後編
アゼイリアは自室の天井を見つめ続けた。
この天井を見るのもあと少しだ。
寮の部屋はもうほとんど片付いている。
あと少し残っている荷物をまとめれば終わるのだが、なぜかその気が湧いてこない。
「はぁ……」
無意識にため息が零れた。
どうしてこんなにため息を零すのだろうと考えるけれど、勝手に出てくるのだ。
目を閉じれば高貴な姿が浮かんできて、打ち消すように頭を振った。
訓練三昧で今まであんなことなかったから忘れられないだけだと、そう自分に言い聞かせる。
ベッドの上で寝返りを打とうとしたとき、部屋の扉をノックする音がした。
「アゼイリア、今良いかしら?」
「エドナ?」
扉の向こうから聞こえてきた声は友人のエドナだ。
ベッドから起き上がって扉を開けると、彼女はお仕着せ姿で立っていた。
「忙しい? 大丈夫だったら、ちょっと散歩しない?」
「ああ……良いよ」
エドナは仕事中じゃないだろうかと思いながらも、部屋の片づけをする気も起きなかったので、気晴らしに散歩も良いだろうと考えた。
上着を羽織ってエドナの後ろをついていく。
「元気ないじゃない。どうしたの?」
「うん……何だかやる気がおこらなくて……」
「第二王子殿下のせい? あなたが拒否したって、城中で噂よ」
「拒否……っていうわけじゃなくて、そもそもあり得ない話だったから……」
「殿下自ら求婚して、国王陛下もお認めになっているのに、あり得ない話ってこともないでしょう?」
エドナがはっきりとした口調で言ってくる。
これが彼女の良いところだけど、今は何だか重たい。
「あり得ないって思っているのは、アゼイリアだけじゃないの?」
「……こんな女性らしくもない私だし、そもそもただの騎士だし、釣り合うはずがない……」
「ああ、もうっ。辛気臭いわねえ。殿下はそんなアゼイリアが良いって選んだんだから、それで良いじゃない。騎士が何を怖がっているのよ!」
「……あの、ところでどこに向かってるんだ?」
興奮しているエドナにアゼイリアは尋ねた。
後ろをついてきたが、先ほどからどこへ向かっているのか気になっていた。
寮から歩き続けて建物の間の小道を通り、見知らぬ階段を上って、狭い隙間を通り抜けている内に、一体どこへ来てしまったのか見当もつかない。
「私たちメイドには近道があるのよ」
「はあ……。で、どこへの近道なんだ?」
「行ってみれば分かるわよ。ほら、この先よ」
「え……?」
扉を開けて出てみれば、そこは美しい庭園だった。
後ろからエドナに背を押されて庭に足を踏み入れると、背後で扉が閉まった。
「ちょっと……」
振り返って扉を引っ張ってみたが開かない。
どこかも分からない場所に置いて行かれてどうすれば良いのだと思いながら、仕方なく庭の方へと進んだ。
静かな庭を歩いていると、だんだんと見覚えがある気がしてきた。
そう考えて、王宮の中の庭だと思い出す。
警護で王宮内は立ち入るので見覚えがあっても不思議ではない。
あんな抜け道あったのかと思っていると、先の方に人影があることに気づいた。
その人影が静かに振り返る。
「……第二王子殿下……」
その姿を見てアゼイリアは思わず息を飲んだ。
あの夜会の後、逃げるように途中で帰って以来だ。
立ち止まったアゼイリアに、第二王子が歩み寄ってくる。
「会いたくて私が頼んだことだ。すまない」
「い、いえ……」
「もう一度、そなたと話をしたかった」
第二王子はそう言うと、アゼイリアを四阿の方へと連れた。
まるであの夜会のときのようだと思う。
座るように促されて、あの日の緊張が蘇ってくる。
「まず、気が急いていたばかりに理由も告げず求婚したことを謝罪する」
求婚という言葉が出てきて、アゼイリアの胸の奥が大きな音を立てた。
終わった話だと思っていたのに、再び第二王子の口から出てきて、胸の奥で音が鳴り続ける。
「私は罪悪感から求婚したわけではない」
第二王子は向かいの椅子に腰を下ろすと、アゼイリアをまっすぐに見つめながら告げた。
「あのとき、瞬時に短剣の前へと飛び出したそなたの勇ましさに心を打たれた」
「いえ、職務ですので……」
アゼイリアは緩く首を横に振りながら答える。
しかし第二王子は言葉を続けた。
「騎士を辞して故郷へ帰ろうとしていることを知り、引き留めたくて急いでそなたに求婚したのだ」
そう言って、アゼイリアの右手をそっと持ち上げた。
先日やっと包帯が取れたそこには、剣が刺さった傷跡が残っている。
「あ、あの……殿下……?」
「傷跡が残ってしまったな」
