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第一話 勇者召喚

その日、教室は、まだ普通だった。


六月の湿った風が窓の隙間から入り込み、白いカーテンをかすかに揺らしていた。昼休みの残り時間はわずかで、誰かがプリントを配っていたり、誰かがスマホを机の下で隠していたり、誰かが眠そうに頬杖をついていたりした。黒板には今日の授業予定が半分消えかけた字で残っていて、窓際の席に座る者は外の空を見上げ、運動部の連中は放課後の練習の話をしていた。


この世界で、最もありふれた一日だった。


なのに、最初に気づいたのは、教室の空気が少しだけ変わったことだった。


音が遠のいた。

チョークの擦れる音、椅子の軋む音、誰かの笑い声、廊下を歩く足音。そういうものが、薄いガラス一枚の向こうへ押しやられたみたいにぼやけていく。代わりに、床の下から静かな震えが立ち上がった。最初は地震かと思った。だが揺れはない。ただ、教室そのものが、見えない手で外側へ引き剥がされるような感覚だけがあった。


「……え?」


誰かが呟いた直後、床に光が走った。


白い。

あまりにも白い。


教室の床板の木目の間から、細い線がいくつも伸びていく。まるで誰かが見えない万華鏡を地面の下で回しているみたいだった。線は円になり、円の中に文字のようなものが浮かび上がり、見たこともない幾何学模様が高速で重なっていく。誰かが椅子を倒した。誰かが悲鳴を上げた。先生は最初、冗談だと思ったのか「落ち着け」と言いかけたが、その声は途中で途切れた。


床が、開いた。


いや、開いたというより、教室の床が世界の底へと沈んだ。その向こうには、果てのない白い光の空間が広がっていた。目が痛くなるほど明るいのに、不思議と冷たい。冷たいのに、吸い込まれそうになる。立っていられなくなった生徒たちが次々と膝をつき、机を掴み、互いの腕を掴み合う。


その中心に、一人の少女がいた。


「う、そ……」


彼女は声を震わせた。普段なら何でもない一言だったはずなのに、その瞬間はやけに遠く響いた。次の瞬間、視界が白に飲み込まれた。


転落ではなかった。落ちる感覚もない。ただ、世界がひっくり返り、教室という箱だけが背後に置き去りにされた。


気づけば、彼らは大理石の床の上に立っていた。


巨大な広間だった。


高い天井には無数の燭台が並び、金色の灯りがゆらゆらと燃えている。壁には知らない紋章、知らない文字、知らない神の顔を描いたと思われる絵。床には召喚陣と同じ模様が広がり、その周囲を、鎧を着た兵士たちと、白いローブをまとった神官たちが取り囲んでいた。どこかで角笛が鳴った。ざわめきが起こった。そして、目の前の玉座に座る男が、ゆっくりと立ち上がった。


王だった。


年老いてはいるが、背筋はまっすぐで、着ている衣は重厚で、まとっている気配には確かな威厳があった。隣には金の髪を束ねた美しい神官がいる。兵士たちは剣の柄に手をかけているが、敵意というよりは、信じられないものを前にした緊張に近かった。


「……ついに、来たか」


王の声は低く、震えていた。


「異界より来たる勇者たちよ。どうか、我らの世界を救ってくれ」


その言葉で、広間がざわめいた。


勇者。

救う。

世界。

魔王。

異世界。


言葉だけが、アニメや小説の中で見たままの形で並んでいく。生徒たちの顔に、まだ現実感の薄いままの興奮が混じる。混乱の中でも、ほんの一部の者は目を輝かせた。制服のまま召喚された彼らにとって、それはあまりにも突飛で、あまりにも都合の良い現実だった。


「本当に異世界召喚ってあるんだ……」


「やばい、これってもしかして……」


「勇者って、俺たちが?」


最初の恐怖は、希望にすり替わった。

絶望よりも先に、夢が来たのだ。


そのなかで、ただ一人、何も言わずに周囲を見回している者がいた。教室では目立たなかった。成績が特別良いわけでもなく、運動ができるわけでもなく、交友関係が広いわけでもない。ごく普通の、どこにでもいる青年。だが彼は、誰よりも早く状況を飲み込もうとしていた。飲み込めるとは思っていない。だが、飲み込まなければ置いていかれると本能で理解していた。


