北フランスの灰色の空 ベナール・アルノー
北フランスの灰色の空
朝の空は鉛色だった。
フランス北部の工業都市ルーベ。冬の冷たい風が石畳の通りを吹き抜け、工場の煙突から立ち上る白煙を横へ流していく。
十四歳のベルナールは制服のコートの襟を立てながら学校へ向かっていた。
灰色。
空も建物も人々の表情も。
だが少年の目だけは違った。
鋭く、何かを探していた。
学校帰り。
ベルナールは父ジャンの会社へ立ち寄った。
建設会社の事務所だった。
コンクリートの匂い。
紙の図面。
電話のベル。
タイプライターの音。
大人たちが忙しそうに働いている。
父は机に向かっていた。
濃紺のスーツ。
白いシャツ。
無駄のない身なり。
ベルナールは父の隣へ立った。
「お父さん」
「どうした」
「この建物はいくらで売れるの?」
父は顔を上げた。
「お前はいつも変わったことを聞くな」
「気になるんだ」
父は笑った。
「建物の値段よりも、そこから生まれる利益のほうが大事なんだ」
ベルナールは黙って聞いていた。
「利益?」
「そうだ。金は金を生む」
その言葉は少年の胸に深く残った。
夜。
家族で夕食を囲む。
テーブルには温かなポトフ。
牛肉と人参とじゃがいもが煮込まれている。
湯気が立ち上る。
焼きたてのバゲット。
バター。
赤ワインは大人だけ。
母は上品な紺色のワンピースを着ていた。
ベルナールはスープを口に運びながら考えていた。
金は金を生む。
その言葉を。
「何を考えているの?」
母が尋ねる。
「将来のこと」
「まだ十四歳なのに?」
父が笑う。
「若いうちから考えるのは悪くない」
ベルナールは真剣だった。
「僕は大きな会社を作りたい」
食卓が静かになる。
「ほう」
父が興味深そうに見る。
「どんな会社だ」
「まだわからない」
ベルナールは窓の外を見た。
街灯の光が濡れた石畳を照らしている。
「でも世界中の人が知っている会社」
父はゆっくりうなずいた。
「それならまず勉強しろ」
「はい」
「夢を見るだけでは駄目だ」
「わかってる」
その夜。
ベルナールは自室で本を読んでいた。
経済。
数学。
建築。
同年代の少年たちが遊んでいる時間だったが、彼は数字が好きだった。
数字は嘘をつかない。
努力も裏切らない。
そんな気がしていた。
数年後。
青年となったベルナールは工科大学へ進学する。
首席クラスの成績だった。
教授たちも感心するほどだった。
「君は建築家になるのか?」
ある教授が尋ねた。
ベルナールは首を振る。
「違います」
「では何になる」
「経営者です」
教授は驚いた。
「なぜだ?」
「建物を一つ作るより、会社を動かしたいからです」
教授はしばらく考えた後、笑った。
「面白い若者だ」
卒業後。
父の会社に入社した。
毎朝早く出勤する。
工事現場を回る。
書類を確認する。
契約を読む。
誰よりも働いた。
そして気づいた。
世界が変わり始めていることに。
建設業だけではない。
もっと大きな波が来ている。
ブランド。
名前。
憧れ。
人は機能だけでは物を買わない。
夢を買う。
そう考えるようになった。
ある日のこと。
高級ホテルのラウンジ。
ベルナールは取引先との会食に出席していた。
濃いグレーのスーツ。
シルクのネクタイ。
磨き上げられた革靴。
窓の外にはパリの夜景が広がっている。
料理が運ばれてきた。
鴨肉のロースト。
赤ワインソース。
香ばしい匂い。
グラスにはボルドーワイン。
周囲には成功者たち。
そこで彼は気づく。
皆が同じブランドを身につけている。
同じ時計。
同じ鞄。
同じ香水。
それは単なる商品ではなかった。
地位。
憧れ。
物語。
人々はその物語にお金を払っている。
ベルナールの胸が高鳴った。
「これだ」
思わず呟く。
「何がです?」
隣の男性が尋ねた。
ベルナールは微笑む。
「未来です」
「未来?」
「ブランドは世界を超える」
男性は意味がわからないという顔をした。
だがベルナールの中では既に歯車が動き始めていた。
北フランスの灰色の空の下で育った少年は、世界一美しいブランド帝国を築く夢を見始めていたのである。
まだ誰も知らない。
この静かな青年がやがてルイ・ヴィトンやディオール、セフォラを抱える巨大な王国を率いることを。
まだ誰も知らない。
世界中の富豪ランキングを賑わせる男になることを。
窓の外ではパリの灯りが宝石のように輝いていた。
ベルナールはワイングラスを持ち上げる。
「始まりだ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
その瞳には、未来の帝国の姿が映っていた。




