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第二話 傷の名を持つ者たち

異世界の朝は、やさしすぎるくらい静かだった。


召喚された生徒たちは、王城の客室に分けられて目を覚ました。分厚い布団、磨かれた床、窓の外に広がる城下町、遠くで鳴く鳥の声、そして、あまりに整いすぎた朝食。焼き立てのパン、香草の香りがするスープ、甘い果実、湯気の立つ茶。現実離れしているのに、現実よりずっと親切だった。


だからこそ、みんな少しだけ安心した。


「夢じゃなかったんだな……」

「本当に異世界なんだ」

「でも、悪くないかも」

「帰れるのかな」

「いや、帰るより……」


その最後の言葉は、誰にも聞こえないほど小さかった。

けれど、その小さな欲望こそが、この世界の最初の毒だった。


戻りたい。

けれど、戻らなくてもいいかもしれない。

今の自分を知る者が誰もいないなら。

失敗した昨日が、ここには存在しないなら。

ここでなら、やり直せるかもしれない。


そう思ってしまうこと自体が、もう罠の入口だった。


広間で彼らを迎えた白い神官は、昨日と変わらず穏やかだった。真っ白なモザイクの顔。見ているだけで妙に安心する声。少し近づくだけで緊張がほどけてしまう、不自然な落ち着き。生徒たちは全員、その違和感をぼんやり感じていたが、ぼんやりとしか感じられない。危険だと確信するには、あまりにも安心感が強すぎた。


