1.朝のホームで
ゴールデンウィーク明けの月曜。
都心に向かう朝の通学電車は、隣の人と身体がぶつかるくらいに混雑していた。
相沢 澪は、ヘッドフォンを頭につけると、スマホを開いて激しいテンポの音楽を流し、瞳を閉じた。けれど、アップテンポの歌詞の隙間から、周囲の“声”が頭の中に流れ込んでくる。
《電車混みすぎ。だるっ》
《会議、間に合うかな》
《あの子、かわいいな……》
その“声”は乗客の口から直接発されているわけではない。
心の中で、彼らが考えていることが、澪には声として頭の中に聞こえてくる。
一般的に【テレパシー】と呼ばれる力を、澪は持っていた。
肘が触れ合うくらいの範囲にいる相手の考えを、澪は受信し、読み取ることができた。
(寝坊したせいで、最悪……)
澪は音量を上げて、目を閉じた。
この能力をはっきり自覚したのは、中学校二年生のころ。
そのときは自分で受信をコントロールできず、教室に足を入れただけで吐いてしまい、登校拒否になった。今は、慣れたというか、聞き流すこともできるので、そのときよりだいぶマシになった。
――それでも、人混みは避けるようにして、高校は通信制の学校に進学した。
ふだんは家で勉強しているが、今日は学期に一回の登校日。
学期に一回くらいは、制服で登校したい気持ちはあるので、登校日にはきちんと登校するようにしている。空いている電車で周囲と距離があれば、そこまで“声”に悩まされることもないし――と、始発の電車で登校しようと思っていたところ、寝坊してしまったのだ。
深く溜め息をついたとき――ひとつ、妙な“声”が頭に響いた。
《やわらかそう》
ねっとりとした、不快な声だった。
澪は反射的に顔を上げた。
自分の、斜め前にいる、くたびれたスーツ姿の男。三十代後半くらい。顔は真面目そうで、疲れているようにも見える。手には黒いビジネスバッグ。いかにも、どこにでもいる会社員だ。
けれど、その視線は異様だった。
前に立っている大学生くらいの女の子の腰のあたりを、舐めまわすように見ている。
《ちょっとだけ》
《バレない》
《だいたい、こんなピッタリしたスカート履いて、誘ってるんじゃないか》
《俺が触ってやるよ》
ぞっとして澪は奥歯を噛んだ。
(最悪)
勝手に相手を人ではなく「触っていいもの」に変えてしまう。
その考え方が、たまらなく気持ち悪かった。
ガタン、ゴトンと電車が揺れる。
《いまだ》
思念とともに、男の手が女の子の腰に伸びた。女の子はびくり、と身体を震わせた。
《気持ち悪い》
今度は女の子の声。
もう我慢できなかった。
澪は唇を噛むと、そのサラリーマンの男の手首を掴もうと、手を伸ばした。
――そのときだった。
「ちょっと――」
「ちょっと」
澪の声に低い声がかぶった。
はっと顔を上げると、その低い声の持ち主が、澪と同時に男の手首をつかんでいた。
その声の持ち主はブレザーを着た、同学年くらいの男子高校生だった。
短い髪が爽やかな、教室で目立ちそうな端正な顔立ちをしている。
彼は驚く澪を見て、右側の口角だけ上げて、笑いかけた。
それから、男を見つめて、言った。
「――お姉さん、嫌がってるじゃないですか。痴漢は、犯罪ですよ」
「なっ」
男が顔を真っ赤にすると同時に、電車の車内がざわついた。
「なにを言ってるんだ! こんなに混んでるんだから、手がぶつかっただけ――」
まくしたてる男を睨んで、澪も加勢した。
「私も、見てました――」
触られていた女の子が、わぁっとその場に泣き崩れた。
車内の空気が、がらっと変わった。乗客全員が男を見つめていた。
《朝から迷惑だな》
《キモい》
《クソ》
《死ねよ、マジ》
周囲の感情が一斉に男に向けられる。
澪は頭が痛くなり、耳を押さえた。
――そのとき。視界に入ってしまった。
横にいる大学生くらいの男が、この光景にスマホを向けているのが。
『朝の電車で、痴漢逮捕目撃』
画面に浮かぶ文字が見える。
――動画の、生配信。
澪は背筋が冷えるのを感じた。
コメントが画面に流れる。
『うわ、キモっ』
『逮捕! 逮捕!』
『最悪』
流れるコメントから、そのコメントをした人間の感情が澪の頭に流れ込んだ。
《逮捕で人生終われ》
《家族とかいるのかな。ざまぁ》
《やられた方の気持ちになってみろ》
《死んで詫びろ》
《死ね》
澪は頭を押さえた。
――澪には、ネット越しの感情も聞こえる。
生配信のコメントには、書き込んだ人間の怒りや悪意がそのまま乗っていた。
「へえ」
そのとき――感心したような、物珍しがるような、場違いな声がした。
顔を上げると、先ほどの男子高校生が、右の口角だけ上げて、面白そうに笑っていた。
《電波の声、拾えんの? 使えるじゃん》
彼の心の声が聞こえて、澪は目を見開いた。
(何に……!?)
《見てりゃ、わかるよ》
彼は言葉ではなく、確かに、“声”でそう答えた。
(この人も、心の声が聞こえるの……!?)
呆然とする澪の手を、その男子が握った。
《そう。俺たち以外に聞こえるやつ、初めて見た》
――その瞬間だった。
澪の頭を埋め尽くしていた無数の声が、急に遠ざかった。
まるで誰かが受信先を切り替えたみたいに。
――そして。
「あああああああああああ!!!」
車内に痴漢をした男の絶叫が響き渡った。
耳を押さえ、その場にうずくまり、叫び続けている。
澪は目を大きく開いて、男を見つめた。
――と同時に、異常を察知した。
《朝から迷惑だな》
《キモい》
《クソ》
《うるさいうるさい!》
《逮捕で人生終われ》
《家族とかいんのかな。ざまぁ》
《やめろおおおお》
《やられた方の気持ちになってみろ》
《死んで詫びろ》
《死ね》
《死ね》
男に向けられた、自分しか聞こえないはずの周囲の”声”が、男の“声”として男の中で響いていた。
《……見物だろ》
そんなつぶやきに、澪は自分の手を握る男子の顔を見上げた。
――彼は、笑っていた。
電車が停止する。
プシューと音を立てて、扉が開く。
「ああああああああああああ!」
男は扉が開いた瞬間、“声”から逃げるようにホームへ駆けだし、そして。
そこからは、時間が、ゆっくりになった気がした。
男が反対車線のホームに、落ちた。
そこへ、電車が来た。
悲鳴。何かが、ホームに飛んでくる。
《あれ、何?》
《何?》
《何?》
それは――血だらけの、もげた腕だった。
悲鳴。走ってくる駅員。座り込む乗客。
《――スカッとしねぇ?》
そう、声がして、澪は声の主を見た。
彼は整った口元を歪めて、笑っていた。
《あんたが、やったの?》
澪は手を振り払うと、彼を見つめた。
《そう。俺は、声の“拡散”もできるんだ》
それから彼は、澪を見つめた。
「少なくとも一時間は運休だと思うよ。――どこかで、おもしろい話でもしようぜ、澪ちゃん」




