第十九話 嫉妬、軋み、朗報
「……しかし驚きました、ここの事は資料で見た限りでは以前は廃墟同然だったと記憶していますが……にもかかわらずここまで再興させるとは、これも青海所長の手腕というやつですかね」
「ありがとうございます、挨拶はそれぐらいにして早速本題に入りましょう……こちらへどうぞ」
入口近くで待機している恵ちゃんが頭を抱えているのが見える、琴子ちゃんのすぐ後ろについた私は内心満面の笑みだ。
修吾君は知らなかったろうがこれがむしろ琴子ちゃんの本来の応対の姿だ、本人に悪気は無いのだが学生の頃から変わらないこの素っ気なさが琴子ちゃんの男っ気の無さの原因でもある……まぁ四六時中ベタベタと付き纏う私の存在にも少し、ほんの少しぐらいは原因はあるのだろうが。
「それで……本日はどのようなご用件で?」
下の研究所へは通さず、入口から入ってすぐの大型水槽の前に置かれた休憩用のソファに琴子ちゃんが腰掛け、派遣されてきた研究員も向かいに座らせる。私はというと琴子ちゃんの左後方に立ち、宇垣と並んで後ろ手に腕を組む……ボディガードでもある宇垣はともかく私は真似をしているだけだが、彼女の秘書にでもなったかのようで気分がいい。
「え? ああ、そうです……ね。それでは早速ですが……少々お待ちを、今資料を出しますので」
氷のような琴子ちゃんの応対に周防研究所からきた研究員は面食らっているのかぎこちなく鞄を膝の上に置いて漁り始めた、突然の訪問にも驚いたがそれよりも驚きなのはこの男が一人で来たという事だ。
本来こういう敵情視察には最低でも二人以上、なんなら四人ぐらいが来てもおかしくないと思うのだが……来たのはこの疲れた様子の研究員一人だけだ、それに彼は確か……興味が無さすぎて名前は憶えていないがそこそこ良い立場の研究員だったとデータベースで見た覚えがある、そんな人が一人で来る必要があるとは何かがあったのか単に人手が足りないだけか……どちらにしても、面倒な予感しかしない。
「こちらの研究所では先日マントル海域への投射を行ったと報告を受けていますが……その後、観測員の反応やデータの受信などは行えましたか?」
「まだ二週間ほどしか経っていないのであまり数は揃っていませんが問題無く行えています、守秘義務がありますので内容をお話しする事は出来ませんが」
「ええ、ええそうでしょうとも。ですがそうですか……観測員の無事が確認出来たのであれば、それだけでも一つの成果と言えるでしょう」
……勿論嘘だ、修吾君のバイタルサインは相変わらず検知出来ていないしメッセージの一つも届いていない。
「実は先日四号機を担当している研究所から正式に第四号観測所の消滅を確認したと連絡がきましてね? 今やその事実確認や事後処理にと、とんだお祭り騒ぎですよ……困ったものです」
「……消滅、と言いましたか? 信号が途切れたなどではなく?」
「消滅です、事前に届いた光信号の内容を見るに急激な海流の変化で岩壁に叩きつけられたというのが最終的な結論かと……研究が進んでいるとはいえ、深海というのは手ごわい相手ですね。深度の維持すらままならない事態が起こり得るとは」
なるほど、光信号……第四号観測所では私達のように電子的なデータをより安定させる方法ではなく電子ではない光の点滅で連絡を取るという手段をとっていたようだ、しかしあの方法には光を記録する専用の機材を搭載した船を常に同じ場所に固定しておかなければならなかった筈……全く、金に余裕のある研究所というのは羨ましい限りだ。
「それは由々しき事態ですが……私達に何か出来る事があるとは思えません、見ての通りここは新設ですし研究員の数も足りていません。手を貸したくとも余力が無いのです」
「何を仰る! 貴方方の事はよく聞き及んでおりますよ、優秀な成績で医者になった彼女に加えて精密機械にも精通した彼……そして海洋学の権威である青海誠一郎の一人娘であり彼の研究を引き継いだ貴方、まさに少数精鋭というやつではありませんか!」