第二王子は目を細めてその場所を見つめた。
深く突き刺さった剣の跡は、一目で分かるほどに残っている。
この国では女性の傷跡は結婚の不利となる。
それも目に映る場所にあれば、結婚ができない確率はますます高くなった。
「私は騎士でしたので傷跡なんて……」
アゼイリアはこれまでの訓練や実践で負った傷や怪我の跡を思い返した。
こんな手の傷跡なんて目立たないほど、この身には多く残っている。
それは職務の証だと自負していた。
たとえ、女として婚姻の妨げになるとしても。
騎士として仕えていたことは、アゼイリアにとって誇りだった。
「そなたは自分のことを女性らしくないと言ったが、性別など関係なく強く勇敢な姿は美しい」
持ち上げられた手を包み込むように握られてそう告げられた瞬間、アゼイリアの胸の奥がひと際大きく音を響かせた。
この音は何だろうか。
あまりにも大きく響き過ぎて、第二王子にも聞こえてしまっていないだろうか。
そんな不安と緊張が込み上げてくる。
「あ、あの……殿下、もう離して……」
「なぜ?」
聞き返されてアゼイリアは余計に混乱した。
そもそも未婚の男女が触れ合うなどあまり褒められた行為ではない。
「人に見られたら……」
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのかアゼイリアには分からなかった。
けれど、握られていた手の甲に第二王子が唇を寄せた瞬間、全てが吹き飛んで頭の中が真っ白になるほど驚いた。
「そなたの全てに触れたい」
「っ……!?」
傷跡に触れたまま第二王子の唇が動き、その感触に背筋が震える。
何も言えず真っ赤になったまま固まっていたアゼイリアに、第二王子は視線を上げると真っ直ぐに目を見つめた。
その視線に射抜かれる。
どんなときでも身動きができなかったことなんてなかったのに、これはなぜだろうと思ったけれど、うまく頭が回らない。
そんなアゼイリアに、第二王子は顔を上げるとゆっくりと近づいた。
「アゼイリア」
第二王子の口から自分の名前が出たことに、アゼイリアは息が止まりそうになった。
「どうか、王族としてではなく、私自身を見て貰えないだろうか?」
「で、殿下……」
まただ、と感じた。
何事も命じられる立場にありながら、頼むように言うその口調がアゼイリアの心を戸惑わせる。
「名前を呼んで欲しい」
命令ではないのに、その言葉は強く心を揺さぶった。
恐れ多いと、そう思うのに、なぜかその言葉が口を出ない。
決して命令ではないはずなのに、命令以上にその言葉は強い意味を持つようだった。
「……セオフィラス殿下……」
声が上ずりそうだった。
「ああ……そなたに呼ばれるとこの上なく幸せだ」
冷静と名高い第二王子――セオフィラスが口元をわずかに微笑ませ、初めて見るその笑顔に、アゼイリアは力が抜けて体が後ろに傾いた。
「どうした、大丈夫か?」
「っ……」
倒れそうになったアゼイリアの背に、腕が回されて支えられる。
信じられない。
何かの間違いじゃないだろうか。
もしかしたら自分は第二王子を庇ったあのときに死んだのではないだろうか。
アゼイリアは本気でそう思った。
これは幻かもしれないと。
しかし、耳に届く声は幻にしてはあまりに鮮明すぎる。
「こちらにも口づけたい」
「え……、え……っ?」
吐息が混ざり合うほど近くで囁かれて、胸の奥がそれまで以上に大きな音を響かせた。
アゼイリアは、怪我を負い騎士を辞めて田舎に帰ることを決めたとき、女性らしくも魅力もないからと、今更結婚は諦めていた。
けれど、セオフィラスはそんなアゼイリアを騎士として勇ましいと称え、美しいと言ってくれた。
そう言われて、胸が高鳴らない方が不思議だ。
「アゼイリア」
セオフィラスはアゼイリアの片手を取ったまま、すぐ目の前に片膝をついて跪いた。
騎士に対して王子が跪くなど、そんな光景は昔読んだどのお伽話にもなかった。
けれど、今現実として、セオフィラスはアゼイリアの前に跪いて、手を取っている。
「心から愛おしく思っている。どうか、私と結婚して貰えないだろうか――?」
触れられた手から伝わる温もりが、釣り合わないと頑なに思っていたアゼイリアの心を溶かしていく。
温もりと、情熱的な言葉と、真っ直ぐに自分を映す眼差しが、全ての感覚を惹きつけて、一生離さなかった――。
突発的に思いついて書いたので早すぎる展開となってしまいましたが、王子に翻弄される女騎士をとにかく書きたかったです。
読んで頂きありがとうございました!