天からの預かりもの
薄暗い土間に、冷え切った朝の空気が満ちていた。
小さな火鉢の前で、老人は静かに鉄瓶の湯が沸く音に耳を傾けている。
畳は手入れが行き届いているものの、使い込まれて擦り切れた跡がある。着ている綿入れも、決して華美なものではない。かつて町工場の片隅で、妻と二人、夜を徹してソケットを磨いていた頃と、肌に触れる布の手触りは何一つ変わっていなかった。
「相談役、朝刊が入りました」
側近の男がお茶を差し出しながら、恐縮した面持ちで言った。
新聞の一面には、彼が率いる巨大企業が成し遂げた過去最高益の数字と、彼自身の巨額の納税額が誇らしげに躍っている。日本中が彼を「経営の神様」と崇め、その富と成功を羨望の眼差しで見つめていた。
老人は眼鏡の奥の目を細め、紙面を眺めると、ふっと静かに笑った。
「世間の人はな、わしのことを大金持ちやと持ち上げてくれはるけどな。ほんまのところは、預かりものをしてるだけなんや」
「預かりもの、ですか」
「そうや。お金というものはな、天から『これを使って、世の中をようなしなさい』と一時的に託された預かり金なんや。自分の懐に入ったからいうて、自分勝手に使てええ銭やない」
老人は湯呑みを両手で包み、温もりを確かめるように息を吹きかけた。
幼い頃、父の破産で一家は離散し、小学校もろくに出られずに丁稚奉公に出された。身体は弱く、幾度も大病を患った。学歴もない、金もない、健康もない。ないもの尽くしの泥水のような日々だった。
けれど、彼はそのすべてを「天の恵み」だと信じて疑わなかった。
家が貧しかったから、一銭のありがたみが骨身に沁みた。
学歴がなかったから、誰に対しても「教えてください」と頭を下げて衆知を集めることができた。
身体が弱かったから、人に仕事を任せ、人を信じて育てる知恵がついた。
「世の中にはな、お金を自分の力で稼いだと威張る人もおる。けど、それは違うんやで。商売というのは、お客様が喜んで買うてくれはるから成り立つ。従業員が額に汗して作ってくれるから品物ができる。仕入先も、町の人らも、みんなが手を携えて支えてくれてるから、結果として手元にお金が残るだけや」
老人は土間の向こう、庭の木々に目を向けた。朝露を浴びた葉が、柔らかな光を照り返している。
「水道の蛇口をひねれば、誰でも清らかな水が飲めるやろ。あれと同じように、この世のあらゆる物資を水のように豊富にして、貧貧をなくしたい。それが商人の真の使命や。わしが握っている富はな、その大きな仕組みを動かすための油にすぎんのや」
贅沢をしたいとは思わなかった。
立派な屋敷に住み、贅を尽くした料理を食べることに、命の喜びなど見出せなかった。
彼にとって至上の喜びは、昨日まで暗い長屋で暮らしていた家族が、自社の二股ソケットをつけて「明るくなった」と笑顔を交わす瞬間であり、自転車の砲弾型ランプの明かりが夜道を照らす光景を見ることだった。
お金持ちとは、多くの財産を私物化している者のことではない。
天から預かった富という力を、どれだけ曇りのない心で世の中に循環させ、人々の笑顔に変えられたか。
「今日もな、感謝して始めなあかんな」
老人は湯呑みを置くと、すっと背筋を伸ばした。
その質素な佇まいの奥には、何万の金銀財宝をも超える、澄み切った豊かさが満ちていた。