お互い様だしデータベースを少し調べれば出てくる事だが……やはり自分の事を相手に知られているというのは気分が良いものではない、それが味方ではないとすれば猶更だ。
「褒めて頂いたところ恐縮ですが私はまだ父には遠く及ばない未熟な身です、それにまだ話が見えないのですが……具体的に私達に何を求めておられるのですか?」
「これは失礼を……今日はこちらに目を通して頂きたく参りました、まだ上に提出しておらず水面下で同志を集めているところなのです!」
そう言ってテーブルに叩きつけたのは碌にまとめてもいない資料の山だった、叩きつける勢いが強すぎて一枚がわたしの足元にひらりと飛んできた。
「巨大深海魚用の……罠……?」
思わず声に出して読み上げてしまった、陳腐なイラストで描かれているが内容を要約すると転移地点から現れる巨大深海魚を捕獲してしまおうというものだった。
「その通りです! 先に出現した巨大深海魚と軍の攻防を見ても実在兵器が与えたダメージはせいぜい鱗を剥がす程度……とても致命傷には足りません、しかし事実として巨大深海魚は突如姿を消しました……それは何故か! 私の立てた仮説では巨大深海魚は地上の環境には未適応なのではないかという結論が最も有力なのです、つまり……巨大深海魚は絶対ではない、我々人類の力で倒せるのです!」
自分の仮説に酔いしれる姿は置いておくとして……着眼点は悪くない、巨大深海魚が姿を消した理由については琴子ちゃんも調べていた時期があったが環境そのものという発想は盲点だった……この男、誰彼構わず声を掛ける姿勢とせっかく出した結論の使い道の陳腐さに目を瞑れば、或いは使えるかもしれない。
「……凄いですねぇ、この仮説は枝先主任さんが一人で出したんですかぁ?」
「えっ!?……あ、ああ! 他の研究者の資料は参考にしたが結論は僕が独自に導き出したものだよ!」
「さすが最新鋭の設備を揃えた研究所の主任さんですねぇ!……私も調べた事はありましたが、主任さんのような結論には辿り着けませんでしたよぉ」
「う、運が良かっただけだよ! でも僕は他にも……」
ソファの隣に腰掛け、問い掛けただけで枝先は聞いてもいない事をべらべらと喋り始めた。
あっさりと敬語も抜けて喋り続ける枝先に適当なリアクションを取りつつ相槌を打ち続けるのは苦痛でしかないが、これも琴子ちゃんの利益になると思えば我慢できる。私は琴子ちゃん一筋なのでこの男にも修吾君にも特別な感情は無いが、修吾君の方が随分と可愛げがあったし一人の人間として気に入っている……いや、目の前で勝手にヒートアップしているこの男と並べる事自体失礼だったかもしれない。
「って事はぁ、枝先主任は巨大深海魚の弱点についても見当がついているんですかぁ?」
「まだ候補は多いけどね、純粋に海水の塩分濃度や空気の可能性もあるし最後にあいつが食べたのがヘリコプターだからケロシン系のジェット燃料……要するに灯油が原因かもしれないし、もしかしたら塗料という可能性もあるね!」
「えー! でもそこまで絞れてるのって凄くないですかぁ?……ところで、第四号が消滅したって情報を手に入れられたのってどうしてなんですかぁ? 周防研究所の担当ってぇ、第四号じゃないですよねぇ?」
「ああそれは……くそ、なんだこんな時に……」
一番知りたかった質問に口を開きかけたその時、枝先の胸元のマグフォンが耳障りな電子音を響かせた。通常であれば情報の漏洩を防ぐ為にもマグフォンは一時預かるのだが、あまりに急だった為に恵ちゃんが失念していたらしい、目の前でのやり取りを聞くに帰還を促されているようだ。
「……もう少し話したかったが今日はここまでのようだ、資料の一部を置いていくから是非とも検討しておいてくれ」
「ありがとうございますぅ! よろしければ連絡先を交換して頂けませんかぁ?」
「あ、ああそうだな……ええと、どうやるんだったか」
