9正体
翌朝。わたしは秋日部駅に、『よしえ』の印鑑と呪われたドレッサーを返しにいくことに決めた。
どういう経緯があったのかは解らないが、これはきっと吉江先輩の鏡台と印鑑なのだ。怨念が込められている。逆恨みとも言うべき、間違った正義感がどれほど恐ろしいか、わたしは知っている。
鏡をのぞいてみた。ひどい容貌だ。整形後のダウンタイムに加え、昨日は階段に顔面を打ちつけている。これじゃお岩さんのほうがまだマシだ。
まあ、父親に遺伝子を移された腐った顔だ。良い気味である。こんな出来損ないの失敗作、どうにでもなれ。
自分に対して、ざまあみろと言えるヤツ。ドMな自分が、ちょっとだけ可笑しくなった。
勤め先には予め美容整形のことを伝えてあったし、ダウンタイムを考慮して長めに有給をとっている。いつでも自由に、今すぐにでも動ける。九許斐クリニックの受診日は来週だが、早いほうが良い。
だけど怖い。もしまた階段で背後から突き飛ばされたり、前方から引っ張られそうになったら。
暫くは秋日部駅に近づかないほうが良いのかもしれない。
しかしそれでは鏡台を返しに行けないではないか。
悶々としているうちに時間だけが過ぎ、結局その日は動けなかった。
そして夜になった。
カタ、カタ……
ポルターガイストの如く、ドレッサーが独りでに揺れはじめた。昨夜よりミラーの亀裂が深まっていた。
この際、家の側のゴミ置き場に捨てに行きたいところだけど、不燃物の指定日は明後日だ。それに適当な場所に放棄したら罰が当たって、もっと呪われる気がした。
今夜は早く寝るに限る。
鏡の中の自分に、クソジジイ似の顔面に、暴言を吐く気には今はなれない。
いつもだったら、
「鏡見原義彦ドクソジジイ わたしはお前の娘じゃない!」
怒鳴り散らしたり、
「♪腐った遺伝子移すんじゃねえよ限界です 絶対絶対最大の 被っ害者は私 やろがい 遺伝の仕組みが変なので 問題はアリ!」
ヤケクソで歌っているのだが、今夜はもう絶叫する体力もなければ、歌う気力さえ湧かなかった。
電気を消す。肉体の負傷と体力の消耗、精神的な疲れからか。程なくして微睡みはじめた。不安と恐怖を飲み込むほどに、睡魔がわたしを凌駕していく。
どれくらい時間が経っただろうか。
カチッ、カチッ、カチッ……
……ミシッ、ミシッ、
時計の針が時を刻む音に相まって、何か聞こえる。鏡台のほうからだ。
悪夢に魘されている。クーラーを入れているのに寝苦しい。金縛りで動けない。身体が硬直していた。
ミシッ、ミシッッ、ガタ、ガタタンッッ
ドレッサーから激しい音が響くと、黒いものが吐きだされた。
刹那、わたしは首を絞められた。
「うぐっ……」
声が掠れる。喉が締めつけられて、悲鳴さえあげられなかった。
自らの手で必死に首を掻きむしった。何者かの指は怯まない。きっとわたしの首には今、吉川線ができているに違いない。
だがそれ以上の抵抗は不可能だった。じわじわと全身を蝕む金縛りに、身を起こすことさえ出来ずにいる。
暗闇に人影が映っている。
影が叫んだ。
「ずっとあんたが憎かった……!」
その声は良く知っていた。いつも嫌と言うほど耳にしてきた声。
暗闇に目が慣れてきたのか、容貌が顕に浮かび上がった。
どうして気づかなかったのだろう。いつもいつも憎んできた鏡の中の己。逆もまた然りだった。鏡の中のわたしが、わたしを憎んでいないわけがなかったのだ……!
首に食い込む指の力が強くなる。
--不思議な縁があると思わない? あたしたち、名前も一緒だし--
俄に吉江先輩の言葉が蘇った。
あの日、使用済みの鏡に刻んだ印鑑。
わたし--鏡見原愛恵は、ゆっくりと意識を失っていった。




