第三十話 吐息重ねて、想い繋げて
「……シューゴ、口を開けて」
重い瞼を開く事が出来ず言われるがままにそっと口を開くと温かく柔らかい何かが流し込まれた。ほんのり温かいそれはじんわりと口一杯に優しい味が広がり、ゆっくりと喉の奥へと流れていく。
少量を流し込まれては柔らかい何かで口元が拭われ……それが数回繰り返された後に再び意識は深いところへと落ちていった。
深いまどろみ、現実と見紛うような夢……まさにそんな感覚だった、時折ふわりと香るイサナの香りも再現するとは夢の癖になかなかやるじゃないかと思わずにはいられない。
「……ん、くぁぁ……」
瞼の重さなどどこへやら、すっと目を開くと視界一杯に見慣れない天井が広がっていた。辺りを見回すとマントル海域の観測所で俺とイサナが暮らしている一室である事には気が付いたが、今俺が寝ているのは普段イサナが使っている二段ベッドの一段目だった。
どうしてこんな場所で寝ているのか妙にぼんやりする頭で考えながら腕を伸ばすと、まるでしばらく動かしていなかったかのように体内で盛大な音が鳴った。腕を支えに起き上がっただけでも腰や背骨が鳴り、なんだか面白くなった俺は次々に骨を鳴らしながら記憶を順番に繋ぎ合わせて考えてみる事にする。
俺はあの島に辿り着いてそれから……思い出せない記憶がある訳ではない。島亀の事もハイエナ魚からエイトが守ってくれた事も、エイトが怒り狂った事もしっかりと覚えてる……のだがどこか客観的というか、まるで夢でも見ていたかのように思えて仕方ない。
「水……」
さっきから喉が渇いて仕方ない……軋む体に鞭を打ちつつよろよろとベッドから這い出て水の入ったタンクの方へと歩いていくと、途中に置いてある一人掛け用のソファに足を引っかけて盛大に転んでしまった。
「ん……シューゴ?……シューゴ!?」
ぶつけた足を押さえながら床で悶えていると背後から驚いたような声がかけられた。情けないところを見られてしまったと慌てて誤魔化しの言葉を考えていると、飛び降りたんじゃないかという勢いでベッドから降りたイサナが慌てた様子で駆け寄り、俺の体を抱き起こした。
「良かった……なかなか目を覚まさないからずっと心配で、てっきり僕……!」
「ああ……そうか、そうだったな」
俺を抱き締めるイサナの手の感触や体温、ふわりと香る彼の匂い……何よりも優しく響くその声が俺の中で客観的だった記憶が強い実感となってふつふつと湧き上がってくる……そうだった、俺は……。
「……ただいま、イサナ」
「ん……おかえり、シューゴ」
俺の胸元をじんわりと濡らしながらすすり泣くイサナの背に手を回し、失いかけたその感触を今度はしっかりと脳に刻み込んでいき……そして同時に、答えを先延ばしにしていた感情から一つの迷いが消えた。
「……偽物? あの果実が?」
「うん、エイトが持ってきたあの果実の成分は殆どがアルミニウムと銅だったよ。他にも色々混ざっててここの設備じゃ詳細までは分からなかったけど……少なくとも僕達が食べられるようなものじゃなかったから、サンプル用に少しだけ削って後はエイトに食べさせちゃった。もしかしたらエイトも最初からおすそ分けのつもりだったのかもね?」
「マジかよ……じゃあなんだ、俺は本当に無駄骨を折っただけだったのか……」
「文字通り、ね? それより本当に体は大丈夫なの? あんな速度で骨折が治るなんて……今でも信じられないんだけど」
「それは俺も驚いてる、俺に注入されたナノマリナーはウチの研究所のマッドサイエンティストが改造した特製のものだって聞いてたけど……まさかここまでとは思わなかった、切り傷が一瞬で治るのは向こうで見たけど……練習で骨を折るわけにもいかないしな」
「……マッドサイエンティスト? 大丈夫なの、その人……?」
「ちょっと変な趣味はあるけど良い人だよ、愛に生きてるだけで」
「あ、愛……?」
