山門編-初国知らす王の章(47)-出雲の荒王(18)
<これまでのおはなし>
豊秋津島の青垣山籠もれる山門の国は、剋軸香果実の厄災を乗り越えた。
名を日照と改めた天孫の磐余彦狭野姫は、旅の仲間とともに出雲へ向かう。
吉備の統治を巡る争いに巻き込まれた日照たちは、山門人の武彦とともに吉備の正統を取り戻す。
出雲の首邑、日隅邑に到着した日照は、荒王と怖れられる出雲主と対峙する。
出雲主の側近、振根との占縄引きの勝負に敗北し、巌の呪いに囚われる。豊城彦と豊鍬姫の兄妹は日隅邑から脱出する。
八重族に助けを求めた兄妹は八重族の仕掛けた呪いに捕らわれるも危機を乗り越える。美保族の邑へ向かった言代主に助けを求めるが、言代主こと勇魚は、まずは美保族を災厄から護らねばならなかった。勇魚を手助けすることになった兄妹はそれぞれの能力を活かして八重族の氏上を説き伏せる。美保族の避難を見届けた勇魚は、災厄の主と対峙する。
≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫
<人物紹介>
豊城彦
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。
豊鍬姫
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。
入彦
磯城族の氏上。厄災を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主。
美茉姫
入彦の妻。明るい美しさの女性。淑やかであり、闊達でもある。
活人
入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。
大彦
入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。
石飛
磯城族の青年。入彦の舎人。
百襲姫
磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。
翠雨
入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。
如虎
黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。
翔
豊鍬姫になついている熊鷹の子。
日照
旧名は狭野姫。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦を号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。
手研
故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。
珍彦
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
道臣
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
吾曽利
天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。
太忍
葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。
雄心
旧名は剣根。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。
五瀬
故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦。
五十鈴媛
五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。
香魚
両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。
荒王
出雲を実効支配する。元の名は稲飯。日照の実兄。
五十鈴依媛
須賀族の氏上。出雲の荒王となった稲飯を秘かに想う。
秀火
元須賀族。妖言により荒王の配下となっていたが、日照に解放される。
若彦
