5.遠いぬくもり
*
いい子。
いい子ね。
いい子……
誰かがそう言って抱きしめてくれた気がする。
大丈夫ですよ。
大丈夫です。あなたはきっと、立派な王におなりです。
誰かがそう言って励ましてくれたような気がする。
心配はいりませんよ。
私がきっと何とかしてみせます。
何も心配はいりませんよ。きっと私が……
誰かがそう言って手を握っていてくれたような気がする。
分からない。
あまりにも遠すぎて、忘れてしまった。……
*
エイダの警告通り、目覚めてから後の方が王の苦しみは大きかった。
毒は抜けたが、傷から、そしておそらく長年に渡って蓄積された疲労が熱をもたらしたかもしれない。
毒によって混濁していた意識が少しだけ戻ったのに影響されたのか、悪夢もまたより明確さを増してしまった。
振り払っても、振り払っても、繰り返し脳裏に浮かび上がる。
悪夢は王の過去。
彼の幼いころの記憶だった。
先々代の王と先代の王、つまり彼の祖父と父は激しく争っていた。
祖父は完全に政略結婚として迎えた正妃である祖母を無視し、数人の妾との間に子をもうけていた。
しかしこの大陸では宗教上の理由で一度正式に教会で婚姻を結べば、それは神聖なものとみなされ、基本的には離婚は認められない。
相続権も正妻の子にのみ許されるものであり、妾である以上、その子供は絶対に相続権は認められないのだ。
これは仮に正妻に子が生まれなくとも変わりはない。
貴族の位は元より、王位ともなれば尚更である。
そのため、祖父はどれほど正妃である祖母を嫌い、その子が完全に義務としての結果である子でしかなかったとしても、妾である女の生んだ子、庶子には王位を継がせることができず、父を世継ぎとするしかなかったのだ。
それだけでなく、父は祖父とは目指す政の方向性が違っていた。
貧しい小国である状態から抜け出そうと、祖父は外にと出ようとし、父は内を固めることを好んだ。
加えて皮肉なことに、二人とも、非常に疑り深く執念深い性格だったのだ。
そして父がまだ王位を継いでいない頃、父は彼にとっての母を、彼をこの世に産み落としたその人を正妃として迎え入れた。
母は非常な美貌の人ではあったが、非常に気位の高い、権力欲の高い人だった。
彼女は夫である父をも支配し、祖父をも追い落として国を支配したいと望んだ。
その結果、ただの義務でしかない行為の結末として姉と彼が生まれたのだ。
彼には生まれつき顔から胸にかけて大きな痣があった。
その上彼が生まれたその日に城に魔女がやってきて、こう言ったのだ。
「この子は『贈り物』を持っている。それは人の心を読み、感情を読み取る力だよ。
お前たちは何ひとつとして、この子を前に隠せない」
魔女はそれだけを言うとすぐにその場を去って行ってしまった。
魔女の中には人々の間のいさかいや面倒ごとをただ巻き起こして楽しむ者もいる。
彼女もそんな魔女たちの内の一人だったのかもしれない。
そしてその時から、彼は一人になった。
姉はいたが女子よりも男子が王位継承権では優先される。
一応は世継ぎとなった。
乳母と騎士をつけられる。
だが王城から離れた塔に半ば幽閉されるように押し込められ、祖父も、父も、母も、姉も、父の妾達はもちろん、多数いるはずの親族たちも、一度として自分から塔に近づこうとはしなかった。
二度と目にしたくないと思ったのだろう。死んでしまえばいいと思ったに違いない。だが、その願いに反して彼は死ななかった。
もしかしたら赤子だった頃、乳母の誰かが、騎士の誰かが彼に愛情のようなものを与えてくれていたのかもしれない。赤子、幼児であった彼が健康を損なわずに成長できたのは、そうでなくては到底無理なことだったはずだ。
いい子。
いい子ね。
いい子……
誰かがそう言って抱きしめてくれた気がする。
大丈夫ですよ。
大丈夫です。あなたはきっと、立派な王におなりです。
誰かがそう言って励ましてくれたような気がする。
今となっては、本当にそんなことがあったのか彼には分からない。
覚えていないから。
腹心の部下ができるのは面倒だと思われたのだろう。
乳母も、騎士も、一定期間が過ぎれば入れ替えられた。
「殿下、お食事のお時間です」
(気味の悪い子供だ。実の両親にも疎まれるわけだ)
「殿下、学問のお時間です」
(気持ちの悪い痣だ。こんな顔をして何を考えているのか分かりゃしない)
彼が覚えているのは表向きには慇懃に、どこまでも事務的に、そして内心では彼のことを厭い、蔑む者たちばかりだ。
他人の心の声が聞こえ、常に感情をぶつけられるのは非常に辛く、苦しいことだった。
彼は時折、怒りと憤りをどうしようもなく抑えられなくなった。
「殿下、本日は」
(ああ、やっぱり気味の悪い顔をしている。見ると本当に嫌な気分になる)
「……ああ、やっぱり気味の悪い顔をしている。見ると本当に嫌な気分になる」
「……っ」
(なんだ?まさか?本当に?心を読んだのか?)
