父の店、娘の美術館
父の店、娘の美術館
朝の光が大きな窓から差し込むたび、アリスは少しだけ首を傾げる癖があった。窓辺に置かれた白い胡蝶蘭は今朝も水を欲しそうに葉を広げ、テーブルの上には食べかけのブルーベリーマフィンと冷めたコーヒーが置かれている。七十代になった今も、彼女は朝早く起きて新聞を何紙も読み、気になった記事を赤鉛筆で囲む習慣を続けていた。広い部屋には絵画が何枚も飾られているが、父と並んで撮った古い写真だけは、少し離れた棚の上にそっと置かれている。
「お父さんなら、こんな部屋を見て何て言うかしら」
独り言のようにつぶやいて、彼女は写真の埃を指先で払った。写真の中の父は、色あせたチェックシャツを着て笑っている。世界最大級の小売企業を築いた男の顔には見えず、近所の店主のような気安さがあった。
アリスが子どものころ、父はいつも忙しかった。家にいても電話は鳴り続け、食卓では店舗の話や商品の話ばかりだった。それでも週末になると、父は古いピックアップトラックに娘を乗せ、郊外の店を回った。アリスは窓から牛の群れを眺め、紙袋に入ったフライドチキンを頬張りながら、父の後ろ姿を見ていた。油と土の匂いが混じる車内で、父はよく口癖のように言った。
「人は高い物を欲しがるんじゃない。毎日を少し楽にしてくれる物を欲しがるんだ」
アリスはその言葉を聞くたび、うなずきながらも少し退屈そうな顔をした。彼女の興味は店の棚より、町の小さな美術館の方へ向いていたからだ。古い油絵や、無名の画家が描いた風景画を見ていると時間を忘れた。帰宅すると母に怒られながらも、ノートに好きな絵の感想を書きつけるのが日課だった。
「また絵を見てきたの?」
「うん。青い空を描いてるのに、なんだか夕方みたいな絵だった」
「難しいこと言うわねえ」
母は笑い、焼きたてのコーンブレッドを皿にのせてくれた。バターの香りが部屋いっぱいに広がり、アリスは指先についた粉を払いながら、いつか自分の好きなものを誰かに届けたいとぼんやり思った。
年月が流れ、父が築いた会社は世界中に広がった。アリスは莫大な財産を受け継ぎ、多くの人が彼女を「世界有数の富豪」と呼んだ。しかし彼女自身は、その呼ばれ方にどうにも馴染めなかった。高価な宝石を身につける日もあれば、古びたデニムにセーター姿で庭を歩く日もある。雨の日にはキッチンで自分でコーヒーを淹れ、古いジャズを流しながら食器を洗う。
ある冬の日、彼女は自宅の書斎で画集をめくっていた。暖炉の火がぱちぱちと音を立て、毛糸のひざ掛けが膝の上で少しずれている。窓の外には雪が降り始めていた。秘書が訪ねてきて、来週の予定表を机に置く。
「会議が三件、寄付の式典が二件、それから新しい展示会の打ち合わせです」
「展示会を先にしましょう」
「またですか?」
「ええ。数字は明日でも見られるけれど、絵は今日の気分で見たいの」
秘書は肩をすくめて笑った。アリスもつられて笑う。父なら呆れるだろうかと思ったが、案外「好きなことをやれ」と言ってくれる気もした。
彼女は多くの絵を集め、多くの芸術家を支援した。小さな町に美術館をつくり、人々が気軽に芸術に触れられる場所を増やそうとした。休日には帽子を深くかぶって館内を歩き、来館者の会話をこっそり聞くこともある。子どもが絵の前で首をかしげていると、つい話しかけたくなる。
「その絵、どう思う?」
「変だよ。空が緑色なんだもん」
「変って面白いわよ」
「おばあちゃんは好きなの?」
「うーん、毎日見ても飽きないくらい好き」
少年は不思議そうに彼女を見上げ、それからもう一度絵を見た。アリスは少し離れた場所へ移動し、ベンチに腰掛ける。館内には静かな空気が流れ、ワックスの匂いとコーヒーの香りが混ざっている。遠くで誰かが笑った。
ふと父のことを思い出す。もし父が生きていたら、この美術館をどう見るだろう。絵の値段に驚くだろうか。それとも、訪れた子どもたちの顔を見て満足そうに笑うだろうか。
夕方、閉館時間が近づくと、アリスはいつものように出口近くの窓辺に立つ。オレンジ色の夕日が差し込み、床に長い影を落としている。彼女は鞄の中から古い写真を取り出した。若いころの父と、自分が並んで写っている写真だ。端が少し折れ曲がっているのは、何度も持ち歩いたせいだろう。
「お父さん、私は店を作らなかったわ」
そう言って、彼女は写真を胸元に戻した。
「でもね、人が立ち止まって、少しだけ心を動かす場所なら作れたと思うの」
窓の外では、帰り支度をする人々が笑いながら歩いている。アリスはその姿を見送り、襟元を整えた。豪華な暮らしの中にも、冷めたコーヒーや読みかけの本や、少し欠けたお気に入りのマグカップがある。そんな何気ない日々を積み重ねながら、彼女は今日も父から受け取ったものと、自分が選び取ったものの両方を抱えて生きているのだった。