元須賀族。妖言から解放されていたが、稲作で荒王を支える。
<用語>
高天原:天上世界
豊秋津島:物語の舞台
葦原中国:豊秋津島の別名
山門:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方
青垣山:山門の周囲を囲む山並み
筑紫洲:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日、豊日、建日、日向の四地方を持つ
真:先端の文明が栄えている西の海の果ての大陸
氏上:一族の族長
天神地祇:八百万の神々
祖霊:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上がって祖霊となる
精霊:森羅万象に宿る魂
魑魅:山林の異気から生まれた邪霊
厄災:山門を呪いによって支配していた饒速日の体制を瓦解させた大災
剋軸香果実:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる
海は、まるで千匹の鰐が暴れているかのように沸き立っている。雲はどんよりと厚く、海と空の末は、その境目がわからぬほど暗かった。海原の狂騒が風を生むのか、旋風が幾度も比賣埼邑の土塁や木柵に打ち付けた。大地が鳴るたび、強風が煽るたび、心細く揺れる櫓の上に人影が二つ。
美豆良を靡かされているのは、腕を組んだ勇魚。振分髪を踊らされているのは、腰に手を添えた豊城彦。二人は揃って海原を凝視ししている。
海が山を産み出そうとするかのように、海面が大きく盛り上がった。滝のように流れ落ちる海水の向こうに不気味に輝く二つの目が現れた。その不気味な赤い輝きは、櫓の上の二つの人影を捉えていた。いよいよ海霊の地揺が顕現するのである。
「よいか」
体を攫いそうな強風を切り裂くように、勇魚が豊城彦に呼びかけた。
「そこで物見するのは良いが、きっと手出しはするなよ」
勇魚の戒めに、豊城彦は大きく頷いて応えた。釘を刺されずともこの強風、豊城彦は櫓の欄干にしがみつくのが精一杯であった。
海水を噴き上げ、ついに地揺が海上に姿を現した。千尋鰐という呼称が決して誇大ではないその巨体は、鈍色の光を放つ無数の鱗に覆われている。その姿を目の当たりにした者は恐怖に慄くはずだが、瀑布のような海水を浴びながら、勇魚は明朗に笑った。
「やゃやぁ、ようよう顔を出しおったな」
櫓の欄干を片足で踏んだ勇魚の右手には隠日鏡があり、左手には頭椎太刀がある。
勇魚の挑戦を察知した地揺が大口を開け、強風を一層狂わせるような咆哮をあげると、大地が鳴動し、海面が立ち上がるように盛り上がった。
逆巻いた海水が、山岳が崩落するように比賣埼邑を襲い、呑み込んだ。櫓は土台を破壊され、波濤の中の孤舟となって弄ばれた。
勇魚はすでに飛翔している。頭椎太刀の一閃は海嘯を切り裂き、その剣風は地揺まで達した。だが、鱗をわずかに傷つけたにすぎない。
太刀には呪言が鋳込まれているとはいえ、その刃では地揺を切り裂くことができないことを、勇魚は承知している。頭椎太刀は地揺を斬るためのものではなく、勇魚を地揺の表皮に繋ぎ留めておくためのものであった。
太刀の切っ先から降下した勇魚は、地揺の吻の辺りに太刀を突き立てた。それ自体は、地揺には蜂に刺されたほどの痛みにもならなかった。だが、勇魚が隠日鏡を掲げると、その意図を察知し、地揺は暴れ始めた。振り落とそうとするが、深く太刀を突き立てた勇魚は離れない。柄が折れても、勇魚は刀身を左手で掴んだ。鮮血を撒き散らしながら、勇魚は隠日鏡の霊力を発動させた。
鏡は普通、外部からの光を照り返すものだが、勇魚が高々と掲げる隠日鏡は、それ自体が光源となって照り輝いた。それは迸る霊力の煌めきである。
「天津虚空の果てなき涯に、昇りて常世の霊なれ」
勇魚が言霊を唱えると、鏡はより一層はげしく光り輝いた。勇魚の言霊は鏡の霊力に律動を増幅されて、地揺の魂魄と共鳴した。
尾びれ腹びれで猛烈に海面を叩いていた地揺は、鏡の光を見つめるうちに、やがて魅入られ、甘美が全身に浸透し、地揺自体が巨大な光源となって、光の収束とともに鏡の中へと消えた。
波が正気を取り戻したように鎮まった。風が落ち、海が凪ぐと、豊城彦の光景は静寂となった。
