プロローグ
世界は、最初から壊れていたわけではなかった。
少なくとも、誰もがそう思っていた。
空は青く、川は澄み、朝には風が草を揺らし、夕暮れには遠い山の影が金色に沈む。城壁の内側では市が立ち、鍛冶場では火花が散り、教会の鐘はまだ祈りの音として鳴っていた。魔法は珍しい奇跡であり、剣は希望の象徴であり、異世界という言葉そのものが、まだ救いの匂いを残していた。
人は、壊れるものほど美しく見えるときがある。
それは未来があるように見えるからだ。
明日が来る。
努力が報われる。
傷はいつか癒える。
敵と理解し合える。
神は見ている。
そう信じられるうちは、世界はまだ物語でいられる。
だが、物語はいつも、語られない場所から腐り始める。
神殿の奥は、ひどく静かだった。
祈りの言葉は確かに唱えられているのに、返事だけがない。
祭壇の灯は燃えているのに、温度だけが足りない。
人々はそれを不安とは呼ばなかった。古い伝承の難しさだろう、忙しさのせいだろう、奇跡はすぐには起きないのだろう、そうやって説明できる形に直して、胸の違和感を飲み込んでいた。
けれど、説明できることは、救いではない。
どこかの城で、誰かが未来を誓った。
どこかの村で、誰かが家族を失った。
どこかの戦場で、人族は魔族を憎み、魔族もまた人族を憎んだ。
その憎しみは、正しさではなく、痛みの継承だった。
守れなかった者たちの言葉が、次の世代では怒りに変わる。
奪われた者たちの涙が、次の世代では牙になる。
誰も最初から悪ではなかった。
だが、悪意のない痛みほど、長く世界を壊す。
そして、その全てを、ただ静かに見ているものがいた。
白い。
あまりにも白い。
人の形をしているのに、人の気配だけがない。
顔は見えるはずなのに、どこかモザイクに覆われていて、輪郭だけが異様に整っている。
不気味なはずなのに、なぜか見てしまう。
怖いはずなのに、なぜか安心してしまう。
その存在に近づいた者は、自分が近づいていることにすら気づかないまま、少しずつ心を緩めていく。
ホワイトは、そういう呪いをまとっていた。
「大丈夫ですよ」
その声は、やさしすぎるほどやさしい。
不安を撫で、疑いをほどき、警戒を眠らせる。
けれどその優しさは、傷を治すためのものではない。
壊れる瞬間を、より綺麗にするためのものだ。
この世界では、誰もが何かを失っていた。
この世界では、誰もが何かを待っていた。
この世界では、神々ですら、もう戻らない場所へ沈んでいた。
それでも朝は来る。
鳥は鳴き、子どもは笑い、剣士は鍛錬し、魔法使いは空を見上げる。
まだ希望があるからだ。
まだ夢があるからだ。
まだ、自分たちの物語が始まっていないと信じているからだ。
だが、すぐに来る。
それは祝福の顔をして、空から落ちてくる。
選ばれた者たち。
勇者候補。
異世界転移。
新しい始まり。




