03
期せずしてマリーを驚かせた青年は、リヒャルト・ケルナーという名前らしかった。肩章には陸軍中尉であることを示す銀の星が光っている。外の空気を吸いにバルコニーへ出たところ、偶然にも具合の悪そうなマリーを見かけ、声をかけたのだと言う。名前といい容姿といい、いかにもといったクローネ人だ。マリーはひそかに顔をひきつらせた。
「失礼いたしました。悪気はなかったのですが、ずいぶん驚かせてしまったようだ」
「……いいえ、お気遣い感謝いたします」
ケルナーは慇懃に詫びたが、マリーの声は硬かった。
先ほどは驚きもあって、つい見つめ合うなどという愚を犯してしまったが、相手はクローネの将校だ。親しみなど持てるはずもない。このまま彼と話しているくらいならホールに戻り、少なくとも両親の死には関わっていない招待客と腹の探り合いをしている方がいくぶんか良かった。
態度こそ丁寧ではあったが、マリーが内心面白く思っていないことは伝わったらしい。ケルナーは露骨に苦笑した。
「軍属はお嫌いですか」
「ええ、あまり」
マリーは短くそう答え、物憂い表情で視線を庭園へと移した。静かに夜風の吹く屋敷の庭では、思い思いの色をした花冠が重たげに揺れている。眠りを知らぬ花々は、頭上でめぐらされる人間の思惑などどこ吹く風で、マリーにはそれが少しうらやましかった。
歯に衣着せぬ返事ではあったが、その率直さが相手にはかえって好ましく映ったようだった。ケルナーは広間の喧騒に目をやると、軽く肩をすくめてみせた。
「我々としても、このような華やかな場に似つかわしくないということは自覚しています。ご招待いただいておいてなんですが、自分などはむしろ苦手なくらいで」
マリーは無言のまま空疎な微笑を作った。どうやら新鮮な空気を求めていたのではなく、ホールの人混みから逃れたかったというのが正しい表現らしい。その点では自分と共通しているが、親近感は湧かない。嫌われるためわざとそっけない答え方をしたのだが、あまり上手くいかなかったようだ。不在の期間が長かったせいか、どうも調子が狂っているようでいけない。
マリーが押し黙っていると、ケルナーは少々気まずそうに咳払いをした。
「ところでフロイライン、あなたのお名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
そう訊かれて口をつぐんでいる訳にはいかなかった。いかに相手が相手でも、粗相をすれば家名に傷がつく。マリーはぴんと姿勢を正し、はっきりと名乗った。
「ローズマリー・ミュートスと申します。どうぞ、お見知りおきを」
ケルナーの表情に驚きの色が浮かんだ。
「ミュートス家のご令嬢でしたか」
「そのように大それたものではありません」
マリーがそう否定しても、ケルナーは何事か思案している様子で、わずかに顔をしかめた。あまり関わり合いになってはいけないと考えているのか、あるいは他のことだろうか。いずれにせよ全く興味がないことだったから、マリーはつんとそっぽを向いた。会話がぷっつりと切れ、二人とも何も言わぬまま、しばらく夜の匂いにつつまれていた。
どうしてこうなってしまったのだろう。従兄弟には会えず、広間から逃げ出した末、見知らぬクローネ人と二人きり。これではあのまま閉じこもっていたのと何も変わらない。むしろその方がましだったのではないだろうか。
視界にはたちまち憂鬱の影が差し、深い嘆息を漏らしそうになったとき、不意に大きな音がして、マリーとケルナーは同時に広間の方を見た。どうやら室内ではちょうど一曲が終わったところらしい。沈黙を破ったのは楽団へ向けられた拍手のようだ。マリーはほっと胸を撫で下ろした。
ちょうど良い区切りのようだし、ホールへ戻る頃合いかもしれない。ケルナーの方だって、いつまでもこんな気まずい雰囲気を共有していたくはないだろう。
マリーはにわかに明るい表情になってケルナーを見た。すると彼は先ほどの難しい顔のまま、低い声で言った。
「少々よろしいですか」
「……? なんでしょう、ケルナー中尉」
引き留められた理由が理解できず、小さく首をかしげると、ケルナーは静かに片膝を折り、マリーの前にひざまずいた。ためらいがちにマリーの手を取り、真摯な表情でこちらを見上げる。髪は月を溶かし込んだ銀、眦の切れ上がった瞳は飴色の琥珀。古式ゆかしい仕草に青年らしい誠実な様子が相まって、まるで一枚の絵のようだった。
「身分違いを承知で乞います、フロイライン・ローゼマリー。どうか自分と一曲踊ってはいただけませんか」
ケルナーは切実な声でそう言った。からかっている気配はまるでなく、ひたすら真剣なまなざしをこちらに向けている。マリーはと言えば、突然のことで身じろぎすら出来ず、ただただ相手を見つめ返すだけだった。