清らかな大気に掃かれた雲が薄まると、日差しが風景を鮮やかにした。
ひときわ強い日差しが海にひとすじの光の帯を作り、そこを滑るように渡ってくるのが勇魚であった。
波打ち際に流れ着いた櫓の残骸に跪いて、豊城彦は勇魚を迎えた。
「よう、童男。かたはついたぞ」
軒下の蜂の巣でも片付けてきたような何気なさで、勇魚は笑っている。
豊城彦はうまく応えることができなかった。何しろ、全身の力が抜けている。つい先程まで荒れ狂っていた天も海も、世界が変わったかのように穏やかに澄んでいる。満点の星空を見上げた人が、人の無力さと森羅万象の偉大さを知った時のように、豊城彦の心は虚脱していた。
「どうした?なんぞ障りがあるか」
「僕にはありませんが、勇魚様、血が垂れています」
豊城彦に言われて、勇魚は左手を見た。剣を直に掴んだため、血が滴り、砂浜に点々と跡を残している。
「おお、揖夜殿に甘ゆるよき託言ができたわ」
勇魚の砕けた態度が、豊城彦に無力を感じさせていた崇高なものへの畏怖をさらりと拭い去った。
雄大な神変絵巻を描いた画家が、振り向けばただのお気楽者だったときの可笑しみを、豊城彦は顔と声で表した。
「笑いおったな。童の笑いは吉利の兆しよ」
「どうだろう。揖夜様にうかつに戯れると、ほかの手負いが増えるんじゃない?」
「不吉を言うやつだ。吾は多に努めたであろう」
勇魚は口吻を尖らせた。
「うん、それは揖夜様も褒めてくれると思うよ」
「そうであろう。では、揖夜どの褒詞を受け取りにいくとしよう」
あわよくば揖夜の美体をも受け取ることができるのではないかと言いかけた勇魚であったが、さすがに童子の前では分別を利かせようとしたものの、無意識に妄想の揖夜を抱きしめる仕草をしてしまったものだから、その煩悩を豊城彦に悟られてしまっていた。
比賣埼邑があったはずの場所に、邑の面影はなかった。舎や楼の一部であったろうと推測できる木材や茅葺が散乱しているだけであった。
下枝をすべて失った二本の真木が所在なげに残っていた。注連縄は断たれ、幹に巻き付いている。
「ここは事なしであったようだな」
悄然とした真木の後ろの丘に繁った樹木は青々とた生命力を誇示している。そこは太円の斎宮であったから、地祇としての霊力が地揺の災いを祓覗したのだろう。
勇魚と豊城彦が真木の根本に屯していると、人の足音と声が近づいてきた。高所へ避難していた邑人が戻ってきたのである。
「同母妹よ」
人群れの中に豊鍬姫の姿を見つけた豊城彦は彼女のもとへ駆け寄った。如虎と翔も二人の傍に寄った。
「恙なかったか」
「ええ。同母兄も」
兄妹は互いの無事を喜びあった。その二人とは異なり、帰ってきた邑人のほとんどは、不安と手を繋いで何も残っていない比賣埼邑の跡地を茫然と見ていた。確かに身一つは失わずに済んだが、住むべき舎も蓄えた食糧も失った。
悲嘆に暮れる邑人の溜め息に押し出されるようにして勇魚の前に出た揖夜は、
「御身に助けられたが、もっと早く警めを聞いておくべきであった」
と、悔恨を口にした。溌剌としていた彼女の姿は、雨に打たれた花卉のように儚げであった。
「命あっての物種という。これからのことも、吾は力を貸すぞ」
勇魚は両手を広げた。彼の想像では、その腕の中にしなだれる揖夜がいるはずだったが、現実の彼女はきょとんとしている。
「…なんだ、その手は?」
そう返された勇魚を見た豊城彦は思わず吹き出した。
「…これは、あれだ」
横目で豊城彦を威嚇した勇魚は、
「もちろん、拍手だよ」
我ながら良い誤魔化しを思いついた勇魚は、両手を打ち鳴らした。
拍手はふつう、感謝や喜びを表したり、邪気を祓うためにする聖なる行為であるが、このときの勇魚の拍手は多分に邪なものを含みながら、その音色は清らかに天に昇り、地に広がった。
邑人の視線が一斉に勇魚へ集まった。彼等には、この音色が彼等を救う霊妙の呼び声と聞こえたのだ。勇魚は邑人の不安を拭う希望を示さなければならない。
「まぁ、その、あれだ…」
揖夜との妄想しか抱えてこなかった勇魚は少し、たじろいだ。
「名々(おのもおのも)、手負ひの者もおらぬようで、まずはよかった。みな、舎を失くし、安げないことであろうが、憂うことはない」
勇魚は邑の名残から見晴るかす海に手を向けた。
