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第二十九話 吠え猛る海獣

 痛い……少し体を動かそうとするだけでも鋭い痛みが全身を駆け巡る、何が起きた? 俺の体は今、どうなっている?……駄目だ。視界がぼやけているし短く、浅い呼吸を繰り返すのがやっとで頭を動かそうにも体が言う事をきかない。

 そういえば夢の中で同じような経験をした事があるような気がする。前を見ようとする意志はあるのにずっと首が仰け反っているかのように明後日の方向ばかりを向き、前に進もうにもじたばたとその場で足踏みを繰り返しているかのような……あれに似た感覚かもしれない。

 ──ああでも一つだけ違う点を挙げるとすれば気分は悪くない、体中を包み込むような浮遊感……まるで海と一体となってゆらゆらと漂い続けているかのようなこの感覚は嫌いじゃない。


『……ぎっ!?』


 不意に腕に激痛が走り思わず声が漏れる。いや……腕だけじゃなく無理矢理、曲がらない方向にまで体をいじくりまわされてあらゆる箇所の骨が軋んでいるかのような感覚が全身を巡り、それに合わせて耐えがたい痛みの波が止む事無く続いていく。


『痛い痛い! ああ止めて! 痛いのは嫌なんだ、痛いのは怖いんだ!』


 身をよじりながら叫び続けるがその全てが言葉にならず、無数の泡となって口から盛大に吐き出されていく……その間にも俺の体は捩じられ曲げられ、体力など欠片ほども残っていないのに強引に悲鳴を上げさせられる。


『やめっ……誰か助けてくれ! 誰かっ……!』


 俺を痛めつけているのは誰だ、俺を苦しめているのは誰だ、影も形も見えない何かから逃げようとぎこちなく体を動かすがそんな俺の足掻きを嘲笑うかのように腰が捩じられ、今までで一番の音が体内で鳴り響いた。


『ぎゃぁぁ!』




『シューゴ!……お願い、起きてシューゴ!』


「……っ!?」


 突如耳に届いたイサナの声にハッと顔を上げると目の前が真っ赤に染まっていた、視界の異常に首を傾げる暇も無く舌を刺激する酷い鉄の臭い……しかしその強い臭気がまどろんでいた意識をハッキリさせていく。どうやら、着水の際に吐血してしまったようだ。


「……イサナ? 俺、どうなって……」


『さっき突然通信が回復したんだよ! でもずっとシューゴの呻き声しか聞こえなくて……ねぇ無事なの!? そっちはどんな状況なの!?』


「俺も何が何だか……周りがよく見えない、今マスク内の汚れを落とすから少し待ってくれ」


 左手のデバイスを操作しようと右手を動かすが鈍くしか動かない、骨は折れていないようだがやはり着水の際のダメージが大きかったようだ……やっとの思いでデバイスを操作してマスク内に吐き出した血を除去すると視界が開け、今俺が置かれている状況を理解する事が出来た。


「っ……エイト……?」


 俺の声が届いている訳は無い筈だが異変に気付いたのか問いかけに合わせるように少し離れた位置にいるエイトが顔を僅かにこちらに向けて小さく鳴き声を上げた、しかしこちらを向いているのはエイトだけではない事にもすぐに気付きビクリと体が跳ねる。


『……エイト? エイトがそっちにいるの?』


「ああ、それと小さなナイフみたいなヒレを持った小型の深海魚が数匹……いや、もっといるかも。俺が気を失ってる間、エイトが守ってくれてたみたいだ……」


 ここから見えるだけで五匹か六匹の小型深海魚がエイトと向かい合っていた。エイトとは圧倒的な対格差があるにも関わらずナイフのような鋭いヒレを擦り合わせて不愉快な音を鳴らしては威嚇し続け、飢えた獣のような視線は俺の姿をガッチリと捉えている。


『最悪……そいつらはこの海の掃除屋と言えば聞こえはいいけどその実ハイエナみたいなやつらでね、常に集団で行動してエイトみたいな巨大深海魚にも怯んだりせず食欲に突き動かされるままに行動する……最も会いたくない奴らだよ』


 イサナの言葉通り隙を突いて素早く突進を仕掛けた一匹がエイトのヒレに絡め捕られて投げ飛ばされていった……が、それを見た他の小型深海魚は怯むどころか更に騒ぎ立てている。何故一斉に襲い掛かってこないのか疑問だったがよく見れば俺を覆うようにエイトの帯のような触手が数本周囲を漂っている……どうやら奴らは獰猛でありながら狡猾さも持ち合わせているようだ、下手な暴れん坊よりも余程厄介と言える。


「あれ以上増えるとエイトでも抑えきれないな……エイトは何であの魚を殺さないんだ?」


『エイトは基本的に不必要に殺さないんだよ、勿論空腹を満たす為に食べたりはするし縄張りを侵した相手を攻撃したりはするけど……逃げる相手は追わないし、自分から手を出す事は殆ど無いんだ。だからエイトの限界がくる前に逃げてシューゴ、体は動く?』