ぎこちないながらも何とか連絡先を交換し終えると挨拶もそこそこに枝先は恵ちゃんに出口まで案内されて帰っていった、何度もチラチラとこちらに振り返るので吹き出しそうになるのを耐えるのが大変だった。
「はふぅ、慣れない事すると肩が凝るなぁー……でもでも、新たな情報源ゲットだよ琴子ちゃん!」
「……そうですか」
ぐるりと首を回しながらため息をつくと、琴子ちゃんは乱雑に資料をテーブルの隅にまとめて席を立ってしまった。
「こ、琴子ちゃん? この資料どうするの? どこにしまっておく?」
「破棄して構いません、元々拒否するつもりでしたし……話を聞いた上であの男の理念には同意しかねます」
吐き捨てるように言い残し部屋へと戻ってしまった琴子ちゃんの普段とは違う様子に慌てて追いかけて部屋のドアノブを握ると鍵はかかっていなかった、内心ホッとしながら扉をゆっくりと開くと……ベッドに腰掛けながら大きなぬいぐるみを抱え、恨めしそうにこちらを睨んでいた。
「こ……琴子ちゃん?……怒ってる?」
「……どうして私が怒る必要があるんですか」
「だ、だってさっきと態度が全然違うし……どうしたのかなって」
返事は無い、唇どころか顔全体を押し付けられている不細工なマンボウのぬいぐるみが羨まし……じゃない、邪な考えを頭の隅に追いやりどうにか顔を見ようとぬいぐるみをどかそうとするが、そっぽを向かれてしまった。
「……あの男にあんな風に色目を使う必要がどこにあったんですか?」
「えっ……?」
話をするきっかけが掴めず困っているとぬいぐるみ越しのくぐもった声で琴子ちゃんが唸った、何とか聞き取れたが想定外の内容に間抜けな声が出てしまう。
「隣に座る必要があったんですか? あの男がいやらしい視線を貴方に向けていたのに気付かなかったんですか?」
「……」
言葉が出ない、代わりにふつふつと腹の底から湧き上がってくるのは明らかな高揚感……思わずベッドから立ち上がり琴子ちゃんに抱かれているマンボウを強引に引き剥がすと、目を潤ませ顔を赤らめた煽情的な表情の彼女がそこにいた。
「もしかして……嫉妬したの?」
「知りません、嫌いです」
勢いよく取り上げたせいかベッドに仰向けに倒れ、顔だけ背けた彼女には威厳も何も無く……ただただ魅力的な一人の女性としてわたしの瞳に映る。
「私があの男の隣に座ったから? 嫌だったの?」
「……知りません、嫌いです」
胸の鼓動が早くなるのを痛いほどに感じる……ベッドのスプリングを軋ませて琴子ちゃんの足の間に自分の足を割り込ませ、覆い被さるような姿勢になるが彼女が抵抗する素振りは無い。
「私が好きなのは今も昔も琴子ちゃんだけだよ、さっきのだって琴子ちゃんの利益になるかと思って……」
「……『なー』にそんな事をさせてまで得た情報になんて意味も価値もありません……もう二度と、しないでください」
不意に琴子ちゃんがこっちを向いたかと思うと勢いよく抱き締められた、体が密着し彼女の鼓動もまた早鐘を打っているのを感じる……押し付けたせいで苦しいのかお互いの息が短く、早いものに変わっていく……ゆっくりと顔を近付けるが琴子ちゃんは何も言わず、こちらを見つめるだけ……ああ、この時をどれほど心待ちにした事か。
『皆さん今すぐ集まってください! 修吾からのメッセージを受信しました!』
「っ……! 本当ですかラブ!」
跳ねるように起き上がり、するりと器用に私の拘束から琴子ちゃんが抜けた事により私の唇は彼女が中学から愛用している毛布に押し付けられる事になった……あと一分、いやせめて十秒でいいから待ってほしかった。
「いつまでそうしてるんですか、早く行きますよ帆吊さん!」
「待ってよ琴子ちゃん! 私の据え膳は!?」
「何を馬鹿な事言ってるんですか! 先に行きますからすぐ来てくださいよ!」
無常にも音を立てて閉められる扉、先程まで確かに全身で感じていた温もりが徐々に薄くなっていくのを感じながらよろよろと立ち上がり、力無く扉を開けて部屋をあとにした。