彼女の名前は
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「はぁ、また歴史のテストで赤点かよ……」
チェックだらけの解答用紙を見て、青年は深いため息をついた。
「お前さ、歴史以外だったら高得点なのにな。なんでそんなに歴史ができないわけ?」
「うるせぇ。俺だって理由が分かれば聞きたいぐらいだわ。なんで歴史だけ……」
「ま、天は二物を与えずって言うしな。けど今回の歴史の範囲って、かなり有名な話だろ?」
「有名? 俺にとっては、大昔の奴らが何をしてようが興味ねぇっての」
毎度の如く冷めた口調の青年を、友人は笑い飛ばす。青年はそんな友人の腹を軽く突き、再び溜息を付いた。
「で、今回のなにがそんなに有名なんだよ」
「本当にお前は歴史に興味がないんだな……。お前だって一度は聞いたことあるだろ、あの『女英雄』の話だよ」
「あー……なんだっけ。なんか『すごいやつ』だって話は覚えてるけど。確か映画のラストで焼け死ぬやつだろ?」
「ちょ、お前、その映画が面白いって言ってたのにお前……しかも覚えてんのそこだけかよ! それまでの皇帝との死闘が面白いって言うのに!」
「うっせぇいやい! 覚えられんもんは覚えられんのじゃい!」
首を傾げる青年に、友人は苦笑してスマホを取り出した。画面に映るのは、古い肖像画に描かれた一人の女。燃えるような赤い髪に、不可思議な模様で人の顔を象る仮面をつけた姿だった。
検索欄に記されたその名。青年は、吸い寄せられるようにその名を呟いた。
「レディ……インフェルノ?」
名を呼んだ瞬間、胸の奥が氷を飲み込んだかのように冷たく焼け、締め付けられるような感覚に襲われる。
肖像画の中の彼女が、自分を見つめ返しているような奇妙な錯覚。青年は自分の胸元に手を当て、戸惑うように息を飲んだ。
ただの歴史が、その名を持って鮮烈に焼き付いた瞬間だった。
****
「――死ねぇ! 侵略者共がぁ!!」
血しぶきが舞う。男の怒声が真っ白な戦場に響き、地獄の蓋が開く。
「死ぬのは貴様だ! 弱小国の犬が!!」
肉を断つ音。金属がぶつかり合う耳障りな喧騒。踏み荒らされた雪の上には、無数の死体と赤い血が散らばっていた。
その光景を、女は仮面の奥にある黄金のような琥珀の瞳で静かに見下ろしていた。何の感情も浮かばせることなく。
いつもの光景だ。変わり映えのしない絶望の積み重ね。もう長い間この光景ばかりを見つめている。
血紅色の髪が冷たい風にたなびく。白い雪との違いは、それだけで人の目に焼き付く。
その様子は、紅蓮に燃え盛る憤怒の炎のようだと、彼女は無感情に思う。仮面越しに伝わる外気の冷たさが、自分がまだこの地獄に立っていることを実感させていた。
「ビテンド将軍に伝令。右翼から後方に下がる敵を抑え、リズベリア副隊長率いる左翼と共に挟撃しろ。騎馬兵を前線に置き、我が隊の前まで誘い込め」
「はっ!」
命令を下せば、伝令兵は即座に馬を駆り、戦場を疾走していく。
十年前に比べれば、敵兵の動きはどこか遅く、脆弱に感じられた。しかし、それはこちらとて同じ。長過ぎたこの戦いで、どちらも消耗も限界に近い。これ以上の戦争はどちらにとっても破滅のみ。
今日で終わらせなければ、国に未来はない。
「……ビテンド将軍より伝達。『了解した』とのことです!」
「そうか」
「それともう一つ。……無理だけはするな、と」
相変わらず過保護なお人だ。女は小さく息を吐き、無機質な仮面に触れる。それは軽い冷気をまとって指先に伝わった。
「相分かった」
そうして伝令を下した数分後。戦場の惨状は一変し、徐々に中央に道がひらけていく。敵の本隊は疲弊し、今の状況が分かっていない。。勝機は今だ。
5000の部下たちに、女の声が雪の中でも凛と響く。
「我が軍は挟撃した敵中央を押し潰す! 今日でこの戦争を終わらせるぞ!!!」
