嘘つきな星空と銀色のスープ イーロン・マスク
嘘つきな星空と銀色のスープ
深夜のオフィスには、微かにハッカの香りが染みついていた。イーロン・マスクは、仕立てのいい濃紺のサヴィル・ロウのスーツを着たままで、大きな革張りのソファに深く身体を沈めていた。上質なウールは滑らかだが、一日中、世界中の問題と格闘した彼の身体には、少しばかり重すぎる。
「進捗はどうなっている」
イーロンは、暗闇に紛れるようにして立っていた秘書の青年、レイに声をかけた。かすれた声が、天井の高い部屋に寂しく響く。窓の外には、テキサスの広大な夜空が広がっていたが、彼が本当に見つめているのは、そのさらに先にある冷徹な火星の赤だった。
「予定通りです、ボス。ただ、地上の通信網の一部にまだ微弱なノイズが混じっています」
レイは、手元に灯した小さな端末の明かりを頼りに、音もなく歩み寄ってきた。
「ノイズか」
イーロンは、苦虫を噛み潰したような顔をして、細い指先でこめかみを強く揉んだ。彼の脳内では、常に数百万行のコードと、数十億ドルの資金の流れと、ロケットの燃焼圧力が同時に渦巻いている。その全てが完璧に噛み合わなければ、人類は地球というゆりかごの中で窒息してしまう。その焦燥感が、彼の胃をきりきりと苛んでいた。
「そんな瑣末なトラブルで私の時間を止めるな。ノイズなど、新しいアルゴリズムで焼き尽くせばいい。それより、何か食べるものはあるか。腹が減って、頭の回転がコンマ数秒遅れている」
「こちらをご用意しております」
レイが静かに机に置いたのは、無機質な銀色の真空容器だった。蓋を開けると、ふわりと温かい湯気が立ち上る。それは、数種類の野菜と鶏胸肉をペースト状になるまで煮込んだ、特製の濃厚なヴィシソワーズ風スープだった。
「……またこれか」
イーロンは、スプーンを取りながら小さくため息をついた。
「お忙しいあなたの胃に最も負担をかけず、かつ必要な栄養素を秒単位で吸収できるよう計算されたメニューです」
「味気ないな。私はもっと、こう、鉄板で焼いた野生味のあるステーキとか、油の滴るピザが食べたいんだが」
「ドクターからの指示です。今のあなたの自律神経でそんなものを食べれば、明日のロケットの打ち上げをベッドの上で迎えることになりますよ」
「君は時々、私の母親よりも口がうるさくなるな」
イーロンは肩をすくめ、スープを一口、口に運んだ。舌の上に広がるのは、ジャガイモの優しい甘みと、かすかなセロリの苦味、そしてチキンの深いコクだ。滑らかな液体が喉を通り、冷え切っていた胃腑にじわりと熱が染み渡っていく。確かに美味い。だが、それはあまりにも効率的で、どこか寂しい味がした。
「悪くない。だが、火星に持っていく最初のスープは、もう少しスパイスを効かせるように開発チームに伝えておけ。人間は、生き延びるためだけに食べるのではない。退屈という病から逃れるために食べるんだ」
「承知いたしました。メニューの改善リストに加えておきます」
レイは表情を変えずにノートにペンを走らせる。その淡々とした態度が、かえってイーロンの心を落ち着かせた。
「なあ、レイ。君は時々、夜空を見上げて、自分が地球という小さな泥団子の上に縛り付けられていることに絶望しないか」
イーロンはスプーンを止め、窓の外の星々を見つめた。彼の瞳には、満天の星空ではなく、宇宙の深淵に広がる冷酷な「無」が映っていた。
「私には、そこまで考える余裕はありません。今日のタスクを消化するだけで精一杯ですから」
「それが普通の人間だ。正しい生き方だよ。だが、誰かがその泥団子から外へ飛び出す梯子を作らなければならない。私はその梯子の設計図を引いている。なのに、地上の人間たちは、梯子の色や、段の高さばかりを気にして私を批判する。うんざりするよ」
イーロンの言葉には、深い疲労と、それ以上の傲慢なまでの自負が混ざり合っていた。彼は世界を救おうとしている。しかし、その世界を構成する人間という生き物の、あまりの脆さと歩みの遅さに、いつも苛立っていた。
「ボス、あなたは少し急ぎすぎているのかもしれません」
レイはスープの器を片付けながら、静かに、しかしはっきりと言った。
「急がなければ、私が死ぬ。人間の寿命は短すぎるんだ。私が生きているうちに、火星に人類の街を作らなければ、次の暗黒時代が来たときにすべてがリセットされてしまう。時間が足りないんだよ、レイ。私の鼓動よりも、世界の時計は早く進んでいるように感じる」
イーロンは、ソファの背もたれに頭を預け、天井を睨みつけた。彼の胸の奥で、見えない心臓が激しく、狂おしいリズムで脈打っているようだった。
「ですが、あなたの身体は一つしかありません」
「わかっている。だからこそ、この肉体という不完全なハードウェアがもどかしい」
イーロンは、自分の両手を見つめた。天才の誉れ高い彼であっても、ただの肉と骨でできた人間だった。皮膚は乾き、目は充血している。
「明日の打ち上げは、天候が少し不安定だという予報が出ています」
レイが話題を変えるように切り出した。
「風か。それとも雷雲か」
「上空の剪断風です。基準値をわずかに上回る可能性があります」
「GOだ。それくらいの風、我が社の機体ならねじ伏せられる。パラメーターを少し修正すれば問題ない。日和っている暇はないんだ」
イーロンは即座に断言した。その声には、一切の迷いがなかった。彼の辞書に「撤退」という文字はない。あるのは「前進」か、さもなくば「派手な爆発」だけだ。
「わかりました。そのように現場へ伝えます。……今夜はもう、お休みになってください。毛布をお持ちしましょうか」
「いや、いい。このままここで、少し考える」
イーロンは目を閉じ、再び深い思考の海へと潜っていった。
「それでは、失礼します。良い夢を、ボス」
レイが部屋の明かりを落とし、足音を消して去っていく。
静寂が部屋を満たした。残されたのは、窓から差し込む青白い月光と、イーロンの規則正しい呼吸の音だけだ。彼は目を開け、もう一度、遥かなる星空を見上げた。
「夢、か」
イーロンは、小さく呟いた。
彼が見る夢は、常に現実の形をまとい、数式で証明され、そして莫大な鉄と炎となって空へ打ち上がる。彼にとって宇宙はロマンではなく、ただ征服すべき次のフロンティアだった。
「待っていろ」
暗闇の中で、イーロンの瞳が獰猛に輝いた。
スープの温かさが完全に消え、身体が再びテキサスの夜の冷気に包まれていくのを感じながら、彼はすでに、明日の大空を切り裂くロケットの爆音を、その耳の奥で聞いていた。