首を傾げて複雑そうな表情を浮かべているイサナについ吹き出してしまう、声を出して笑いながら用意してもらった水の入ったコップを持とうとするが、右手を伸ばしたところでふと異常に気が付く。
「……? どうしたのシューゴ?」
「いや……右手がまだ少し痺れてるんだ、多分相棒達が疲れちゃったのかもしれないな」
胸に手を当てながら笑ってみせるが納得していないようだったので、左手でコップを持って一口水を飲むとイサナにも分かりやすいように噛み砕きつつ説明していく事にする。
俺に注入されたナノマリナーは巨大深海魚対策の為に完全な機械ではなく生体であること、それ故に個々に体力があり今はそれが切れているせいで右手の回復まで間に合わなかった事を説明すると渋々といった様子ではあるが納得はしてくれたようだ。
「まぁなんだ……それだけ着水の時のダメージが大きかったって事だな。足を治して内蔵も治して……右手の痺れを残して今は休憩してるなら相棒達は十分頑張ったよ、うん」
「そうだね……ねぇその子達はもう動かないの? 右手は自然治癒に任せるしか無いのかな?」
「いや、しばらく停止して体力が自然回復すれば再起動するし食事なんかで栄養を取れば再起動が更に早まるよ」
「よかった、じゃあ早速何か作って……」
「……ん? どうした、俺の顔に何か付いてるか?」
立ち上がってキッチンに向かいかけたイサナがこちらに振り向いて黙って見つめてくるので何かおかしいかと自分の姿を見てみるが理由が分からない、首を傾げて降参とばかりに両手を挙げるとイサナの表情に笑みが広がった。
「……うん、ご飯の前にまずはお風呂だね。ずっと寝っぱなしだったからさっぱりしてからの方がご飯もきっと美味しいよ!」
「いや待て待て! 一人で洗えるって!」
「右手使えないんでしょ? ほらほら遠慮しないで!」
この観測所のシャワールームはかなり広い、逆に何故浴槽を置かなかったのかという疑問も浮かぶがよく考えればこの観測所は元々無人の筈だったので大規模なものは用意出来なかったのだろう。
シャワーも所謂普通のものとは違い、壁際のスイッチや専用の小型デバイスを操作する事で天井に開いた無数の穴から降ってくるという何とも珍しい仕様になっている、更には壁から伸びた金属製のアームで様々な向きに稼働させる事も出来るベンチ型のバスチェアもあり、シャワーに当たりながらのんびり座る事も出来るというこの浴室は俺が今までに経験した浴室設備の中でも一、二を争う程に気に入っている。
「いや少し痺れてるだけだし、手伝って貰う程じゃ……ていうか俺の分のタオルは無いのか!?」
「タオルを腰に巻いてたら洗い辛いでしょ?……あ、心配しなくていいよ? 着替えさせる時にもう何度も見てるから」
「ああ……なんてこった」
そんな広い浴室に成人男性と小柄な男の子が一人……いや、バスチェアに座り羞恥と絶望に項垂れる男とそれを見て嬉しそうに笑う青年と言った方が正しいのかもしれない。
「それにしても……本当に男なんだなぁ、ほっそいけど」
「ずっと男だって言ってるじゃないか、細いのはそういう性質なの」
まじまじと見ていると拗ねたように睨まれそっぽを向かれてしまった。華奢ではあるがところどころ骨ばったその骨格はやはり女性のものよりもむしろ俺に近い、改めてイサナが男性である事を再認識しつつも俺の中の感情が衰えない事につい笑ってしまう。
絶え間なく降り注ぐ温かいシャワー……気が付けば肌はほんのりと赤く色づき、浴室に満ちた湯気によって周囲の景色は滲み、お互いの存在だけが強く浮き彫りになっていく。
「うぁぁ……気持ちいい……!」
「あはは、何それ? おじさんみたいだよ、今のシューゴ」
数分後、俺はイサナの洗髪テクニックにあっさりと骨抜きにされていた。
先程まではさほど気にならなかったが細い十本の指が髪の間を駆け巡り、皮脂の汚れが落とされる快感に堪らず声を漏らしていた。普段美容院などで先発されてもくすぐったいとしか思えないのだが、これほどまでに心地よいのは今の俺にとって心から安心できる空間と化しているからだろうか?
