第55話 夏祭り(3)
夜空に咲いた最後の花火は。
静かに消えた。
赤く。
青く。
金色に輝きながら広がった光の花は、ほんの数秒だけ刑部市の夜空を照らし、その役目を終えると何事もなかったように闇の中へ溶けていく。
けれど。
不思議だった。
消えてしまったはずなのに。
誰もそれを失われたとは思わなかった。
きっと。
今ここにいる全員が見ていたからだろう。
同じ時間を。
同じ景色を。
同じ夜を。
共有していたからだろう。
だから。
消えたのに。
消えた気がしなかった。
しばらく誰も喋らなかった。
祭りの終わり特有の静けさだけが辺りを包んでいる。
遠くでは屋台を片付ける音が聞こえる。
境内を歩いていた人々も少しずつ減っていく。
提灯の灯りが風に揺れる。
夏の終わりを思わせるような。
そんな静かな夜だった。
「終わったな」
僕はぽつりと呟く。
本当に。
ようやくだった。
切り裂きジャック。
人格消失事件。
観測者。
エルディア。
千三百年前から続いていた計画。
全部。
全部終わった。
もちろん。
僕たちの日常が急に平和になるとも思えない——少なくとも、ガラムドが関わっている以上、は。
けれど。
それでも。
この事件は終わったのだ。
「うん」
エルザさんが頷く。
そして。
少しだけ笑った。
「長かった」
「長かったな」
「本当に」
その声は穏やかだった。
もう。
彼女の中に迷いはない。
エルディアでもなく。
エルザでもなく。
その両方を抱えたまま。
エルザとして生きていく。
そんな顔だった。
その時。
隣から声がした。
「隼人」
少年だった。
「何だ?」
「来年もある?」
「何が?」
「夏祭り」
思わず笑ってしまう。
「あるよ」
「そう」
少年は頷いた。
そして。
少し考えてから言った。
「じゃあ来年も来る」
その言葉が妙に嬉しかった。
観測者だった存在が。
世界の未来ではなく。
一年後の夏祭りの予定を立てている。
それだけのことなのに。
何だか救われる気がした。
すると。
スマホが震えた。
ガラムドだった。
『補足します』
「何を」
『夏祭りはラブコメの定番イベントです』
数秒。
沈黙。
「何の補足だよ」
『統計的事実です』
「どこの統計だ」
『私の観測記録です』
絶対ろくでもない記録だ。
すると。
ガラムドは続けた。
『なお』
『海水浴』
『文化祭』
『クリスマス』
『初詣』
『修学旅行』
『これらも高確率で重要イベントになります』
「やめろ」
それって、次回作の伏線じゃあるまいな。
『データです』
「だからやめろ」
のぞみが吹き出す。
ひかりも呆れた顔になる。
エルザさんは笑いを堪えている。
少年は真面目に聞いていた。
聞くな。
変な知識を増やすな。
『ちなみに』
「まだあるのか」
『夏祭りもまた定番です』
そこで。
珍しくガラムドは少しだけ間を置いた。
まるで。
わざとらしく。
もったい付けるように。
そして。
こう続けた。
『神は言った』
『夏祭りもまた、ラブコメの定番だよね、と』
全員が吹き出した。
「誰だその神!」
『私です』
「お前かよ!」
境内に笑い声が響く。
最後まで台無しだった。
いや。
最後だからこそ。
これで良かったのかもしれない。
その時だった。
「アーク?」
エルザさんが呟く。
全員が振り返る。
少し離れた場所。
石段の上。
そこに立っていたアークの姿が。
夜風の中で淡く揺らいでいた。
光が零れている。
白い粒子が。
静かに夜空へ舞い上がっている。
誰も何も言わなかった。
言えなかった。
アークは振り返る。
そして。
穏やかに笑った。
本当に。
今までで一番穏やかな顔だった。
「大丈夫」
誰も何も聞いていないのに。
そう言った。
「これは終わりじゃない」
夏の風が吹く。
提灯が揺れる。
「ただの区切りだ」
その言葉は。
僕たちへ向けたものだったのか。
それとも。
自分自身へ向けたものだったのか。
分からない。
「また会える?」
少年が聞いた。
アークは少し驚いた顔をする。
そして。
笑った。
「どうだろうね」
いつもの答えだった。
けれど。
続く言葉だけは違った。
「でも」
夜空を見上げる。
花火が消えた空を。
星の輝く空を。
「世界は案外狭い」
そして。
最後に。
僕たちを見る。
「だからきっと」
優しい声だった。
「またね」
光が舞う。
風が吹く。
次の瞬間。
そこにはもう誰もいなかった。
静かな夜だけが残る。
誰も喋らない。
しばらく。
本当にしばらく。
誰も。
◇◇◇
そして。
それから少し後。
刑部市では奇妙な噂が流れ始めることになる。
夏祭りの夜。
神社の境内で。
白い服を着た不思議な少年を見た。
そんな噂だ。
誰も正体は知らない。
名前も知らない。
どこから来たのかも知らない。
けれど。
その少年は時々現れるらしい。
花火を見たり。
屋台で食べ物を買ったり。
学校帰りの学生を眺めていたり。
まるで。
世界を初めて知った子供みたいに。
楽しそうに。
そして。
その噂を聞くたびに。
僕たちは少しだけ笑うのだった。
世界は終わらなかった。
救われたのかどうかも分からない。
正しい選択だったのかも分からない。
それでも。
今日も刑部市には朝が来る。
誰かが笑い。
誰かが泣き。
誰かが恋をして。
誰かが失敗する。
そんな不完全な日常が続いていく。
きっと。
それでいいのだろう。
だって。
消えてしまうからこそ。
今はこんなにも眩しいのだから。
終わり




