おまけ
その日帰って来た主人は随分とご機嫌だった。それは屋敷の扉を開けながら、懐かしい歌を口ずさんでしまうくらいに。
「お帰りなさいませ。旦那様。何か良いことでもございましたか?」
長年、この主人に仕えている執事の白銀烏が、楽しげな主人の姿におやと目を瞬かせた。彼の頭髪からまつ毛に至るまで体毛の全てが白銀色に染まっているが、それは彼の年齢が老齢にあたるためではない。生まれながらの白銀色を持つ彼は、見た目は主よりもいくつか上に見える程度だ。だがその年齢は主よりもはるかに年上であるのだが、それはエルフならではのものだろう。エルフは成人になると年の取り方は人間に比べて気が遠くなるほど遅くなる。決して不死ではないのだが、人間からすれば不死と言われてしまうほどに。
「うん。まぁね。――あ、そうだ。アル。百合の間を整えて置いて」
「はい、畏まりました。百合の間、でございますね」
元々は本家の別荘として建てられたこの屋敷は、先代の主人が隠居と言う名でラズエルの兄に代替わりをした時に与えられた屋敷だ。
百合の間、それはこの屋敷の中で主人の部屋に次いで大きな部屋である。つまりは代々の主人の妻が使用していた部屋なのだ。そしてその部屋は女主人の部屋であるから、当然ながら客を泊めるための部屋では決してない。
「彼女は派手なものだと気後れするだろうから、シンプルで上品なものを用意して」
「彼女と申されますと、やはり?」
「そう。トーコがこの屋敷にしばらく滞在することになった」
アルジェフルートが恐る恐る尋ねると、主人の瑠璃翼は心の底から幸せそうに微笑んだ。
「左様でございますか。それは心から準備をさせて頂きます」
執事も嬉しいのである。主人の嬉しそうな顔を見て、思わず目元が緩んでしまった。長く孤独が傍にいた主人に、愛する女性が出来たのは些細な偶然がきっかけだった。もし、あの偶然がなければきっと主人は今も孤独を湛えて瑠璃色の瞳を暗く翳らせていたことだろう。
ハーフエルフはその名の通り、血の半分はエルフ。そして半分の血は別の種族であるということから付けられた名前だ。主人のラズエルはそのハーフエルフだ。父はエルフ族では名の通った貴族で、神の時代からの流れを汲むハイエルフ。その父君が現在妻として誓いを交わしているのは同じエルフ族ではない、ただの人間の女性である。そしてその現在の妻である女性が我が主人の母君なのだ。
ハイエルフが人間と結婚し、子を作るなどエルフ族の中でも彼しかいない。エルフ族は誇り高い種族で、どちらかと言うと人間を自分達よりも劣った生き物であるという認識である場合が多い。しかし彼自身が力のあるエルフであったことから、彼にそのことについて直接文句を言うような者はいない。それにエルフは元々慈悲深い生き物だ。たとえハーフエルフであろうとも、エルフの子である子供を見捨てるようなことはない。
だが、それはそれだけの意味だ。
見捨てられることはない。しかし、仲間でもない。そんな雰囲気が根強くあるのもまた消せない事実だった。エルフでもない、人間でもないラズエルが真に友人を見つけるのは成人を過ぎて外の世界を知るようになった後のことだ。
旅に出て、人間の戦に手助けして。父君に分け与えられたこの屋敷に帰って来た際に今日みたいな顔で『友人ができた』とぽつりと話してくれた日のことを、アルジェフルートはまるで昨日のことのように思い出せる。
それを思うと、彼女を迎えるための準備もとても喜ばしいことであると心から思う。
「あ。そうだ。アル、その。また手紙を運んで欲しいのだけど」
「トーコ様にですね?」
エルフ語で白銀の烏の名を持つ彼が、主人の想い人の伝書鳩だ。その名の通り、白銀の烏の姿に変わることができる。それもかの女性に言わせれば、鳩になってしまうのだが。これがもし、他の人であれば彼は彼の自尊心のために徹底的に否定してみせただろうが、かの想い人であれば話は別だ。
「すまないな。アルにこんなことさせて」
「いいえ。私はラズエル様にお仕えする身。貴方様のためでしたら、鳩でも雀でも何でもなりましょうぞ」
ラズエルが申し訳無さそうにするのが分かって、茶化すように片目を瞑っておどけてみせる。
トーコがしばらくの滞在ではなく、この屋敷が彼女の住まいとなる日もきっとそう遠い日の話ではないだろう。執事はそう確信めいた予感を抱いて、今日も主人の想い人の家まで飛ぶ。
彼女が優しく羽を撫でてくれるのは存外気持ち良いのである。普通の人間の女性である彼女は、自分の正体を明かしても同じように羽を撫でてくれるはずだ。