「おじさん言うなぁ……めちゃくちゃ気持ちいいのが悪いんだ、だからイサナが悪い」
「ふふっ……そっかそっか、じゃあ毎日でも隅々まで洗ってあげましょうかー?」
「……えっ?」
笑い交じりに発された言葉を軽く受け流す事が出来ずに顔を上げるとイサナとまっすぐに視線が合い、すぐに何かに気付いたイサナが「しまった」という表情を浮かべた。
「な、なーんてね? あ、このシャンプーはね? 僕のお気に入りで……」
壁のスイッチを操作してシャワーを起動し、シャンプーの泡を洗い流しながら何かの説明をしているが全く耳に入ってこない……やがて泡を落とし終わり、顔に着いたお湯をタオルで拭っているとあれほど弾んでいた会話が途切れ、沈黙が俺達を包み込む。
「……なぁイサナ、島での事なんだけど」
「い……今はその事はいいんじゃない? ほら、後は体も洗っちゃお?」
「イサナ!……今、話したいんだ」
顔を背け、洗体用のタオルを手に取ったイサナの手を掴むと驚いたのか一瞬体を震わせた彼がゆっくりと顔をこちらに向けた。
「悪い……でもあれからずっと考えてたんだ、それでようやく俺の中で納得できたから……話したい」
「や……やだよ、だって僕……変だもん」
少しだけ俯いたイサナの目にはうっすら涙が浮かんでいた、行き場をうしなったもう片方の手を胸元に当てて僅かに震えてるのが掴んでいる手からも伝わってくる。
「変って……何が、あの時は変だったって事か?……今は違うって、事か?」
「ち、違うよ! 僕は今でも……その、変わってないけど……だって変でしょ? 男が男を……なんてさ、気持ち悪いって人もいるだろうし……変だよ、あはは……きっと僕、どこかおかしいんだよ」
片手でイサナの顔にかかった髪をどかすと、目に涙を溜めて自虐的な笑みを浮かべるイサナがそこにいた……しっとりと濡れた髪に不安に震える深海を宿した瞳、俺の劣情を掻き立てるには充分すぎるが今はしっかりとイサナを見つめて答えを聞かせなくてはならない。
「イサナ、俺は……ん?」
「あっ、これは……ちがっ……」
一歩体を寄せると何かが太ももの辺りに当たった。たったそれだけの事なのにイサナは酷く動揺し、紅潮させつつもその表情には不安の色が色濃く出ている。
「シューゴ、ごめん……僕、駄目なんだ。この気持ちに気付いてからずっとシューゴが近くにいるだけでフワフワしちゃって……鼓動が抑えられなくて」
唇を震わせるイサナを見ていると俺の中で何かが弾けた……愛情、恋慕……言い方なんて何でもいいが目の前で怯える一人の男の子に対し確実な愛情がそこにはあり、気が付けば声を上げて笑っていた。
「そうか……そうかそうか、そうだよな。イサナも男だもんな、そういう点で言えば女よりも余程分かりやすいってもんだよな」
「しゅ、シューゴ? 何を……んっ……!?」
テクニックも経験も浅い男の唇を押し付けただけの乱暴な口づけ、しかし俺の胸に添えられたイサナの手に力がこもる事はなく……ゆっくりと唇を離すとお互いの呼吸が浅く、早くなっていた。
「シューゴ……僕……わっ……!」
「っと……やっぱり立ったままは危ないな」
力が抜けたのかよろけたイサナを支えて立たせると、自らバスチェアに腰掛けて膝を叩いてみせる。
「え、でも……大丈夫なの? 足……」
「平気平気、もう痛みも無いしさ? ほら、おいで」
手を差し出すと一瞬迷った後にその手を取ったイサナを膝の上に跨らせる、不安なのか恥ずかしいのか乗り方が随分と遠慮がちだが……今はそれでもいいだろう。
「俺は……俺はイサナの事が好きだよ」
「っ……! 好き……うん、僕も……シューゴの事が好き、大好きだよ……!」
再び唇を重ね、肌を重ね合い……今も命が続いている事に深く感謝し、ただ愛しいこの時をひたすらに貪り合った。