「……ああ、何とかね」


 両手足を軽く動かし、次に指を軽く動かしてみる……震える上に痺れ、随分とぎこちなくはあるが何とか動きそうだ。今すぐ走れと言われたら多分無理だがここが水中なのが幸いした、しかしあの衝撃で何故骨折もしていないのか不思議で仕方ない……運が良かった?……いや違う、現に足を動かした際の歪な感覚はそれこそ壊れた物を修復するために一度形だけ強引に整えたかのような……。


「そうか、ナノマリナー……あれのお陰か」


『ナノマリナー……ってあの地上で注射されたって言ってた、アレ?』


 帆吊によって改造された無数の生体ナノマシン……切り傷程度なら瞬時に治る事は分かっていたがまさか骨折まで治せるとはさすがに想定外だ、となると本当に運が良かったのは首の骨が折れなかった事か?……さすがに即死してはいくらナノマリナーといえど修復は無理だろう。


「ああ、とにかく移動を開始しよう……イサナ、俺の現在位置は分かるか?」


『任せて、レーダーの範囲外だけどシューゴのスーツの反応だけは追えるから』


 イサナに伝えられた現在地はあの島亀の位置から数キロ離れた地点だった、想定よりも飛ばされていた上にこの体では全速力での移動は不可能だ……ハイエナ共から逃げ切るのは難しいだろうが、それでも少しでも距離を稼ぐしかない、デバイスを操作して速度を調節しながら移動を開始するがやはり最大速度の半分以下の速度でもまっすぐに進む事は出来ず、すぐに体制を崩してしまう。


「ぐっ……くそ、速度が全然出せねぇ……」


『落ち着いてシューゴ……方向は合ってるから、焦らず進もう』


 少し後ろを振り向くとエイトがハイエナ魚を威嚇しながら一定の距離を保って付いて来てくれていた。ホッと息を吐き、前に向き直るとひたすら前進する事に神経を集中する……とにかく今は、一刻も早く観測所に戻る事を優先しなければ。




 進み始めて十分程経っただろうか。突如背後が騒がしくなり何事かと振り返るとどこから集まって来たのかハイエナ魚の数が三倍近くに増えていた、エイトも数本の触手を駆使して次々に拘束してはいるが小さく素早い奴らを完全に制圧するには至らず、かなり苦戦している。


「イサナ、エイトがそろそろ限界に近い……観測所までの距離はあとどのくらいだ?」


『……まだ半分ぐらいある、今のシューゴの状態じゃエイトを手伝う事は出来ないからとにかく前に進む事に集中して』


「それはそうだが……っ!?」


 背後から自分のものとは違う水の流れを感じ振り向くと、二匹のハイエナ魚が刃のようなヒレをこちらに向けて迫って来ていた! エイトもすぐに気が付いたのか触手を伸ばしているが、奴らの方が速くどう見ても間に合いそうも無い。


「くっ……!」


 進行を停止し体を捻じり、トライデントを起動すると腕を魚の方に向け数発発射する──が僅かな反動でも体全体に響くような痛みが走り、まともに狙いがつかない……! 辛うじて一匹には命中させて停止させる事が出来たが、攻撃を躱し切り眼前に辿り着いた一匹の鋭い刃が脇腹を掠めた!


「がっ……!」


 トライデントを躱しながらの一撃だったからこの程度で済んだのだろう、しかし裂けた腹部からは鮮血が滲み出し深く青黒い景色にじんわりと赤色を広げていく。


『シューゴ!』


「だ、大丈夫……少し掠めただ……け……」


 腹部を抑えながらイサナに無事を伝えると同時にエイトの触手が素早く脇を通り過ぎていった。これで二匹とも対処でき、移動を再開できるとホッとしたのも束の間……明らかな異常にすぐに気が付いた。

 ──何かが潰れる音が耳に届くと同時にハイエナ魚の一部が眼前を通り過ぎていったのだ。あまりの数に処理が追い付かず、力加減を間違えたのかとも思ったがエイトの姿を見た俺がその考えが間違いであると悟るのに時間はかからなかった。


「エイトの目が……赤く光ってる」


『っ……マズい、エイトが怒った……! シューゴ、今すぐ体を丸めて耳を……!』


 ──それはこのマントル海域全体に響き渡ったのではないかと錯覚する程の轟音と共に発された咆哮だった。音だけでなく、振動を伴ったそれは体の芯まで響き渡り聞く者全てを畏怖させるには充分すぎる威力を秘めており……その証拠とばかりに咆哮に当てられた俺やハイエナ魚達はその体をピクリとも動かせなくなっている。

 いつもは情に満ちた緑混じりの黄色に光っている目は今や殺気に溢れた赤色へと変わり、全身の至るところで電流を走らせているエイトの姿はまさに地上で災害と称される程に暴れ回った怪獣そのものだった……呆けて眺める事しか出来ない俺の目の前でエイトの角の間で体中の電流が集まって一つの球状になり、再び発された咆哮と共に電気の球は弾け、周囲に電気の槍を激しく撒き散らした。




 ……それからの事はよく覚えていない、最後に記憶にあるのはエイトの触手に抱えられながら観測所に戻った俺を、イサナが泣きながら抱き締めていた事だけだ。

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