉が一枚、ガラスをかすめて舞い落ちた。
「本日の午後の予定は?」
フランソワーズが尋ねると、ジャンは手帳を開いた。
「二時から、財団の理事会です。神経科学研究への助成と、工芸職人の育成プログラムに関する最終決裁がございます。その後は、聖書注解書の原稿確認のお時間が取られております」
「そう。科学と、職人の技と、学問ね。それらは嘘をつかないから好きよ」
立ち上がったフランソワーズは、黒いジャケットを羽織った。背筋はすっきりと伸び、豪奢なドレスを着飾ったどんな貴婦人よりも威厳に満ちている。
「ジャン、車は裏門に回して頂戴。表にカメラマンが張り付いているのでしょう?」
「かしこまりました。ですがマダム、彼らは一目だけでも『一千億ドルの女王』の姿を捉えようと必死です」
「見せてあげる義理はないわ。世界が私の資産にいくらの値札をつけようと、私の魂の値段は私が決めるものよ」
彼女は静かに微笑み、窓辺を離れた。
廊下を歩く靴音だけが、堅牢な邸宅の静寂の中に、どこまでも澄んだリズムを刻んでいた。




