星を見上げる男
星を見上げる男
ネバダの夜は乾いていた。砂漠を渡る風が、低く唸るように工場の壁を叩く。巨大な建物の中では白い蛍光灯が眠らずに光り続け、油と金属の匂いが空気に混ざっていた。
イーロン・マスクは、黒いジャケットの襟を指で整えながら、静かな足音で通路を歩いていた。濃いグレーのTシャツは少しくたびれていて、袖には微かなシワがある。高価な服なのに、不思議と着古した学生みたいな雰囲気があった。
午前三時だった。
工場の奥から、金属を削る甲高い音が聞こえる。作業員たちは赤い目をしながら端末を叩き、コーヒーを流し込んでいた。紙コップから立ちのぼる苦い香りが漂う。
「まだ帰ってないのか」
イーロンが言うと、若い技術者が苦笑した。
「あなたが帰らないんですから」
「それは問題だな」
彼は少し笑ったが、その目は疲れていた。青白いモニターの光が頬を照らし、深い影を作っている。
ロケット開発は失敗続きだった。
爆発。延期。投資家の怒鳴り声。メディアの嘲笑。
何百億という金が燃え、空へ散った。
普通の人間なら、とっくに諦めていた。
だが彼は違った。
「あとどれくらいで修正できる?」
「最短で二週間です」
「長いな」
「最短です」
イーロンは黙った。
遠くで機械が低く震える音がする。巨大な生き物の呼吸みたいだった。
彼は窓の外を見た。夜空には星が広がっている。砂漠の空は驚くほど澄んでいて、宇宙が近く感じられた。
「子供の頃さ」
突然、彼が言った。
「南アフリカで、よく一人で星を見てた」
若い技術者が顔を上げる。
「宇宙飛行士になりたかったんですか?」
「いや」
イーロンは首を横に振った。
「人類が滅びるのが嫌だった」
その声は静かだった。
冗談を言っているようにも聞こえたが、彼の目は真剣だった。
「変わってますね」
「よく言われる」
工場の片隅にある休憩スペースへ移動すると、冷えたピザの箱が積み上がっていた。乾いたチーズの匂いがする。イーロンは一枚を持ち上げ、無造作にかじった。
「冷たいですね」
「時間がないからな」
彼は平然としている。
世界一の富豪と呼ばれる男が、冷えたペパロニピザを立ったまま食べていた。
そのアンバランスさに、若い技術者は少し笑った。
「そんなに急いで、どこへ行くんです?」
「火星」
即答だった。
「……本気で?」
「もちろん」
イーロンは炭酸の抜けたダイエットコーラを飲みながら言った。
「人類は、一つの星に全部を置くべきじゃない」
「でも、莫大なお金がかかります」
「金はまた稼げばいい」
「失敗したら?」
「またやる」
その言葉には妙な熱があった。
成功者の余裕というより、崖から落ちながら前へ進む人間の熱だった。
工場の自動ドアが開き、冷たい夜風が吹き込んだ。誰かが外から戻ってくる。砂の匂いが混ざる。
その時、女性スタッフが駆け寄ってきた。
「マスクさん、投資家から電話です。かなり怒っています」
「ああ」
「今すぐ対応を、と」
イーロンは少しだけ空を見た。
深い夜だった。
星が無数に瞬いている。
彼は静かに息を吐いた。
「怒ってるなら元気だな」
「笑い事じゃありません」
「わかってる」
だが彼は笑っていた。
疲れ切っているのに、どこか楽しそうだった。
その顔を見て、若い技術者は不思議に思った。
どうしてこの人は、こんなに苦しいのに前を向けるのだろう。
イーロンは歩き出した。
長い足で、迷いなく。
黒いブーツが床を鳴らす。
「君、名前は?」
「アレックスです」
「アレックス。覚えておく」
「本当ですか?」
「たぶん」
彼はまた笑った。
そして少し真面目な顔になる。
「人はさ、未来を信じられなくなると終わるんだ」
工場の光が彼の背中を照らしていた。
「だから俺は、未来を作りたい」
その言葉は大げさなはずなのに、不思議と嘘に聞こえなかった。
電話の着信音が鳴り続ける。
誰かが怒っている。
誰かが失敗を笑っている。
だがその男は、星を見ていた。
まるで本当に、人類を火星へ連れて行けると信じているみたいに。




