虹色の半導体
虹色の半導体
じっとりとした湿気が、上質なラム革の黒いレザージャケットの内側にこもっていた。
ジェンスン・フアンは、カリフォルニアの眩しい太陽を遮るように、オフィスのブラインドを少しだけ下げた。窓の隙間から差し込む光が、彼のトレードマークである銀髪を白銀に輝かせている。部屋には、淹れたてのエスプレッソの苦い香りと、何百台ものサーバーが唸りを上げるかすかな電子音が混ざり合っていた。
机の上には、特製のステーキサンドイッチが置かれている。カリッと焼かれたトーストの香ばしさと、溢れんばかりの肉汁、そして少し強めのペッパーの香りが鼻腔をくすぐった。しかし、ジェンスンの指はフォークに向かうことなく、手のひらに収まる小さな四角い金属片――最新のGPUチップ――を愛おしそうに撫でていた。
コンコン、と小気味よい音がして、部屋のドアが開いた。長年の相棒であり、共にエヌビディアを立ち上げたエンジニアが、数枚のプリントアウトを抱えて入ってきた。
「ジェンスン、例のディープラーニング用マトリクスのシミュレーション結果が出たよ。君の予測通り、従来の演算速度を遥かに凌駕している」
ジェンスンはチップを机に置くと、不敵な笑みを浮かべた。
「当たり前さ。私たちはただのグラフィックボードを作っているんじゃない。未来の脳を作っているんだからね」
「それにしても、この数字は狂っている。世界中のデータセンターが、一晩で私たちのチップを欲しがるようになるぞ。株価だって、また跳ね上がる」
友人の言葉に、ジェンスンは首を振った。
「数字や株価はどうでもいい。私が震えているのは、この小さなシリコンの塊が、人間の知性を拡張するという事実だ。ほら、見てごらん」
ジェンスンは窓の外を指差した。
「あの街を行き交う人々、走る車、すべてがいつか、このチップが描くアルゴリズムの上で動くようになる。ゾクゾクしないか?」
「確かに、君のビジョンにはいつも鳥肌が立つよ。だが、まずはその美味そうなサンドイッチを食べたらどうだ? 冷めたら肉の脂が固まって、せっかくの味が台無しだ」
「それもそうだな。脳をフル回転させるには、上質なタンパク質が必要だ」
ジェンスンは笑って、レザージャケットの袖を少し捲り上げ、サンドイッチを大きく頬張った。ジューシーな肉の旨味と、ピクルスの酸味が口いっぱいに広がる。噛み締めるたびに、張り詰めていた神経が少しだけ解きほぐされていくようだった。
「美味い。やはり肉は裏切らないな」
「気に入ってくれてよかったよ。ところでジェンスン、次のカンファレンスの基調講演、衣装はどうするんだ? まさか、またその黒い革ジャンで行くわけじゃないだろうね」
友人がからかうように言うと、ジェンスンは真顔になって自分の胸元を叩いた。
「これが私の戦闘服だ。これを着ていると、1993年にデニーズの片隅で、君たちと未来を語り合っていた頃の熱い気持ちを思い出せる。皮膚の一部みたいなものさ」
「頑固だな。まあ、それが君のスタイルだし、今や世界中がその革ジャンを待っているんだから、変える必要もないか」
「その通り。見た目を取り繕う暇があるなら、一列でも多くコードを書き、一つでも多く回路を最適化すべきだ」
ジェンスンは冷めかけたエスプレッソを喉に流し込んだ。濃厚な苦味が、舌の上に心地よい刺激を残す。
彼は再び、机の上の虹色に鈍く光る半導体を見つめた。部屋の照明を反射して、シリコンの表面が細かく、まるで生き物のように明滅しているように見えた。
「私たちは、1540億ドルという数字に価値を見出しているんじゃない」
ジェンスンは静かに、しかし確信に満ちた声で呟いた。
「私たちが作っているのは、人類の歴史の次の章だ。この光の中に、まだ誰も見たことのない未来が詰まっている。それをこの手で解き放つまで、私は絶対に立ち止まらない」
友人はその強い眼差しに圧倒されたように、深く頷いた。
「ああ、行こうジェンスン。世界を驚かせる準備は、もうできている」
西日が部屋を赤く染め上げる中、ジェンスンは再びレザージャケットのジッパーをしっかりと締め、未来を動かすためのディスプレイに向き直った。