「海の向こうには、吾の邑がある。整った邑ではないが、そのかわり広さはある。みなを受け入れることができよう」
まずは八重族の美穂邑へ避難しよう、と勇魚は提案した。が、邑人の眉が晴れやかに開くという具合にはいかなかった。
「受け入れてくれるのはありがたいが、我らには海を渡るすべがない。舟がないではないが、二人、三人しか乗れぬほどのものだ。みなが渡り切るまで何日もかかろうし、邑を呑んだ津波のあとだ、海を怖れて、邑人は渡るのを嫌がるであろう」
揖夜は邑人の心情を代弁した。勇魚もそれは理解できるものの、かといって陸地を迂回して美穂邑まで行旅するほどの気力もまた、邑人にはあるまい。が、勇魚の表情は明るい。
「海を渡るについては吾に考えがある。邑のみなみなには、辛くても海を渡ってもらわねばならないが」
「…わかった。邑人は、吾が説き伏せよう」
揖夜は邑人のもとへ戻っていった。
揖夜が邑人と話し合っている合間に、勇魚は豊城彦と豊鍬姫を手招いた。
「汝らには助けられた」
勇魚は兄妹に感謝を伝えた。
「勇魚様がもっと真面目にふるまっておられたら、もう少し設いておくことができたのじゃないかしら」
豊鍬姫は勇魚に厳しい。ただ、彼女の指摘するとおり、避難準備に早く取りかかっていれば、食料の持ち出しもできたかもしれない。
「どうだろう。それでも実のところ、地揺が現れないことには、勇魚様がいくら警めたとしても虚言と思われたんじゃないかな。ほら、言うだろ、渋柿だといっても食べてみないことには渋さがわからないって」
誰が言ったのかわからぬ妙な喩えを持ち出した豊城彦は、要するに勇魚を弁護している。
「おう、そうよ。やはり兄ともなれば、わかるものよなぁ」
勇魚はそう喜んだが、横を向いた豊鍬姫は素っ気ない。無愛想な妹の脇を、豊城彦は肘で小突いた。そもそものことを考えよ、という合図である。その意図を汲み取った勇魚は、
「ふふ、わかっておるよ。汝らはたしかに誓いを果たした。吾も誓いを果たそうぞ」
と、明言した。誓いとは、兄妹が日照らを助ける力を勇魚に借りる見返りとして、兄妹が勇魚の目的達成に助力することである。
意図を簡単に察知された豊城彦は自分のさもしさを怖れる素振りを見せたが、勇魚が誓いを忘れていなかったことには安堵した。
「それで、吾はどうすればよいか」
勇魚はそう水を向けてくれたが、豊城彦は、まだその話をする時期ではないと分別した。
「まずは、美保の人たちを向こう岸へ渡さないと」
心細く立ち竦んでいる人たちを横目に、誓約の履行を求める気にはなれない豊城彦であった。この心情は、日照たちも理解してくれるにちがいない。
「そうだな。そうしよう」
勇魚は、健気な義侠心を見せる豊城彦の肩を軽く叩いた。その同じ手で豊鍬姫の頭を撫でたが、彼女は逆らわずに勇魚の掌の温もりを受け入れた。
揖夜も邑人の説得を終えていた。邑人は揖夜の言葉に希望を見出したわけではないが、行動を起こさねばならない状況であることは理解した。
「では、勇魚殿、よろしく頼む」
揖夜に素直に頼られたことがよほど嬉しかったのか、勇魚は胸を雄々しく叩いて肯った。
「任せてくれ。美保の各々よ、ゆめ怖れることなかれ」
勇魚は邑人を海浜に誘ったが、二の足を踏む者が多かった。このときに良い仕事をしたのが如虎と翔である。避難時から子どもたちからの人気を博していた彼らは、このときも先頭に立ち、背筋を伸ばして黒毛の尾を幟のように押し立てて勇ましく行進した。翔は如虎の頭部に止まり、まるで指揮官のような顔をしていた。子どもたちは如虎と翔の様子が可笑しくて、我先にその後ろに続いて行進した。子どもたちが先に行くので、大人たちが仕方なくその後ろについていくという格好で、ともかくも美保族の邑人は皆、勇魚の誘う海浜にたどり着いた。勇魚はそこで、砂浜に半分埋まった木の棒を拾い上げた。それは、まだ糸も針も残った釣り竿であった。
「で、どうする?わたしは泳げぬぞ」
揖夜はなぜか胸を張って宣言した。
「吾もそううまくは泳げぬ」
勇魚は懐から鏡を取り出した。隠日鏡である。
勇魚は鏡を頭上高く掲げ、日光を集めて海面に投射した。
海が輝く。その輝きが、広がっていく。
「出でませ、千代の海霊」
