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オマハの賢人 ウォーレン・バフェット

オマハの賢人


アメリカ中西部の町、オマハの朝は静かだった。


春先の風が街路樹の若葉を揺らし、焼きたてのパンの香りが通りに流れている。


まだ日が昇ったばかりの住宅街を、一人の少年が新聞の束を抱えて走っていた。


「急げ、急げ!」


少年は息を切らしながら自転車をこぐ。


その少年の名は、ウォーレン・バフェット。


後に世界有数の資産家となる人物だった。


だが、この時はまだ普通の少年だった。


朝露に濡れた芝生の匂い。


新聞紙のインクの匂い。


自転車のチェーンが回る金属音。


ウォーレンはそれらを感じながら、一軒一軒に新聞を届けていた。


家に帰る頃には太陽が高く昇り、母親が朝食を用意していた。


ベーコンの焼ける香ばしい匂い。


目玉焼きの黄身がぷるぷると揺れている。


トーストにはたっぷりのバター。


ウォーレンは椅子に座るなり言った。


「母さん、今月はいくら貯まったと思う?」


母親は苦笑した。


「またお金の話?」


「だって面白いんだ」


父親も新聞を広げながら笑う。


「ウォーレンは数字が好きだからな」


少年は誇らしげに胸を張った。


「僕は将来、お金持ちになるんだ」


「どうして?」


母親が尋ねる。


ウォーレンは真剣な顔で答えた。


「お金が好きだからじゃないよ」


「じゃあ何が好きなの?」


「増えるところを見るのが好きなんだ」


父親は新聞を置いた。


「種みたいなものか」


「種?」


「畑に種をまくと増えるだろう?」


ウォーレンの目が輝く。


「そうか!」


その日から彼はますます数字に夢中になった。


ガムをまとめ買いして一本ずつ売る。


コーラをケースで買って一本ずつ売る。


利益を計算する。


利益をまた使う。


増えた利益でさらに商売する。


少年にとってそれは遊びだった。


夏の日。


蝉の声が響く午後。


友人たちが野球をしている横で、ウォーレンは木陰に座って帳面を広げていた。


「おい、遊ぼうぜ!」


友人が声をかける。


ウォーレンは顔を上げる。


「あと少し!」


「何してるんだよ」


「計算」


「また?」


「うん」


友人は呆れた顔をする。


「変なやつだな」


ウォーレンは笑った。


「そうかも」


だが心の中では違った。


数字は嘘をつかない。


努力した結果が見える。


それが楽しかった。


やがて高校生になる頃には、小さな農地まで買っていた。


自分では耕さない。


農家に貸す。


その収益を得る。


同級生たちが恋愛や流行の話をしている頃、彼は利益率の計算をしていた。


ある夜。


窓の外では雨が降っていた。


屋根を叩く雨音。


机の上には投資の本。


ウォーレンはページをめくりながら呟く。


「会社にも値段がある」


その考えに衝撃を受けた。


人々は流行で株を買う。


噂で株を売る。


しかし会社そのものの価値を見る人は少ない。


「これは面白い」


彼は夜更けまで本を読んだ。


ランプの光。


紙の匂い。


窓を伝う雨粒。


世界が少しずつ広がっていく。


大学を卒業した後、彼は伝説的な投資家であるベンジャミン・グレアムのもとで学ぶことになる。


初めて会った日。


緊張で喉が渇いていた。


会議室には古い木の机が置かれていた。


グレアムは穏やかな目で若者を見る。


「君はなぜ投資をしたい?」


ウォーレンは即答した。


「企業の価値を見つけたいからです」


グレアムは少し驚いた顔をした。


「値上がりではなく?」


「価値です」


老人は静かに頷いた。


「いい答えだ」


その瞬間。


ウォーレンは自分の進む道を確信した。


何十年もの歳月が流れる。


若者は中年になり、やがて老人になる。


しかし習慣は変わらなかった。


朝は新聞を読む。


数字を調べる。


企業を分析する。


地味で単調な毎日。


だがその積み重ねが巨大な結果を生んだ。


ある日。


世界中の記者が集まる株主総会。


会場には熱気が満ちていた。


人々は彼の言葉を聞こうと何時間も並んでいた。


壇上に現れたウォーレンは、九十歳を超えても穏やかな笑顔を浮かべていた。


「成功の秘訣を教えてください」


記者が尋ねる。


会場が静まる。


ウォーレンは少し考えてから言った。


「特別なことじゃない」


「え?」


「良い会社を見つけて、信じて待つことだ」


会場に笑いが広がる。


記者は首を傾げる。


「それだけですか?」


ウォーレンは頷いた。


「それだけだよ」


そして少し遠くを見るような目をした。


彼の脳裏には、新聞配達をしていた少年時代の朝が浮かんでいた。


芝生の匂い。


自転車の音。


母親の作った朝食。


数字を書き込んだ小さな帳面。


人生は複雑なようでいて、案外単純なのかもしれない。


小さな種を植える。


毎日水をやる。


焦らず待つ。


そうすれば木になる。


そしていつか大きな実を結ぶ。


株主総会が終わった後。


夕暮れの空が赤く染まっていた。


窓の外を眺めながら、ウォーレンは秘書に言った。


「結局ね」


「はい?」


「人生も投資も似ているんだ」


「どういう意味ですか?」


老人は優しく微笑んだ。


「本当に価値のあるものを見つけて、大切に育てることだよ」


外では風が木々を揺らしていた。


若葉が夕日に輝いている。


少年時代に植えた種は、いつしか世界中の人々を驚かせる大樹になっていた。


だが本人の心は、新聞を抱えて走っていたあの日の少年のままだった。



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