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奥の部屋へと消えたシシロウさんは、しばらく戻って来なかった。
逃げた可能性もあったけど、それはそれで私は掃除をするだけだ。
こうなったら家事で私の良さを見せつけてやる。
“こんなの”とか色々言ったことを、後悔させてやる。
そんな執念に突き動かされ、私は自前のはたきを取り出し、埃と格闘していた。
「……それにしても、本の柱、柱、柱……一体なんの本なの?」
この家の掃除で一番の難敵は、天井にぴったりくっつくほど積み上げられた本の柱だ。
テーブルに置いてあった一冊を手に取ってみたが、分厚い古書で、目が回るような専門用語がびっしり並んでいる。
私は頭を押さえながら、すぐに元の場所に戻した。
……それにしても、これってどう見ても高価な本だよね。
だとしたらぞんざいに扱うわけにはいかない。
とはいえ、部屋の半分以上を占領しているとなると、さすがに邪魔ではあるのだが……。
「——山積みの本はもう読まねえから、適当に処理してくれ」
すると、ようやくシシロウさんが戻ってきた。
どうやら逃げたわけではなかったらしい。
……が、私は思わず目を白黒させた。
言われた通り、身なりを整えてきたシシロウさんは――ぼさぼさだった髪を一つにまとめ、ヒゲも剃ったその姿は、先ほどとはまるで別人だったからだ。
聞いていた年齢よりも、ずっと若く見える。
さっきはわからなかったが、アメジストのような紫の澄んだ瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
――そして悔しいが、生きていた頃の父さんよりもかっこいい。
「……本当にさっきの方ですか?」
思わずそう疑ってしまう。
「あのな、俺を何だと思ってんだ?」
シシロウさんはしかめっ面でドカリとソファに腰を下ろす。
そんな彼を見つめながら、私は小首を傾げて答えた。
「かつて世界を滅亡させようとした魔の神を討伐した、勇者様……ですよね?」
そう、彼こそが伝説の英雄――勇者シシロウ・アルダ、その人なのだ。
――魔の神。
30年前、突如として現れ、人々を襲い、世界を滅亡へと追い込もうとした存在。
その危機を救うべく、私の両親を含む4人の仲間と共に旅立ち、わずか4年でそれを討ち果たした英雄。それが彼だ。
私は母さんからいつも、シシロウさんの英雄譚を聞かされて育った。
だからこそ、目の前の男性がその勇者様だという事実に、少しガッカリしている。
すると、シシロウさんは深いため息を吐いた。
「……それはもう20年も昔の話だ。今はどこにでもいる、ただのオッサンだよ」
軽い言い草とは裏腹に、その表情は険しいものへと変わる。
……母さんの忠告通りだ。
シシロウさんは、20年前の話になると途端に辛そうな顔をして、口を閉ざしてしまうらしい。
なぜ彼がそうなるのか、そこまでは母さんも教えてはくれなかった。
だがきっと、思い出したくないほどの苛烈な戦いがあったのだろう。
誰だって、喋りたくない過去の1つや2つはあるものだ。
「あの……処分と言っても高そうな本ですし、勿体ないんじゃないですか?」
空気の変化を察した私は、素早く話題を変えた。
と、シシロウさんはめんどくさそうに頭を掻きながら言った。
「まあ確かに、どれも国立図書館に並んでてもおかしくねえ代物だからな。専門家が見りゃあ、喉から手が出るほど欲しがるだろうよ」
「こ、国立って……じゃあこれ、国宝級の財産ってことじゃないですか!?」
一気に全身から冷や汗が噴き出す。
国宝級ということは、一冊一冊が金銀財宝以上の価値があるということだ。
それだけの価値があるとは……一体どんな内容が書かれた本なのか。
不意に、本の柱の一つがぐらりと傾いた気がして、私は慌てて支えた。
「財産って言っても、人によるがな。しかもこの国にはそういう施設もないから、寄贈もできそうにねえんだよな」
そうぼやいて、少ししてからシシロウさんはソファーから立ち上がった。
「しょうがねえな……」
彼はなにやら紙にしたためると、その書簡を手に私の横を通り過ぎる。
「え? あの、どこに行くんですか?」
ドアノブに手をかけたシシロウさんに、慌てて尋ねると――。
「腹減ってんだろ? 昼だし、飯でも食いに行こうぜ」
彼は口角を吊り上げて、そう言った。
その笑みは、年相応よりもずっと子供っぽく見えた。
「ほら、掃除は中断だ。さっさと行くぞ」
「あ、でも私、そんなにお金持ってませんけど……」
「俺が奢るに決まってるだろ」
デリカシーがない人ではあるけど、そういう配慮はできるらしい。
と、シシロウさんは私を待たずに扉を開け、外へ出ていく。
「あ、待ってください!」
はたきを放り出し、慌ててその後を追いかけた。
私はシシロウさんと共に、オラターンの町を歩く。