二人しかいないバルコニーは静まり返り、ガラス戸を隔てた喧騒すらどこか遠くへ消えてしまったかのようだ。マリーにはまるで時間が止まったように感じられた。
たかだか一曲の相手にと望まれたくらいで、どうしてこんなにも動揺しているのか、マリーにはわからなかった。もう幾度も経験しているのに、頭の中が真っ白になってしまって、思考が働かない。だいたい、相手はクローネ人で、しかも軍属で。残された理性が必死に主張しているのに、唇を動かそうとしても言うことをきかない。胸の芯がひどくうるさいだけだ。頬が熱くなるのを感じながら、マリーは無理やり口を開いた。
「なぜです?」
かすかに震える声で尋ねつつ、マリーは長いまつげを伏せた。いつまでも見つめ合っていることの恥ずかしさに、今さら気がついたのだった。
「こういった場はお好きではないのでしょう。無理にそんな」
「なかなか意地の悪い質問をなさいますね」
ケルナーは困ったように眉根を寄せた。元が端正な顔立ちであるせいか、その姿は物語の中の青年が恋に悩む様子を思わせた。その物憂げな表情に、マリーはまたどきりとさせられる。
「なにかお気に障ることが?」
「いえ。ですが、やはりこういう駆け引きはお上手だなと」
意味深な言葉にマリーが再び小首をかしげると、ケルナーはかすかに苦笑してみせた。
「あなたのような可愛らしい方とひと時を過ごしたいというのは、そんなにおかしなことでしょうか?」
今度こそ頬が朱色に染まるのが分かった。マリーは胸の鼓動に抵抗もできず、もう片方の手で顔の色を隠しながら、首を縦に振る他の選択肢を持たなかった。
「わ……私でよろしければ、喜んで」
その恥じらう様子が微笑ましかったのか、ケルナーは琥珀色の目をかすかに細めた。
広間の中央ではすでに幾組かの男女が次の曲を楽しんでおり、さまざまな色のドレスが鮮やかに咲き乱れていた。そこへエスコートされたマリーが進み出ると、自然と衆目を集めた。不可解そうな顔で言葉を交わす者もいる。クローネ嫌いで知られたミュートスの嫡子が、よりによって軍人と手を取り合っているのだから無理もない。そんな視線を知ってか知らずか、ケルナーは平然とした表情を崩さなかった。
先ほどの発言を鑑みるに、あまり夜会向きの人物ではないようだが、ケルナーはマリーの予想よりもずいぶんとリードが上手かった。足取りにぎこちなさはなく、軽やかな三拍子に難なく入り込んでいく。マリーはむしろ久方ぶりに踊る自分のことが不安だったが、最初のターンが過ぎる頃にはそんな心配は消えてしまった。
体が羽根のように軽く感じられる。こんなにも気持ちが昂揚するのはいつ以来だろう。くるりと回るたびに後れ毛が揺れ、マリーの口元は自然とゆるんだ。よく夜会に出席していたころ、マリーはこの時間が何よりも好きだった。繊細かつ華やかな音楽に包まれ、軽やかに舞う幸福。優しいミルク色の思い出が、かがり火のように脳裏によみがえる。一瞬、マリーは真からの笑みをこぼした。
けれど、相手は。ふと視界に鴉羽の黒が映り、マリーは束の間の幻想から引き戻された。上目使いにそちらを見ると、ケルナーは穏やかなまなざしを返してくる。マリーはついと目をそらした。
会話が弾むことこそないが、ダンスが楽しいことは否定できなかった。けれど、どうして自分があんなにも心乱されてしまったのか、それがどうしてもわからない。あんなことは決して初めてではないのに、なぜ。
足取りは崩さないまま、再び物思いにふけっていると、ケルナーは不意に後が怖いな、と呟いた。
「フロイライン・ローゼマリーと踊ったなどと知られたら、他の男性に恨まれそうだ」
「どうしてそう思われるのです?」
基盤のステップを忠実に守りつつ、ケルナーはなぜか苦い顔をした。
「あなたを欲しがる者はいくらでもいるでしょうからね」
「ご冗談を。美しい女性など星の数ほどおられます」
「しかし北極星は一つだけだ」
ケルナーがさらりと言ってのけた言葉に体がかたまり、マリーはステップを誤った。足がもつれ、倒れかかったマリーを、ケルナーはそつなく支える。
「お怪我は?」
「だ、大丈夫です」
ほとんど抱きすくめるような形で引き戻され、いつも以上に体が密着する。マリーは慌てて体勢を直し、三拍子の世界に足を戻した。なんとか調子を取戻し、まじまじと彼の顔を見つめる。
「ケルナー中尉、あなたは……」
「フロイライン・ローゼマリー」
しかしケルナーはそれを遮り、マリーの耳元に唇を寄せた。
「リヒャルトと呼んでいただけると、とても嬉しいのですが」
「わ、わかりました……リヒャルト」
低く澄んだ声でそう言われると、まるで睦言でも囁かれたかのように、甘やかな高鳴りがマリーの胸に満ちた。ひどくどきどきして、顔が勝手に赤くなるのがわかる。薔薇色に上気した頬を恥じ、マリーはそっと目を伏せた。
