表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/12

星を見上げる男

星を見上げる男


ネバダの夜は乾いていた。砂漠を渡る風が、低く唸るように工場の壁を叩く。巨大な建物の中では白い蛍光灯が眠らずに光り続け、油と金属の匂いが空気に混ざっていた。


イーロン・マスクは、黒いジャケットの襟を指で整えながら、静かな足音で通路を歩いていた。濃いグレーのTシャツは少しくたびれていて、袖には微かなシワがある。高価な服なのに、不思議と着古した学生みたいな雰囲気があった。


午前三時だった。


工場の奥から、金属を削る甲高い音が聞こえる。作業員たちは赤い目をしながら端末を叩き、コーヒーを流し込んでいた。紙コップから立ちのぼる苦い香りが漂う。


「まだ帰ってないのか」


イーロンが言うと、若い技術者が苦笑した。


「あなたが帰らないんですから」


「それは問題だな」


彼は少し笑ったが、その目は疲れていた。青白いモニターの光が頬を照らし、深い影を作っている。


ロケット開発は失敗続きだった。


爆発。延期。投資家の怒鳴り声。メディアの嘲笑。


何百億という金が燃え、空へ散った。


普通の人間なら、とっくに諦めていた。


だが彼は違った。


「あとどれくらいで修正できる?」


「最短で二週間です」


「長いな」


「最短です」


イーロンは黙った。


遠くで機械が低く震える音がする。巨大な生き物の呼吸みたいだった。


彼は窓の外を見た。夜空には星が広がっている。砂漠の空は驚くほど澄んでいて、宇宙が近く感じられた。


「子供の頃さ」


突然、彼が言った。


「南アフリカで、よく一人で星を見てた」


若い技術者が顔を上げる。


「宇宙飛行士になりたかったんですか?」


「いや」


イーロンは首を横に振った。


「人類が滅びるのが嫌だった」


その声は静かだった。


冗談を言っているようにも聞こえたが、彼の目は真剣だった。


「変わってますね」


「よく言われる」


工場の片隅にある休憩スペースへ移動すると、冷えたピザの箱が積み上がっていた。乾いたチーズの匂いがする。イーロンは一枚を持ち上げ、無造作にかじった。


「冷たいですね」


「時間がないからな」


彼は平然としている。


世界一の富豪と呼ばれる男が、冷えたペパロニピザを立ったまま食べていた。


そのアンバランスさに、若い技術者は少し笑った。


「そんなに急いで、どこへ行くんです?」


「火星」


即答だった。


「……本気で?」


「もちろん」


イーロンは炭酸の抜けたダイエットコーラを飲みながら言った。


「人類は、一つの星に全部を置くべきじゃない」


「でも、莫大なお金がかかります」


「金はまた稼げばいい」


「失敗したら?」


「またやる」


その言葉には妙な熱があった。


成功者の余裕というより、崖から落ちながら前へ進む人間の熱だった。


工場の自動ドアが開き、冷たい夜風が吹き込んだ。誰かが外から戻ってくる。砂の匂いが混ざる。


その時、女性スタッフが駆け寄ってきた。


「マスクさん、投資家から電話です。かなり怒っています」


「ああ」


「今すぐ対応を、と」


イーロンは少しだけ空を見た。


深い夜だった。


星が無数に瞬いている。


彼は静かに息を吐いた。


「怒ってるなら元気だな」


「笑い事じゃありません」


「わかってる」


だが彼は笑っていた。


疲れ切っているのに、どこか楽しそうだった。


その顔を見て、若い技術者は不思議に思った。


どうしてこの人は、こんなに苦しいのに前を向けるのだろう。


イーロンは歩き出した。


長い足で、迷いなく。


黒いブーツが床を鳴らす。


「君、名前は?」


「アレックスです」


「アレックス。覚えておく」


「本当ですか?」


「たぶん」


彼はまた笑った。


そして少し真面目な顔になる。


「人はさ、未来を信じられなくなると終わるんだ」


工場の光が彼の背中を照らしていた。


「だから俺は、未来を作りたい」


その言葉は大げさなはずなのに、不思議と嘘に聞こえなかった。


電話の着信音が鳴り続ける。


誰かが怒っている。


誰かが失敗を笑っている。


だがその男は、星を見ていた。


まるで本当に、人類を火星へ連れて行けると信じているみたいに。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