最終話 最後
雨の音が、遠くでまだ続いている気がした。
未華が目を覚ましたとき、最初に見えたのは白い天井だった。
知らないはずなのに、なぜか懐かしい匂いがする。
消毒液。
機械の規則的な音。
カーテン越しの、曇った光。
「……ここは」
声に出して、少しだけ遅れて理解する。
病院だ。
体を起こそうとして、うまく力が入らない。
指先が、少しだけ震えている。
――何があったんだっけ。
考えようとした瞬間、頭の奥で“何か”が引っかかる。
雨。
夜道。
車の中。
そして――
「……ひまり?」
「龍一……?」
名前を口にした瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
理由はわからないのに、涙だけが先に滲む。
ドアが開く音がして、看護師が入ってくる。
「気がつかれましたか」
優しい声。
でもその目が、ほんの少しだけ曇っている。
「家族の方は――」
言いかけて、言葉を止めた。
その“間”が、すべてだった。
それからのことは、ひどく曖昧だった。
説明を受けた気がする。
事故だったと聞いた気もする。
誰かが何かを言っていた。
でも、大事なところだけが、ぽっかりと抜け落ちている。
ただひとつ、確かなのは――
何かを、失ったということだけだった。
退院して家に戻ると、玄関の空気がやけに静かだった。
「……ただいま」
いつものように言ってみる。
返事は……ない。
わかっているはずなのに、少しだけ待ってしまう。
靴を脱ぐ。
並んでいるはずの三足は、一足しかなかった。
リビングに入ると、テーブルの上にマグカップがひとつ。
――あれ?
違和感がよぎる。
前は、どうだったっけ。
考えようとして、思い出せない。
ふと、写真立てに目がいく。
家族写真。
笑っているはずの記憶。
そこに写っていたのは――
昼間の公園で三人が笑顔の写真。
「……え?」
「……ひまりは?龍一は?」
その瞬間、何かが崩れた。
雨の音。
ヘッドライト。
強く踏まれたブレーキ。
――龍一が、ハンドルを切る。
「未華、伏せろ!」
ひまりの小さな悲鳴。
そして――
衝撃。
息が、止まる。
「……ああ」
声にならない声が漏れる。
「……そうか」
ゆっくりと、すべてが繋がっていく。
守られたのは、自分だった。
龍一は助手席の未華をとっさにかばったのだ。
「……だからか」
夜。
未華は、ひとりで食卓に座っていた。
用意したお皿は、一枚だけ。
箸を持つ手が、少し止まる。
――本当は、もう二人分。
そう思いかけて、やめる。
食事を終え、静かな部屋に戻る。
ふと、背後に気配を感じた気がした。
「……ひまり?」
振り返る。
誰もいない。
「……龍一?」
やはり誰もいない。
でも――
ほんの一瞬だけ、笑い声が聞こえた気がした。
未華は、目を閉じる。
消えてしまうわけじゃない。
最初から、ここにある。
思い出すたびに、少しずつ形を変えて。
それでも確かに、残り続ける。
毎朝出て、帰宅する。
玄関に立ち、鍵を回す。
誰もいない部屋に向かって――
「ただいま」
静寂。
ほんのわずかな間のあと。
「――おかえり」
期待した声は、なかった。
それでも未華は、少しだけ笑った。
――最後に残ったのは、二人が家にいる記憶だった。