男性と踊るのはこれが初めてではない。もっと大げさな言葉で称賛されたことだって数えきれないくらいある。なのに、どうしてこうも調子が狂うのだろう。
恥じらい床に視線を落としていると、マリーは多色の大理石に月の光が差していることに気がついた。月と銀、あるいは琥珀。夜の導とリヒャルトの持つ色はあまりにもよく似ている。
きっとそのせいだ、とマリーは無理やり自分を納得させた。月が持つ不思議な引力が自分を狂わせたのだと。
こんなことは今宵だけだ。自分にそう言い聞かせたマリーが再び優雅なターンを描くと、宙に淡い紫の軌跡が引かれた。
曲の最後の余韻が消え、マリーは小さく息を弾ませながら膝を折った。
「楽しい時間でした、リヒャルト」
「付け焼刃ではありますが、こうしてあなたと踊ることが出来たのなら、覚えた甲斐がありました」
リヒャルトは近くの給仕から杯を二つ受け取って、片方をマリーに差し出した。婦女子に気を使っているのか、アルコールは入っていない。渇きを覚えたマリーがそれを口元に運ぶと、リヒャルトは残念そうに周囲に目をやった。見れば明らかにマリー目当ての招待客が、話しかけるタイミングを今か今かとうかがっている。
「どうやらこれ以上あなたを留めてはおけなさそうですね、フロイライン・ローゼマリー」
「あの」
リヒャルトが別れの言葉を口にしかけたのを、マリーは遮った。不可解そうな彼を上目使いに見上げ、唇をきゅっと結ぶ。緊張のせいか、両手で持ったグラスはかすかに震えていた。
「どうか私のことはマリーと。親しい方はそう呼ぶのです」
「いいのですか?」
リヒャルトがずいぶん意外そうな声を出したので、マリーは慌てて釈明した。
「く、クローネ風の呼び方が好きではないだけです。元の名前はあなたには発音しにくいようですし、それに」
いったん喉につかえた言葉を、うつむきがちにマリーは呟いた。
「……クローネはともかく、り、リヒャルトのことは、嫌いではありませんから」
言い終えるまえから、おかしな風には聞こえなかったか、やはり口にするべきではなかったのではないかと後悔しつつ、マリーはおずおずと顔を上げ、そして目を丸くした。
マリーの精一杯の台詞を、リヒャルトは何とも言い難い顔で聞いていた。意外さでも、ましてや喜びの発露などでは決してない、まるで冷めた表情だった。その落差にマリーが硬直していることに気がついたのか、リヒャルトはすぐに微笑みを作ったが、先ほどとは明らかに何かが違う、どこか歪な笑顔だった。
動くことを忘れたマリーの頬にそっと触れると、リヒャルトは優しい声で言った。
「マリー、自分はあなたのような方が大変好きです」
捕まったのだと気がついたときにはもう遅かった。背には彼のもう片方の腕が回されていて、逃れることが出来ない。声すらも凍りついたかのようだった。
「美しく謙虚で、恥じらいがあって」
そして整った唇が、はっきりと嘲笑の形に変わった。
「それに頭が悪い」
ぞわりと背中に寒気を感じた。マリーは必死で身をよじったが、しょせん男性の力を振り払えるはずもない。白手袋の指先が小さなあごをつかみ、無理やり上を向かせた。取り落したグラスが床で割れる。マリーはひきつった顔のまま、とっさに目をつむった。
ほんの短い時間、唇に柔らかいものが触れ、離れる。ひどく乱雑にマリーの唇を奪ったリヒャルトは、先ほど甘い言葉を紡いだばかりの低い声で囁いた。
「俺のものになれよ、お嬢様」
ようやく彼の腕から解放され、マリーは口元を押さえたまま、茫然とした表情で立ちすくんでいた。動揺のあまりか、周囲の音が何も聞こえない。ただリヒャルトの見下したような表情が目に入るだけだ。真っ白な熱が頭の奥でくすぶる。
それが怒りだと気づくのに、もう数瞬を要した。次いで、白桃のようにすべらかな肌が一瞬で熟れる。
欺かれ、侮辱され、あまつさえ唇まで奪われ。
その上、なんですって?
マリーは無意識のうちにぴんと指先を伸ばし、右手を振り上げていた。
「この……無礼者ッ!」
何かの破裂したような音が響いた。さすがにこれは予想していなかったのか、リヒャルトは小さくうめき、頬を押さえて後ずさった。あまりに強い力で打ったせいか、右手がじんじんと痛む。その痛みで我に返ったマリーは、生まれて初めて人に手を上げてしまったことにようやく気がついた。それも、衆人環視の中で。
一気に頭から血が下がる。取り返しのつかないことをしてしまった。気づけば、先ほどまで談笑に興じていたはずの人々や給仕までもが唖然としてこちらを見ている。
これ以上ここにいてはいけない。ただその考えだけが素早く駆け巡り、マリーはひどく青ざめた顔で踵を返すと、ドレスの裾をつまみ、わき目も振らずに出口へと走り出した。人混みにまぎれ、アンソニーの驚愕した顔が目に入る。それにすらかまわず、マリーは一目散にその場から逃げ去った。