「なんだ?まさか?本当に?心を読んだのか?」
「ひ……」
(化け物!)
「化け物!」
「やめてくれ!」
大抵はそこまですると皆、恐怖と嫌悪感に心を塗りつぶし、逃げていく。そして2度と現れない。そうやって役目を辞退した者の数は数えきれないほどだった。
「醜いのはお前たちだって同じじゃないか!」
彼はそう吐き捨てた。
吐き捨てて、一人になった部屋でうずくまり、何かに耐えるように必死で唇を噛み締めた。
泣くことはしなかった。
もう、とうの昔に泣くことは無駄だと諦めていた。
だがただ一人。
そう。たった一人。
入れ替わることなく絶えず彼に接し続けた人がいた。
それが祖母だった。
祖母は年に数回、本当に時々、不意に彼の所へやって来た。
彼の覚えている祖母は冷たい人だった。
白い髪、青白い肌、薄い青の瞳。深く刻まれた皺。
血の気のうせた薄い唇はいつも固く引き結ばれ、その表情はいつも無表情で、その全てが見る者に「冷たさ」を連想させた。
祖母は彼の所にやってきて、いつもほんの少しだけ話をした。
「学問に励んでいますか」
「はい」
(やはりこの痣を醜いと思う者は多いだろう)
「武芸も磨かねばなりませんよ」
(加えて心を読む力。平静でいられる者がどれだけいるか)
「はい」
「昨日は何を学んだか言いなさい」
(行く末が思いやられる……)
無表情のまま、抑揚のない声で淡々と彼の学びの進捗状況を聞く。
物心ついた頃からずっとそうだ。
そして冷たい表情をした祖母から流れてくる感情も同じ。
ためらい。困惑。とまどい。悲しみ。恐れ。
そう、恐れだ。祖母もやはり彼を恐れていた。
ふとした瞬間、祖母の言葉の端から隠しようもなくそうした感情が伝わってきて、彼を委縮させることがあった。
彼はそうした時、思わず顔を伏せてしまった。
祖母の顔がまともに見られない。
しかしその瞬間、必ず祖母から厳しい言葉が鋭く発せられた。
「顔をお上げなさい!」
彼がはっとして顔を上げると、そこにはもうとまどいや困惑を抱いている祖母はいない。
言葉も心の声も一致した祖母が、彼を叱責する。
「顔を伏せ、卑屈になることは許しません。常にそうして顔を上げ、胸を張るのです」
彼がその言葉に従って顔をまっすぐに上げ、背筋を伸ばすと祖母はうなずく。
(それでこそ世継ぎ、私の孫です。
この子の持つ痣と『贈り物』は厄介だけれど、夫や息子、あの女やあの娘に似なくて本当に良かった。
誰よりも私のお父様に似ている。誰よりも)
私の血縁だ。
その祖母の心の声をいつも聞きたい、と彼は思った。
その時の祖母の心の声だけは、あたたかい、と思えたから。
あたたかい――
それは唯一、祖母からだけ、感じ取ることのできるものだった。
確かにあたたかいものが、祖母の言葉の中にはあった。
言葉は厳しく、その無表情な顔は間違っても、決して笑顔などとはいえないものだったとしても。




