第18話 教える
「この匂い、覚えてる」
文は四年ぶりに小学校の音楽室に入った。今日ここで特別支援クラス向けの音大学生によるコンサートがある。特別支援クラスと言ってもいろんな子供が集まっているわけで、文の時も大変騒がしかった。しかし、知っている曲が聞こえるとみんな静かになって、一緒に歌ったものだ。
「ちょっと待っててね」
美方先生がクラスの先生と話しているようだ。やがて戻って来た美方先生は、文を肘につかまらせると、
「前に言ってた一年生を紹介するね。えっと、ここ」
今度は文の手を取って前に出した、小さな柔らかい手がそこにあった。
「森 呉羽ちゃん、こちらのお姉さんは若浦 文さんだよ」
文は小さな手を握った。思い切り握手すると潰れてしまいそうな手だった。
「呉羽ちゃんって言うの?若浦文です。私も目が見えないから呉羽ちゃんのこと見えないけど、今日ピッコロって楽器を演奏するから聞いてね」
「はい」
思いのほかしっかりした声が返って来た。
コンサートが始まった。音大生たちは手慣れたように次々と演奏し、子供たちに話しかけ、時には一緒に歌い、手拍子をとった。
そして『いろんな楽器の音を聴こう』のコーナーになった。学生たちが自分の楽器を簡単に説明し音を鳴らしてみる。子供たちはじっと見たり耳を澄ましたり、立ち上がって触りに行って先生に連れ戻されたりしていた。文の最初の出番はここだった。
音大生のMCが言う。
「じゃあ、次にピッコロと言う名前の笛です。高い音が出ます。吹いてくれるのは若浦文さんで、若浦さんは小学生の時、みんなと同じ、この支援クラスにいたそうですよ。何故なら若浦さんは目が見えません。それでもとっても上手にピッコロを吹けるんです。じゃあ若浦さん、ちょっと吹いてみて下さい」
「はい。若浦文です。みんな、よろしくね」
文はピッコロを取って音階を吹いた。
♪♪♪♪♪♪♪♪
呉羽の横では先生が何やら耳打ちしている。きっと、さっきのお姉さんだよとか言ってるのだろう。MCが前に出た。
「はい、有難うございます。フルートを短くしたような楽器ですが、小鳥の囀りみたいなきれいな音が聞こえましたね。じゃあ、次は弦楽器という種類の楽器をやります」
こうして楽器紹介が終わり、そしてピッコロ以外の全ての楽器の合奏が披露された。オーケストラばりの迫力に子供たちも圧倒された。
「では、最後に、先程の若浦文さんにピッコロを吹いてもらいます。曲は、ディズニー映画『アナと雪の女王』から『Let It Go』で-す。伴奏は市立高校の美方先生です」
文は美方先生と放課後練習してきた『Let It Go』を軽やかに吹き上げた。曲を知っている子供たちが一緒に歌う。勿論、呉羽も嬉しそうに歌っていた。
全ての演目が終わった後、美方先生は文を呉羽の所へ連れて行った。美方先生がまず話しかける。
「呉羽ちゃん、文ちゃんのピッコロどうだった?知ってる曲だったでしょ?」
「はい…大好き・・・です」
呉羽は小さい声で答えた。
「呉羽ちゃんも吹いてみる?」
重ねて美方先生が尋ねた。支援クラスの先生も、今教えてくれるってよと付け加えた。
呉羽は戸惑ってもじもじしていたが更に小さな声で
「はい」
と答えた。
文には呉羽の気持ちが解った。自分には見えない世界で何人もに囲まれて話しかけられると、実際どうしていいのか混乱するのだ。文も言った。
「呉羽ちゃん、無理に頑張らなくてもいいんだよ。私も初めての時は同じように吹かせてもらったけど、それは本当にあんな音出してみたいなあって思ったからなんだ。目が見えないと人より難しいし、嫌になっても可哀想だし」
呉羽は文の声の方を向いて少し大きな声で
「吹いてみたいです」
と答えた。じゃ、どうしたらいい?美方先生が文に聞く。
「ピッコロのマウスピースの穴を唇の所に当てて下さい。呉羽ちゃん、ニコッと笑う時の口の形にしてね。ニコッと笑ったままでフーッて息を穴に吹き込むの。先生、少しずつ角度を変えるんですけど、私やってもいいですか?」
文は手探りでピッコロを持ち、呉羽がフーッと息を吹く度、角度を少しずつずらした。自分でやるなら簡単だけど、人に吹かせるのがこんなに難しいとは思わなかった。
「あ、文ちゃん、ちょっと唇が右にずれたよ」
文は見えないので左右のずれは先生たちに見てもらうしかない。呉羽は何回も息を吹いた。が、シューとも言わなかった。やがて30分が過ぎた。
「ね、文ちゃん、呉羽ちゃん、ちょっとしんどそうだ」
呉羽は顔が赤くなっていた。唇も乾き、息も上がっている。美方先生が声を掛ける。
「呉羽ちゃん、悔しいね。初めてで音が出ることは滅多にないんだよ。だから呉羽ちゃん、普通だよ」
呉羽の目から涙がポロリと零れた。文には見えない。美方先生がティッシュを出してそれを拭った。
「文ちゃん、これ位にしようか。呉羽ちゃんまだ小さいし、唇も痛そうだし。あ、呉羽ちゃん泣くことないんだよ。これが普通だから。ね」
呉羽ちゃん、悔しくて泣いてるんだ。文の胸は詰まった。大好きな曲を聴いた後だから尚更だろう。簡単に『教えたい』なんて言うんじゃなかった。そんな簡単なことじゃない。これじゃ呉羽ちゃんに劣等感を植え付けただけじゃないか。文は悔やんだ。
文は手探りで呉羽の頭を撫でた。そして顔を抱き寄せた。
「ごめん、呉羽ちゃん。お姉さんの教え方が下手だった。上手に教えられたら呉羽ちゃん、きっと音が出るから。お姉さん、教える練習をちゃんとしてくる。それで上手に教えられるようになったら、またここに来て、一緒にピッコロの練習しよう?」
洟をすする音がして、呉羽の頭はコクリと動いた。
「本当にごめんね」
その夜、文はなかなか寝付かれなかった。良かれと思ったことが相手を傷つける。それもあんな小さいな子を。呉羽ちゃんは普段、闊達な子に違いない。だから余計に悔しかったのだろう。彼女の希望の芽を私が一つ潰してしまったかもしれない。美鶴さんのことだって、元はと言えば私が原因だ。文は自己嫌悪に包み込まれた。