『おおおおおお!!!!!』
「勝利は我らが王に!!! ――突撃いいいいい!!!!」
鬨の声が轟き、彼女は愛馬を蹴った。文字通り敵を蹴散らし、悲鳴を上げさせる煉獄の旗。
それは女と同じ紅を纏う。
「あ、あれは……あの旗は!!!」
「後退しろ! 本陣を守れ! 奴等の目的はッ……グアアア!!!」
敵が慄き、そして女の思惑に勘づく。しかしもう遅い。凶暴性の高い女の部下たちは女と同じ血紅色の道を嬉々として作っていった。
そして切り開かれた赤い道の先、一際豪奢なテントの前に、一人の老人が立ちふさがった。
「待たれぃ!!!」
仮面がその声圧にわずかに揺れる。決して無視していい存在ではないと、そう伝えるように。
「……剣聖、オルドか」
約三十年。ベルルラートを支え続けた誇り高き武人。剣聖の名にふさわしく、正面から堂々と女と対峙した初老の男は鋭い眼光とともに殺気を研ぎ澄ましていた。
「いかにも。貴様、レキシアの将だな。ワシとの一騎打ち、受けていただこう!」
「良いだろう。誇り高き剣聖の望み、願い届けよう」
女は剣を抜き放つ。この場には、彼女と剣聖しか残されていない。
お互いが睨み合ったまま動かず、一体何時間経ったのだろう。本当は数秒だって経ってないのかもしれない。
沈黙の戦い。お互いがお互いを睨み合っていれば、それは来た。
「キェエエエエエイ!!」
「!!」
神速と言われた老人の一撃。しかし、女にはそれはスローモーションのように見えた。女の右腕に握りしめた剣が神速を超え、剣聖の首を捕らえる。その圧倒的な「死」の予感に、剣聖は一瞬だけ目を見開いた。
「ハッ!」
交錯する一瞬。女の剣が軌道を描き、ただまっすぐに首へ一閃を引く。
「っ……なるほど。お主は……地獄そのものだったか」
首を切り伏せられた剣聖が、雪に剣を刺す。三十年ベルルラートを支え続けた男は、その刹那の最後まで武人の誇りを保ち続けるかのように、立ち往生した。
「……首を丁寧に扱え。誇り高き武人の首だ」
「はっ!」
女はそのまま豪奢なテントを切り裂いた。中には、脂ぎった顔をした総大将が震えている。
「ヒィッ!!」
総大将と言うには、目の前の男は無様に腹が肥え、身なりを下品なほど着飾っている。そしてそれは血まみれた女を見て、顔色を真っ青にして股を濡らした。
「貴殿が『ベルルラート連邦軍』総大将で相違ないな」
まっすぐと、血と人の油に塗れて汚れた剣を男の首元に置く。
顔面を色々な液体で濡らした男は、ガチガチと歯を鳴らして首に置かれた剣を凝視した。
「お覚悟を」
「ヒ、ヒィ!!お、お慈悲を!!」
彼女は冷徹に言い放つ。
「慈悲は既に我が王がくれていたはずだ。しかし、それを不意にしたのは貴殿だ」
「ヒ、ヒィ……お慈悲を!!」
「その首、頂戴する」
ゴトッ、という重い音と共に、戦争の終焉が告げられた。
「首を掲げ、周りに触れ回せ。戦争は終結だと」
血の薫る風を感じながら、女は血のついた剣を振るう。その後、地を揺らすほどの鬨の声が響き渡り、戦争の終わりを知らせた。
降り積もる純白の雪は、流れる端から熱い鮮血に汚されていく。その紅は、彼女の髪の色によく似ていた。
レキシア歴1280年3月12日。
10年にも及んだ戦争が、ある一人の英雄の手によって終幕した。
敵対国であり、侵略国である『ベルルラート連邦王国』の剣聖を討ち、50万という途方も無い数の敵軍を、たった3万で打ち破ったその類まれなる戦術とカリスマ性は大陸全土に響き渡り、そして恐れられた。
しかしその英雄のことを詳しく知るものは居ない。出身地不明、本名不明、経歴不明。どの資料にも、噂や憶測程度のしか書かれていない異質な存在。
すべてが謎に包まれた伝説の英雄。
後に大陸全土で、畏怖と呪詛を込めてこう呼ばれることになる。
彼女の名前は、レディ・インフェルノ。
地獄と呼ばれた、英雄だ。