名前はまだ語られない。

彼は、この物語にとって“見せかけの中心”のひとりでしかないからだ。


彼の視線の先で、神官のひとりが微笑んだ。


その笑みは、なぜか胸の奥を落ち着かせる種類のものだった。目立つ美貌ではない。ただ、見ていると不思議と肩の力が抜ける。危険なはずなのに、怖くない。むしろ「この場は大丈夫だ」と思ってしまう。誰もが、その神官を見て少し安心した。兵士も、生徒たちも、王でさえも、ほんの一瞬だけ表情を和らげた。


その神官は、白い。


真っ白だった。


衣も、髪も、輪郭さえも、ところどころがモザイクに溶けている。だが、誰もそれを異常だと強く認識できなかった。目に入った瞬間から、危険な印象が溶かされていく。警戒の形が、最初から作れない。何かがおかしいと考えようとするほど、その違和感はするりと逃げていく。


ホワイトは、静かに言った。


「ようこそ、皆さん。ここから先は、きっと大変です。でも、心配しないでください。私は皆さんの味方です」


あまりに自然で、あまりに柔らかい声だった。


その瞬間、何人かは本当に安心してしまった。

今いる場所は未知だが、少なくとも敵ではなさそうだ、と。

誰かが助けてくれるなら、まだ何とかなるかもしれない、と。


そして、その安心こそが、最初の罠だった。


同じ頃、どこか別の場所で、夜が明けていた。


それは王城から遠く離れた、森と川に囲まれた小さな村だった。召喚の喧騒も、白い広間も、そこにはまだ届いていない。薄い藁屋根の家の中で、ひとりの女が苦しそうに息をしていた。汗で濡れた額を、夫が震える手で支えている。囲炉裏の火は弱く、部屋の隅には古びた布と、血で濡れた桶と、産婆の低い声だけがあった。


「もう少しです、踏ん張って」


「息を……止めないで……」


産声はまだない。

だが、確かに新しい命がこの世界へ押し出されようとしていた。


女は歯を食いしばった。

この痛みが何なのか、彼女にはわからない。だが、わからなくても構わなかった。痛みの向こうにいるはずのものを、ただ信じていた。家族が増える。小さな手が増える。守るべき明日が増える。そう思えるだけで、今の苦しみは意味を持った。


「……来る……!」


産婆が叫ぶ。

次の瞬間、部屋の空気が一度だけ、ひどく静かになった。


赤子が生まれた。


小さな、赤い、弱々しい命だった。

顔は皺だらけで、目はまだ開かず、手足は頼りない。けれど、その泣き声は確かだった。世界に向かって、自分はここにいると告げる、最初の叫びだった。


夫が泣いた。女も泣いた。産婆も、少しだけ顔を緩めた。

その赤子は、やがてこの世界で生きるだろう。歩き、食べ、笑い、何かを失い、何かを得るだろう。まだ何も知らない。まだ何者でもない。ただ、ひどく小さくて、ひどく予定外で、なのに確かにここにいる。


その赤子の上に、誰にも見えない影が落ちる。

白い何かが、遠くで一瞬だけ笑ったような気がした。

けれど、それを見た者はいない。


広間では、召喚された生徒たちが玉座の前に整列させられていた。

王は彼らに、この世界が魔族との戦争で疲弊していること、古の封印が弱まりつつあること、勇者の力が必要であることを説明し始める。神官たちは祈るように頭を垂れ、兵士たちは緊張したまま新たな英雄たちを見つめている。


「お前たちには、世界を救ってもらう」


その言葉は、重かった。

だが同時に、甘かった。


希望の重さは、いつだって最初は心地よい。

役に立てる。必要とされる。選ばれた。

現実でそう思えなかった者ほど、異世界のその言葉に救われる。

だからこそ、壊れたときは深い。


そのなかで、あの青年はまだ黙っていた。

召喚されたクラスメイトたちが一人ずつ立場を持たされ、名前を呼ばれ、能力を測られ、期待を浴びていくのを見ながら、彼は胸の奥に妙な違和感を覚えていた。何かがおかしい。だが何がおかしいのかはわからない。目の前の白い神官は、見ているだけで安心してしまう。安心してはいけないと本能が叫んでいるのに、呼吸が少しだけ楽になる。


ホワイトは、ゆっくりと彼らを見回していた。




そして、ほんの少し離れた場所で、まだ名も持たない赤子が、世界に向かって小さく指を握りしめていた。

その手は、あまりに小さい。

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