「昨夜は驚かせてしまってすみません。今日は、皆さんのことを少し教えてください」


そう言われると、なぜか答えなければならない気がしてしまう。

人は、やさしくされると口を開いてしまうものだ。

まして相手が、こちらを落ち着かせることに長けているならなおさら。


ひとり、またひとりと、自分の名前を名乗り始める。


成績の良かった者。

スポーツで目立っていた者。

明るくて誰とでも話せた者。

人前ではふざけていた者。

無口で何を考えているか分からない者。

皆、学校では違う顔をしていた。だがこの世界では、その違う顔の下に隠していた傷が、最初に裂けて見える。


最初に壊れそうだったのは、笑っていた生徒だった。


「……別に、何もないよ。ほんとに」

「そうですか?」

「本当だって。普通だった。普通に学校行って、普通に部活して、普通に……」


そこまで言って、彼は言葉を失った。


普通。

その言葉は、彼にとってずっと嘘だった。

家では父親の怒鳴り声、母親の沈黙、食卓の空席。

学校では、誰かの機嫌を取ることでしか居場所がなかった。

明るくしていれば、何とかなると思っていた。

でも実際には、明るくしているほど中身が空っぽになる。

転んだふりをしたときに、初めて本当に倒れていたのだと気づく。

彼は、異世界に来てようやく「もう演じなくていい」と思った。

だからこそ、その安心が危うい。


次に、無口な少女が名を呼ばれた。


「私は……」

「ゆっくりでいいですよ」


ホワイトが微笑む。

その一言で、少女の肩が少し下がる。

安心してしまう。

本当に。

ほんの少しだけ。


彼女は、学校で誰にも見られていなかった。

正確には、見られていたが、見られていないふりをされていた。

成績は優秀だったが、褒められることは少なかった。

静かな子、と呼ばれるたびに、自分の喉の奥に言葉が詰まっていく。

家では家族の会話が少なかった。

食事の音だけが大きくて、沈黙が沈殿していた。

彼女は言葉を覚える前に、黙ることを覚えてしまった。


だから、異世界の広間で名前を呼ばれた瞬間、ほんの少し泣きそうになった。

名を聞いてもらえる。

ゆっくりでいいと言ってもらえる。

それだけで、ずっと欲しかったものが手に入りそうだった。


だが、ホワイトはそれを見逃さない。

見逃す必要もない。

最初から、その揺れを待っているのだから。


「皆さんは、ここに来るべき人たちでした」

「来るべき……?」

「ええ。事情はそれぞれ違っても、心はきっと同じです。傷を抱えたままでは、元の世界はあまりに辛かったでしょう」


それは慰めに聞こえた。

でも実際には、見抜かれているという感覚に近かった。

しかも、最も触れられたくないところを、まったく痛みなく撫でられる。

その撫で方が、かえって恐ろしい。


一人の男子が拳を握った。


「……じゃあ、ここなら変われるんですか」

「変われますよ」

「本当に?」

「ええ。少なくとも、皆さんの力は必要とされています」


必要。

その言葉に、何人もの表情が少しだけ変わった。


必要とされたい。

役立ちたい。

誰かに見てほしい。

自分は無価値ではないと証明したい。

そんな願いは、みんな黙って隠していたはずなのに、この世界ではすぐに顔を出した。


ホワイトは、それらを一つずつ拾い上げるように見つめていた。

そして、その視線の外側で、王城の別室では、もう別の準備が進んでいた。

彼らに与えられる武器。

彼らを鍛える者。

彼らに敵として示される魔族。

すべてが、整然と、あまりに整然と配置されていく。


その間にも、村の方では赤子が泣いていた。


まだ名もないその子は、産まれて数日も経っていない。

寝て、泣いて、飲んで、眠る。

それだけの存在だった。

だが、時折、眠りの奥で、誰かの夢を見ているように眉を寄せる。

長い廊下を歩く影。

白い天井。

安い机。

誰かに呼ばれても返事をしなかった午後。

消えかけた自分の名前。

それらはまだ言葉にならない。

ただ、赤子の胸の奥で、何か重たいものが静かに沈んでいた。


その家の母親は、疲れ切った顔で子を抱きながらも、時折、ふっと笑った。

この子が大きくなって、どんな子になるのか。

丈夫に育つだろうか。

優しい子だといい。

泣き虫でもいい。

真面目でも、少し不器用でもいい。

生きていてくれれば、それでいい。


だがその願いの上に、見えない何かが一瞬だけかぶさる。

白い影。

輪郭の曖昧な、人型の気配。

部屋の温度が、ほんの少しだけ下がった。


母親は気づかない。

気づかないまま、赤子を強く抱きしめる。


王城へ戻る。


生徒たちは一人ずつ、自分の過去を少しだけ語らされた。

語りたくないことを、語れる分だけ語る。

その作業は、思っていた以上に精神を削った。

過去を言葉にすることは、傷を他人に見せることだ。

見せると、少し楽になることもある。

けれど、見せた瞬間に自分でもうまく隠せなくなる。


一人は、誰にも言えなかったいじめを打ち明けた。

机に落書きされた名前。

水をかけられた制服。

笑われるたびに笑い返す癖。

その子は、異世界に来たことで初めて「笑わなくていい」と思った。

だからこそ、いつか笑わなくなった自分を見られるのが怖かった。


一人は、家族を事故で失っていた。

残った親戚に引き取られたが、愛されている実感がなかった。

異世界に来て、初めて「もう失う相手がいない」と思った。

それが救いになるはずだったのに、実際にはただの空白だった。


一人は、誰かを傷つけたまま逃げてきた。

謝れなかった。

戻れなかった。

だから異世界で英雄になれれば、少しは帳尻が合うかもしれないと願っていた。

だが、英雄になる前に、まず自分が誰かを許せないままだった。


こうして、ひとりひとりの傷が並べられていく。

それは告白であり、診断であり、観察でもあった。


ホワイトは、何も言わずに聞いていた。

そして時々、ほんのわずかに頷く。

その頷きは、理解の証に見える。

だが実際には、壊し方を確認しているだけだ。


「皆さんは、強くなれます」

「強く……」

「ええ。強さは、傷のある人間ほど育ちやすい」


その言葉に、数人が微妙に顔を曇らせた。

だが、曇った顔を見てもホワイトの表情は変わらない。

まるで事実を述べただけのように、静かだった。


強さ。

それは救いのための言葉に聞こえる。

けれど実際には、壊れやすい者に壊れながら立てと命じる言葉でもある。

そしてこの世界では、それが必要だった。

必要であること自体が、もう悲劇の証明だった。


夜になると、クラスメイトたちは少しずつ互いの距離を縮め始めた。

食堂での会話。

城壁の上から見た星。

異世界の水がやけに甘く感じること。

剣を握ったことのない者が、柄を持っただけで震えたこと。

それらはまだささやかな交流だったが、確かに希望の芽だった。


「帰りたいと思う?」

「……最初は思ってた」

「今は?」

「今は……少し、わからない」

「じゃあ、ここでやり直せるかな」

「やり直せたら、いいけど」


やり直し。

その言葉を口にするとき、人はどうして少しだけ笑ってしまうのだろう。

それは願望であると同時に、嘘でもあるからだ。

本当にやり直せるなら、あんな顔をしなくて済む。

本当にやり直せるなら、もっと早く、もっと簡単に、みんな救われている。


その笑いの輪の少し外に、ホワイトが立っていた。

誰もそれを不自然だと強く感じない。

ただ、そこにいると少し安心してしまう。

だから、話しかけてしまう。


「ホワイトさんは……なんで、そんなに落ち着いてるんですか」


誰かが、ふと尋ねた。


ホワイトはほんの少し首を傾げた。

その仕草は、優しさの形に見えた。


「慣れているからでしょうか」

「何にです?」

「人が、希望を見つけるところです」


その答えは、なぜか場を静かにした。


希望を見つけるところ。

その表現は美しいはずなのに、どこか気味が悪い。

見つけることは普通、良いことだ。

だがホワイトの口から出ると、まるで獲物の位置を把握するような響きがあった。


一瞬、青年の中で何かが引っかかった。

この白い神官は、何かを知っている。

しかも、知っているだけではない。

知ったうえで、見ている。

その直感は確かだったが、安心感の呪いがすぐに思考を鈍らせる。

おかしい、と考える。

でも、落ち着いている。

だから、たぶん大丈夫なのだろう。

そんなふうに、心が勝手に矛盾を丸めてしまう。


その夜、青年は眠る前に窓の外を見た。

見知らぬ星座。

見知らぬ月。

城下町の灯りは遠く、静かで、どこか美しかった。


この世界には、まだ希望がある。

そう思えた。


けれどその同じ夜、赤子は泣いていた。

眠りの奥で。

前世の名も、社会の失敗も、孤独も、まだ言葉にならないまま。

ただ、理由もなく怖かった。

知らないはずの白い視線を、どこかで感じた気がしたからだ。


そして、遥か高い場所で、ホワイトはその泣き声を聞いていた。


まだ早い。

まだこの子は何者でもない。

だが、だからこそ面白い。

予定された勇者ではない。

神にも、王にも、物語にも選ばれていない。

ただ、余りものとしてこの世界に置かれた存在。


ホワイトは静かに笑った。


「いいですね」


その声は、優しくて、冷たい。


「最初から壊れる者は、壊しがいがない。けれど、何も知らずに生まれたものが、少しずつ自分を思い出していく瞬間は、とても綺麗です」


広間では、未来の勇者たちが眠りについていた。

城下では、普通の人々が明日の仕込みをしていた。

村では、赤子がまだ知らぬ世界に向かって泣いていた。


誰も知らない。

この物語の本当の痛みは、剣でも魔法でもなく、まだ名もない命が、これから何を背負わされるかにあることを。


そして、それを見ている白い存在が、すでに満足し始めていることを。

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