第二十二章 現実という課題
舞踏会から数日が過ぎても、放課後になるとエレノアは北棟の資料室を訪れていた。
二人は向かい合って本を読み、課題について意見を交わす。
歴史。経済。農政。
以前のような緊張はない。分からないことがあればエレノアは素直に尋ね、レオニードも彼女の考えを聞くのを楽しみにするようになっていた。
頁をめくる音が、静かな資料室に響く。
答えを待つ時間が、以前より長く感じられた。
彼女の一言で、自分の考えが少しずつ形を変えていく。
それが嬉しいのか悔しいのか、まだうまく言葉にできなかった。
けれど一つだけ確かなのは、エレノアと話したあとは、頭の中が少し広くなることだった。
見えていなかった場所に光が差し込むような感覚が残る。
◇◇◇
その日、レオニードは学園ではなく、王城の一室にいた。
国王教育の定期課題を提出する日だった。
広い執務室には、教育係の老侯爵と数名の文官が集まっている。
机の上に提出した書類が静かに置かれた。
教育係はゆっくりと頁をめくる。
紙を繰る音だけが、重い空気の中に淡々と響いた。
レオニードは背筋を正したまま、その様子を見守る。
窓から差し込む光は薄く、室内は少し冷えていた。
暖炉はあるが、火は控えめだった。
しばらく沈黙が続いたあと、教育係が小さく頷く。
「見事です。」
部屋にいた文官たちも静かに頷いた。
「治水計画だけでなく、住民への聞き取りまで考慮されております。」
「短期と長期、双方の視点が整理されておりますな。」
「さすが第一王子殿下です。」
次々と称賛の言葉が向けられる。
レオニードは穏やかに微笑み、一礼した。
「ありがとうございます。」
その笑顔は、誰もが知る第一王子のものだった。
だが、胸の奥は少しも満たされなかった。
評価は十分だった。内容も間違っていない。
それでも、何かが決定的に足りない。
整った答えを差し出しただけで、現実には触れていない。
そう気づいた瞬間、書類の文字が急に薄く見えた。
あの日、資料室でエレノアが言った言葉がよみがえる。
『応急処置なら今日できます。』
『今困っている方を、まず助けます。』
その一言で、自分の視界は大きく揺らいだ。
紙の上の正しさは、現場の苦しみをそのまま救わない。
「殿下。」
教育係が静かに口を開く。
「何かございましたか。」
レオニードは少し考えてから答えた。
「もし可能でしたら。」
部屋の空気が少しだけ変わる。
「次回は、より実践的な課題へ取り組みたいと思っております。」
教育係は興味深そうに目を細めた。
「実践的、と申しますと。」
「既に起きている問題について考えたいのです。」
「机上だけではなく、現実を見据えた課題を。」
口にした瞬間、自分の中で何かが定まった。
困っている人の顔を思い浮かべながら、どう動くべきかを考えたい。
教育係はしばらく考え込んだ。
やがて小さく笑う。
「承知いたしました。」
文官の一人が数枚の書類を運んでくる。
教育係はその中から一つを取り出し、レオニードへ差し出した。
「これは現在、王都南区で実際に問題となっている案件です。」
「今年は例年より寒さが厳しく、暖房用の薪や石炭が不足しています。」
「特に貧民街では、十分に暖を取れない家が増えております。」
「加えて、炊き出しの食材も足りず、支援を求める声が上がっております。」
「王家として、どのように対処するべきか。」
「それを次回までにまとめてきてください。」
レオニードは書類を受け取る。
紙は冷たかった。
静かに目を通す。
燃料。食料。住民。限られた予算。複数の地区。
教科書の中の話ではない。
今この瞬間にも、困っている人たちがいる。
窓の外では冬の風が鳴っている。
その音を聞きながら、レオニードは無意識に指先を握りしめた。
もし自分がこの地区に立っていたら。
――自分は、何を言えるだろう。
何を、最初に差し出せるだろう。
考えれば考えるほど、胸の奥が重くなる。
だが同時に、その重さの中に、確かな熱もあった。
焦りに似ている。
けれど、ただの焦りではない。
誰かの言葉に触れたあとに生まれた、静かな責任感だった。
彼女が当然のように掴んでいた現実を、自分の手でも掴みたい。
数字の裏にある生活。
制度の隙間にいる人々。
――エレノアなら。
彼女の考え方は、もうただの参考ではない。
自分の中に、確かに残っている。
気づけば、判断の端々で彼女の言葉を思い返している。
そうして考えるたび、自分の視野が少しずつ広がっていくのを感じるのだ。
その答えを聞いてみたい。
そんな思いが、ごく自然に胸へ浮かんでいた。




