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第23.5話 芽吹いたものは

#第23.5話 芽吹いたものは



Abyssは、ようやく静けさを取り戻していた。


あれほど乱れ飛んでいたウィンドウは、いまはすべてスリープ状態。

室内は、深海の底に沈んだように静かで、

淡く揺れる青い光だけが、かすかに残っている。


あの騒ぎも、まるで遠い夢だったかのようだ。


クラウンは、特大ビーズクッションに身を沈めていた。

その隣で、雪も同じように体を投げ出し、無言で天井を見つめている。

ふたりのあいだに、言葉はない。

ただ、空気に溶けるように、ひとつ、息が落ちた。


「……やっと、落ち着いた……」


クラウンがぽつりと呟いたとき、

ふわりと風に流れるように、雪の髪が彼の頬をかすめた。


「……くすぐった。」


苦笑まじりに目を細め、クラウンはその髪を見つめる。

さらさらと艶はあるのに、不自然な束感。

肩より少し下まで伸びた毛先は、不揃いで、ところどころぶつ切りに見えた。

――きっと、自分で切ったのだろう。


「……これで、いいの?」


ぽつりと、こぼれるように問いかける。

雪は、少しだけ視線を動かした。


「……ん?誰も見ないし……べつに、問題ないよ?」


“それって、気にすることなの?”とでも言いたげに、きょとんとした目で見つめ返してくる。

クラウンは数秒だけ言葉を飲み込んで、

それから、ごく小さく、やわらかく言った。


「……俺がやっても、いい?」


雪は、ほんの一瞬きょとんとした顔をした。

けれどすぐに、

ふわりと――春の匂いがしそうな微笑みを浮かべる。


「……やってくれるの?」


あまりに素直で、やわらかくて。

問いかけというより、“お願い”に近い響きだった。

クラウンの心臓が、どくん、と跳ねた。


(あ、やば……)


目の前のひとが、

どこまでも無防備で、どこまでも綺麗で、

しかも、それを悪気なくこちらに向けてくる。

まっすぐ信じて、まっすぐ差し出してくる、その手の温度。


喉の奥が、かすかに乾いた気がした。

けれど、それを飲み込むように、クラウンはひとつ頷いた。


「……じゃ、ちょっと、そっち向いて。」

「うん。ハサミ、そこにあるから。」


雪が何の疑いもなく体を起こし、背を向ける。

クラウンは指差された引き出しから、小さなハサミを取り出した。


(……使うの、初めてだけど。)


手の中のハサミが、かすかに冷たい。

でも、怖くはなかった。


雪の髪に、そっと指を通す。

さらさらと流れる感触。

ところどころ不揃いな毛先が、指先にやわらかく引っかかる。


(……ここ、ちょっとだけ。)


慎重に、静かに――

まるで壊れやすいものを扱うように、

クラウンは毛先を整えていった。


雪は黙ったまま、じっと座っている。

だけどその背中からは、ふんわりとした安心感と、どこか嬉しそうな気配がにじんでいた。


クラウンは、ひとつだけ、そっと息を吐いた。

怖くなかった理由は、たぶん――

この人が、あんなふうに笑ってくれたからだ。



――ちいさく、ちいさく、髪を落とす音だけが響いていた。

クラウンは、ひと束ずつ確かめるように、毛先を整えていく。

切るたびに、さらり、と髪が流れた。

雪は、何も言わずに、そのすべてを預けていた。


やがて。

最後のひと房にハサミを入れて、クラウンは小さく息を吐く。


「……終わった。たぶん、これで大丈夫。」


そう言いながらも、手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。

視線を泳がせるようにして、そっと問いかける。


「……どう、かな。変じゃ、ない……?」


雪は、くるりと向き直る。

自分の髪をふわりと持ち上げ、そっと眺めた。


そして──

今日いちばんの笑顔を咲かせた。


「……わぁ、すごい。なんか、ちゃんとしてる……!」


その目がまっすぐクラウンを見つめて、

「ありがとう」と、言葉より先に気持ちを伝えてくる。


「こんなふうになったの、初めて。……うれしいな。」


その一言が、

胸の奥のなにかを、ぎゅっと締めつけた。


(……やば。今の、ずるい)


嬉しかった。誇らしかった。

けれどそれ以上に、

その笑顔を“自分が引き出した”ことが――

たまらなく、嬉しかった。


ふと、足元に目を落とす。


切り揃えた髪の一房が、静かに落ちていた。

ただの毛先。だけど、

さっきまで、自分の指をすり抜けていたものだ。


手を伸ばしかけて、止める。


(……なんで、触ろうとしたんだ)


自分でも、理由は分からなかった。

ただひとつ。

“誰にも触らせたくない”という感情だけが、

胸の奥に、そっと爪を立てていた。


(――さっきまで、雪の一部だったのに。)


――そんな自分に気づいた瞬間。

クラウンは、自嘲気味にふっと笑った。


「……ルカ兄が知ったら、すっげぇ怒られそう……」


ぽつりと呟くと、雪がくるりと振り向く。

首を傾げたその顔は、心底不思議そうだった。


「え?なんで?」

「……いや、だって……」


(“うちのせっちゃんに手ぇ出すな”って、絶対言うんだよな、あの人……)

でも、それを言葉にするのは、なんか、負けな気がして。


「……なんでもない。内緒。」


誤魔化すようにクラウンが笑うと、

雪もつられるように、ふふっと笑った。


Abyssの静けさは、変わらない。

ただふたりのあいだにだけ、

ぬるくて、やわらかな何かが流れていた。



──そんな時間の、少しあと。


ルクシオン事務所には、大きなダンボールが届いていた。


「うわ、また……。

クラウン来てから、雪の荷物どんどん増えてんなぁ。」


書類を抱えたルカが、苦笑まじりに箱を覗き込む。


「ナオー。一緒にせっちゃんとこ、運んでくれね?」

「……あぁ、今行く。」


何気ない声。

けれど、その先には──

きっと何かが、待っている。


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