改めてこの町の人の多さに圧倒され、少し酔ってしまいそうになる。
するとシシロウさんが不意に、私の腕を引いた。
「辛いんだろ? 無理に隣を歩かずに、俺の後ろを付いてろ」
そう言われて彼の背後に回ると、人波の圧迫感がいくらか和らいだ。
「ありがとうございます」
「ったく……この程度の人混みで気持ち悪くなるとは、呑気な田舎のままなんだな、そっちは」
私の故郷――ケンノク島を知っている口振りだった。
そういえば、シシロウさんも同じ島の出身だと、前に母さんから聞いたことがある。
「……田舎がそんなにいけませんか?」
口を尖らせて言い返すと、彼は軽く笑った。
「悪くはねえよ。それだけ穏やかな暮らしができてるってことなんだからな」
その言葉に先ほどまでの嫌味はない。
――この人のことが、私にはいまいちよくわからない。
だらしなくて、デリカシーもない。
かと思えば、こうしてまともなことも言う。
良い人なのか、不真面目なのか。
いずれにせよ、こんな人が元勇者だったなんて、本当に信じられない。
母さんから聞いていた勇者様のイメージとは、あまりにもかけ離れている。
勇者シシロウは勇猛果敢で、誰にでも手を差し伸べる熱い男。
そして、誰よりも“勇者らしい”勇者だった。
だからこそ、魔の神を討ち倒せたのだと――そう聞いていたのに。
……けれど、旅立つ前に母さんは、こんなことを言っていた。
『……シシロウくんはね、今でも囚われていることが2つだけあるの。そのせいで人が変わってしまったと言ってもいいかもね』
小さな頃から勇者の冒険譚は毎度毎度聞かされていたが、そんな話は初耳だった。
『2つっていうのは、何?』
『1つは、マルルにもよく話していた20年前の冒険のこと……シシロウくんはあの旅を、辛い記憶として抱えているの。だから、その話になると、とても辛そうなのよ』
そして、もう1つはね――。
――そのとき。
シシロウさんが足を止めた。
考えごとをしていた私は、その背中にぶつかってしまう。
「っだあ……どうしたんですか?」
彼の横からこっそり覗き込むと、前方で騒ぎが起きていた。
「なにこんなとこで馬車止めてんだ! 邪魔だろうが!!」
「人混みで進めねえんだよ! 文句あるならそっち行け!!」
「整備係は何やってんだあ!!?」
どうやら馬車同士が道の譲り合いで揉めているらしい。
御者同士が殴り合い寸前となり、駆けつけた衛兵が慌てて止めに入っていた。
その様子を見ながら、周囲の人々がひそひそと囁く。
「ホント、未だに交通信号も整備されてないなんて」
「魔法があれば、こんなことにはならなかったのに……」
「ええ……魔法がなくなったのは不便よねぇ」
魔法。
その言葉が出た瞬間だった。
シシロウさんは、何も言わずに歩き出した。
それも、少し足早に。
「あ、ちょっと待ってください!」
私は慌てて彼の後ろに続く。
「……驚いたろ。この国じゃあ馬車の通り方だけであれだ。しかも厄介なことに日常茶飯事でな」
歩きながらシシロウさんがポツリと言う。
私は彼の言葉を聞き逃さないよう必死に歩きながら、返答する。
「はい。私の故郷では、あんな揉め事は聞いたこともありません」
人通りのせいで馬車が立ち往生してしまったなら、人がいなくなるまで一緒に待つか、人の方に道を開けて貰えばいいだけのことだ。
そんなこと、田舎出身の私だってわかるような常識だ。
「この国はな、20年前までは世界で1、2を争うほどの魔法主義大国だった。なんでも“魔法”に頼りっぱなしだったんだよ」
彼の説明を聞いて、私は「あっ」と声を漏らす。
これも母さんから聞いていた話だった。
――魔法。
かつてこの世界に存在していた、魔の力。
自然の理を捻じ曲げ、“なんでも”を叶える摩訶不思議な力。
それは、魔の神からの恩恵だった。
だから――その神が倒されたとき。
魔法もまた、この世界から消えた。
魔法を動力源として依存していた国々は、大きな打撃を受けた。
家屋の照明、交通信号、飲み水までも。
魔法の消滅と共に、ほとんどの機能を失った。
そのせいで壊滅した都市や、多くの犠牲も出たのだという。
ケンノク島は自給自足の文化だったから、消滅の影響はほとんどなかったらしい。
……なんて。
魔法を知らずに育った世代の私には、それこそ摩訶不思議な話だ。
「魔法は確かに必要な力だった。だが――勇者が、それを消した」
低く、抑えた声で彼は言う。
「その結果がこれだ。この国は代替のライフラインもまともに整備できず……20年経ってもこのザマだってわけだ」
自嘲するように、シシロウさんは笑う。
その笑みが、皮肉なのか、それとも――後悔なのか。
私には、まだわからない。
――ただ。
母さんが言っていた、彼が未だに囚われていると言う“もう1つ”。
それが、この“魔法”なのだと。
私は、ふと思い出していた。




