青い熱の行方
青い熱の行方
二〇〇四年、初夏。カリフォルニア州パロアルトに借りた一軒家のリビングは、まるで巨大な機械の胎内のようだった。
窓の外には西海岸の眩しい太陽が照りつけ、青々とした芝生が広がっているというのに、室内の遮光カーテンは固く閉ざされている。薄暗い部屋を照らすのは、何台も並べられた液晶ディスプレイの青白い光だけだった。床には何重にも絡み合う太いLANケーブルがのたうち回り、いくつもの空き缶や、食べ散らかしたファストフードの紙袋が散乱している。
二十歳になったばかりのマーク・ザッカーバーグは、お気に入りの色あせた灰色のジップアップパーカーの袖を肘まで捲り上げ、狂ったような速度でキーボードを叩いていた。彼の指先が動くたびに、カタカタカタ、と乾いたプラスチックの音が部屋の重苦しい空気を震わせる。
「おい、マーク。 Napsterのショーン・パーカーがこっちに向かってるって。本当にここで会うのか?」
部屋の隅に置かれた、へたったソファからダスティンが声をかけた。彼はケチャップがべっとりとついたフライドポテトを口に放り込みながら、心配そうにマークの背中を見つめている。部屋には、油の回ったポテトと塩気の強いタコスの匂いが、ぬるい空気とともに淀んでいた。
マークは振り返りもせず、画面を見つめたまま答えた。
「彼が来るなら好都合だ。ショーンはネットワークの広げ方を知っている。『ザ・フェイスブック』は、もうただの大学のサークル名簿じゃない。もっと遠くへ行く必要があるんだ」
マークの着ているTシャツの襟元からは、何日も風呂に入っていない若者特有の、汗と酸っぱい体臭がかすかに漂っていた。だが、彼の瞳は恐ろしいほど澄んでおり、画面に映るコードの文字列だけを正確に捉えている。
そこへ、玄関のドアが乱暴に開く音が響いた。
「やあ、天才たち。ここが新しい世界の中心か?」
現れたのは、仕立ての良い黒いジャケットを羽織ったショーン・パーカーだった。彼は部屋の乱雑さや、こもった匂いに眉一つ動かさず、自信に満ちた笑みを浮かべて歩いてくる。その手には、高級なイタリアンレストランのテイクアウトボックスが握られていた。
「マーク、君の噂は東海岸からずっと聞こえていたよ。ハーバードのサーバーをブチ壊した男、だろう?」
ショーンはマークのすぐ隣に歩み寄り、箱を開けて見せた。中には、ハーブの香りがふわりと広がる、焼きたての特製フォカッチャと生ハムのパスタが入っている。部屋に充満していた安っぽい油の匂いが、一瞬で高級なオリーブオイルの香りに塗り替えられた。
「これを食べるといい。頭脳を動かすには、まともな燃料が必要だ」
マークは差し出されたフォカッチャを一切れ掴み、無造作に口へ運んだ。ローズマリーの爽やかな苦味と、塩気の効いた生地が口いっぱいに広がる。それをコーラで強引に流し込みながら、マークはショーンをまっすぐに見据えた。
「僕たちのシステムを見たか?」
「見たさ。完璧だ。美しい。だけど、一つだけ気に入らないところがある」
ショーンは細い指を立て、マークのディスプレイのロゴを指差した。
「『ザ・フェイスブック(The Facebook)』の『ザ』だ。そんなものは美しくない。ただの『フェイスブック(Facebook)』にしろ。その方が、すっきりと世界に溶け込む」
その言葉を聞いた瞬間、マークの脳裏で、冷たい火花が弾けたような感覚があった。
「……フェイスブック」
マークはその言葉を、口の中で何度も呟いた。まるで新しい玩具を手に入れた子供のように、彼の胸の中に冷徹な高揚感が湧き上がってくる。
「それだ。それで行こう」
その日の夜、ショーンを交えた彼らは、リビングの床に直に座り込み、安いビール瓶を片手に未来を語り合っていた。
外からは、カリフォルニアの夜風に揺れる木々のざわめきと、遠くを走る車のエンジン音がかすかに聞こえる。室内の熱気は最高潮に達しており、マークの頬はビールのアルコールと興奮のせいで、赤く上気していた。
「マーク、これはただのウェブサイトじゃない。人間の『アイデンティティ』そのものをデジタル化する試みなんだ。君は世界中の人間の秘密を、その手の中に握ることになる」
ショーンの声は、まるで悪魔の囁きのように甘く、魅惑的だった。
「秘密じゃない」
マークはビール瓶の冷たいガラス肌を指でなぞりながら、静かに、しかし断固とした口調で遮った。
「みんな、秘密にしたいんじゃないんだ。むしろ逆さ。自分がここにいること、こんなに素晴らしい人生を送っているということを、世界中に大声で叫びたがっている。僕は、そのための拡声器を作っているだけだ」
彼の言葉に、ダスティンとショーンは息を呑んだ。
マークが見つめているのは、目の前のビール瓶でも、部屋にいる仲間たちでもなかった。何千キロも離れた場所にいる、まだ見ぬ何百万人ものユーザーたちの、承認を求める飢えた目。それらがネットワークを通じて、自分の元へと繋がっていく情景だった。
数ヶ月後、ウェブサイトから正式に『ザ』の文字が削られ、ただの『Facebook』となった。
登録者数は、マークの予想を遥かに超えるスピードで膨れ上がっていった。数万人、数十万人、そして数百万人。画面の向こう側で、無数の人間の顔写真と、彼らの「日常」が、生き物のように増殖していく。
ある日の明け方、マークは一人でパソコンの前に座っていた。
他のメンバーは全員、疲れ果てて床やソファで泥のように眠っている。部屋の中は静まり返り、ただサーバーの冷却ファンが放つ、フォーンという低い機械音だけが響いていた。
マークの視線の先には、グラフの曲線が垂直に近い角度で上昇していく画面があった。
「これで、もう誰も僕を無視できない」
マークは小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
彼の心の中にあったのは、かつて大学の寮で自分を拒絶した世界への、静かな復讐心に似た感情だったのかもしれない。あるいは、もっと純粋な、世界そのものを自分の手で書き換えてしまったことへの全能感か。
窓の外から、冷たい朝の光が差し込み、マークの灰色のパーカーを白く照らし始める。
彼はキーボードの上に再び両手を置き、次のコードを書き始めた。指先から伝わるプラスチックの硬い感触だけが、彼にとっての唯一の現実だった。彼がこれから創り出す新しい世界には、もう誰も逃れることのできない、巨大な繋がりが待っている。十九歳の少年が始めた悪ふざけは、完全に終わったのだ。




