45.エピローグ
――エヌがいなくなったあの日から、五年が経った。
『実習生』と書かれた名札を作業着を身につけた澪は、一ノ瀬病院のリハビリ室にいた。
「足をもう少し上げられますか?」
患者の足を持ち上げながら、声をかけると、高校生の患者は「できます!」と元気よく答えてから顔を歪めた。
《……痛い痛い痛い、けど、はやくよくなりたいし……》
澪は足を押さえる手を緩めると、角度を下げた。
「――痛いときは、言ってくださいね。いきなりは難しいですけど、だんだん動けるようになっていきますからね」
患者は一瞬黙ったあと「……はい」とうなずいた。
「相沢さん、慣れてきたわね! 今の患者さん、いつも無理しちゃうから、途中で声をかけてくれてよかったわ」
指導教官にそう言われて、澪は微笑んだ。
澪は高校を卒業してから、リハビリを専門に行う理学療法士を目指せる大学に進学した。
――もともと、医療系の仕事に興味はあった。
エヌとの時間を経て、心の声の【受信】をコントロールできるようになったので、部屋の外に出ても、気にせずに過ごせるようになったので、進路を変更して、現在の道に進んだ。
そのとき、がらっとリハビリ室の扉が開いた。
松葉杖をついた少年と、大学生くらいの青年が入ってくる。
二人の姿を見て、澪は目を瞬いた。
二人もまた、澪を見つめる。
「玲央くん、いらっしゃい。今日は陽真くんが付き添いなのね!」
指導教官がそう声をかけた。
――部屋に入ってきたのは、陽真と玲央だった。
「うん! 先生、俺、来週、演奏会出るよ! 来る?」
玲央はリュックを置くと、指導教官に手に持っていた紙を渡した。
『ブラスバンド部 定期コーンサート』と書いてある。
「まあ、すごいわね!」
指導教官はチラシを見て微笑むと、玲央の肩をたたいた。
「じゃあ玲央くん、リハビリしちゃいましょうか」
(玲央くん、元気そうでよかった)
その光景を目を細めて見つめる澪に、陽真がぎこちなく会釈した。
「……相沢さん、実習……うちの病院だったんですね」
「……そうなんです」
澪も軽く会釈を返した。
――あの日、遊園地から電車で帰宅してから、陽真とは会うことはなかった。
連絡先だけはエヌの携帯電話に残っていたので、時折、年始に年賀状のように挨拶だけのやりとりはしていた。
意識が戻った玲央が、一年後に退院したこと。
親権者の引き取りがないため、一ノ瀬病院の院長である陽真の祖父が里子として引き取ったこと。
玲央が学年を落として、小学校に通えるようになったこと。
陽真が一浪して医学部に進学したこと。
それは、そのやりとりのなかで聞いていた。
澪は処置の椅子に座った玲央に近づくと、話しかけた。
「……なんの楽器をやってるの?」
玲央は顔を上げ、澪を見つめた。
「……トランペット……」
それから首を傾げる。
「……新しい先生? なんか、会ったことある気がするけど……」
玲央には、エヌの意識の中で一緒に話した記憶はないようだ。
「……私は実習生ですよ」
澪はそう言って、玲央のリュックに視線を移した。
リュックのチャックの金具に、年季が入ってやや色褪せた五匹の竜のストラップがついている。
どれも、肉まんを抱えていて、【横浜限定】のタグがついていた。
「――それ、“ドラゴンマスターズ”のドラゴンでしょう? カッコいいね」
そう言うと、玲央ははしゃいだように言った。
「でしょ!」
◇◇◇
その日の実習を終えた澪は、病院を出ると職員駐車場に向かった。
母親から借りている軽自動車のエンジンを入れる。
――実習前に免許をとっておいた方がいいという、先輩のアドバイスを聞いて、実習が始まる前の夏休みに合宿で免許をとってきた。
車を発車する前に、スマホを開き、中古車の販売サイトを見る。
お気に入りに入れた白いMINIの値段を見た。
「――就職して、実家から通えば、買えるかな」
心の中でエヌに話しかける。
「……あたしは、自分の給料で買うよ」
車を買ったら、海までドライブに行こうと思う。
その日が楽しみだ。
――海に行く日は、助手席を空けておくと決めている。
アクセルを踏み、音楽をかけて、澪は車を走らせた。