勇魚が禱むと、海面に巨大な霊体が現れた。なお、禱みとは、祈願することである。
現れたのは地揺である。千尋鰐とも呼ばれる小山ほどもある巨体を目の当たりにして、邑人の中には卒倒する者もいた。
「まぁ、まてまて。こいつはもう、吾と朋友になったのだ 」
逃げ散ろうとする邑人を勇魚が宥めた。
そういわれておそるおそる地揺の顔を見てみると、大きな口には茫洋とした剽軽さがあるし、口と比べて随分小さな目には愛嬌がある。
「おい、海を渡りたいから、背に乗せてくれ」
勇魚がそういうと、地揺は徐ろに背中を向けて、長い尾を海浜に置いた。その尾を桟橋がわりに勇魚が進んでいくと、豊城彦と豊鍬姫、如虎と翔が続き、間隔を空けて、揖夜に蹴られそうになった邑人たちが進んでいった。
地揺の広大な背は、美保族をすべて乗せても、まだ余地があった。
「美保族の新たな門出であるぞ」
勇魚が言挙げると、地揺はしずしずと進み始めた。やがて白波を蹴立てて速度が爽快となったが、美保族の顔色に、いまいち冴えがない。やはり、行く先の不安が肩背から降りぬのであろう。勇魚は一計を案じた。
「ひとつ、誓約と参ろうではないか」
美保族の冴えない顔へ振り向いた勇魚は、先ほど浜辺で拾った釣り竿を掲げた。
「ここに竿がある。見てのとおり、針はあれど餌はない」
竿に種も仕掛けもないことを示しておいて、勇魚は地揺の吻の辺りまで降りてから、
「この餌なし竿で、もしも多に魚が釣れたなら、美保族に幸い多にあれ」
そう宣言して、餌のない釣り針を海に投げ入れた。
美保族が息を呑む間もなく、赤目が釣り上げられた。その勢いで針を外れ、鱗を銀色に輝かせながら虚空を舞い、揖夜の腕に落ちた。驚嘆の声が挙がった。なお、赤目とは鯛のことである。
次々と、海面から光り輝く魚が舞い上がるたびに、美保族の中に海の幸が落ちた。彼等の腕に幸が増えるにつれ、勇魚に向けられる霊妙を崇める視線が増えていった。
「はは、獣入りの海は幸の倉であるぞ」
勇魚も愉快になった。獣入りの海の主である地揺を従えた彼は、海の幸を自由自在に得ることができるのだ。
「夷者が、吾らを救うてくれることよ」
美保族の一人がそう呟いた。その者を、隣にいた男が小突いて窘めた。
「これ、そのような無礼を口にするでないぞ」
夷者とは、美保族が勇魚を蔑んで呼んだ、よそ者という意味の渾名である。
「夷様、夷様じゃ」
近くにいた老婆が、勇魚の背に拝んだ。
「夷様、夷様」
歓喜と敬仰の声が美保族の中に広がった。その声を気持ちよく背中で聞いていた揖夜は、爽快に笑いながら海の幸を次々ともたらす勇魚の姿を見て、蕩けるような笑みを浮かべた。彼女の心の中の乙女は、勇魚にしなだれていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
日本書紀や古事記の神話に、八重事代主(言代主)という託宣を掌る神が登場します。一番有名な場面は、国譲り神話において大国主の子として登場する場面でしょう。
御諸山の大物主と同一神ともされる事代主には、面白い逸話があります。
事代主は、夜毎、揖夜の里の美保津姫のもとへ妻問いに通っていましたが、鶏が間違って真夜中に鳴いたため、事代主はあわてて小船に乗ったものの、櫂を岸に置き忘れてしまい手で水をかいていたところ、鰐)に手を噛まれてしまった、というものです。鰐はサメのことです。それ以来、事代主は鶏を避けるようになり、美保関では鶏や卵を食べなくなったということです。いまもその伝承が息づいているのかどうかはわかりませんが、松江市の美保関のあたりには、確かに焼き鳥屋はないようです。松江市の中心部や境港市にはいくつかあるようですが。
さて、剽軽な一面もある事代主ですが、釣りが好きだったようで、美保関でよく鯛を釣っていたそうです。天神が大国主に国譲りを迫ったときも、のんびりと釣りをしていたらしいですからね。
釣り竿に鯛の神様といえば、七福神の恵比寿神です。漁業・商売の神として大切にされている恵比寿神ですが、事代主と恵比寿神が同一神であるとする信仰がいまも各地に残っているそうです。
今回のお話は、この伝承から着想をいただきました。
次回は、豊城彦と豊鍬姫が日照たちの救助に向かいます。
ぜひ、ご感想をお願いします。




