青い画面の向こう側
青い画面の向こう側
二〇〇四年、二月の終わり。ハーバード大学の寮の窓は、白く曇っていた。
外では雪まじりの風が煉瓦造りの校舎を叩き、古びた街灯の光が淡く揺れている。部屋の中には、冷めたピザとコーラの甘ったるい匂い、熱を持ったパソコンの機械臭が混ざっていた。
十九歳のマーク・ザッカーバーグは、灰色のTシャツの上に紺色のパーカーを羽織り、裸足のまま椅子に座っていた。膝を立て、指先だけを異様な速さで動かしている。
カタカタカタ、とキーボードの音が止まらない。
「おい、マーク。お前、三日くらい外出てないだろ」
背後で声がした。
振り向くと、ルームメイトのダスティンが紙袋を抱えて立っていた。湯気の立つ中華料理の匂いが広がる。胡椒と油の香りに、マークの腹がぐうと鳴った。
「……腹減ってたの思い出した」
「人間らしい反応だな」
ダスティンは笑って机に白い箱を置いた。蓋を開けると、オレンジ色のチキンが照り、湯気が立ち上る。マークはプラスチックのフォークを掴み、そのまま画面から目を離さず口へ放り込んだ。
「熱っ」
「だから見ないで食うなって」
マークは舌を出して笑った。その顔はまだ少年っぽさが残っている。癖のある茶色い髪は寝癖だらけで、頬には薄い髭が生えていた。
画面には、青と白の簡素なページが表示されている。
“Thefacebook”
まだ小さなサイトだった。
「本当にやるのか?」
ダスティンが訊いた。
「何を?」
「学生全員の顔と名前をネットに並べるんだろ。大学、怒るぞ」
「別に悪いことじゃない」
マークは肩をすくめた。
「みんな、誰が誰だかわからなくて困ってる。授業で隣に座った子の名前を忘れるし、パーティで会った相手も翌日には消える。だったら、一覧にすればいい」
「その発想が怖いんだよ、お前は」
窓の外で風が唸った。
マークは一瞬だけ手を止め、暗い夜空を見た。
「人ってさ」
低い声だった。
「繋がりたがってるんだと思う」
部屋の暖房は弱く、空気は乾いていた。だが彼の瞳だけは妙に熱を帯びている。
「電話帳みたいなものか?」
「もっと近い」
「近い?」
「顔を見れば、その人を思い出せる」
マークはそう言って、またキーを叩き始めた。
深夜一時を回る頃、部屋には完全な静寂が落ちていた。聞こえるのはタイピングと、古い冷蔵庫の低い唸り声だけ。
マークはコードを書きながら、小さく独り言を漏らしていた。
「ここを直して……ログイン……いや、先に写真表示……」
彼の目は赤く充血している。だが疲れているはずなのに、顔には奇妙な高揚感があった。
突然、ドアが乱暴に開いた。
「マーク! 本当だった!」
クリスが飛び込んできた。頬を真っ赤にして息を切らしている。
「何が?」
「もう百人以上登録してる!」
「は?」
「口コミだよ! みんな使い始めてる!」
マークは椅子を蹴るように立ち上がった。画面を確認する。数字が跳ね上がっていた。
ユーザー数、二百三、二百九、二百十五。
更新するたび増えていく。
「……冗談だろ」
彼は呟いた。
その瞬間だった。
胸の奥が、どくん、と鳴った。
恐怖に近い感覚だった。
自分が作ったものが、自分の手を離れていく。
ダスティンが静かに言った。
「なあ、これ、でかくなるんじゃないか?」
誰も答えなかった。
窓の外では雪が降り始めていた。白い粒が夜のキャンパスを覆い、街灯の周囲を静かに舞っている。
マークは椅子に座り直した。
指先が少し震えていた。
「サーバー増やさないと落ちる」
「今から?」
「今すぐ」
「お前、寝てないだろ」
「寝る暇ない」
彼は笑った。
その笑いは、子供が秘密基地を作る時の顔に似ていた。
クリスが中華料理をつまみながら訊く。
「もし成功したらどうする?」
マークは画面を見つめたまま答えた。
「成功?」
「うん。大学中、いや、全米で使われるとか」
しばらく沈黙が続いた。
やがてマークは、静かに言った。
「世界中の人が繋がったら、面白いと思わないか?」
部屋の空気が止まった気がした。
誰も笑わなかった。
外では雪が積もり、夜明け前の青白い光が窓辺に滲み始める。
冷えたピザ。
飲みかけのコーラ。
散らかったコードのメモ。
十九歳の青年。
そして、小さな青い画面。
まだ誰も知らない。
この部屋から始まるものが、世界を変えることを。




