10 あんまり好きじゃないけど一緒に行ってあげる
「海外留学、ですか?」
「すごい、リナリアと一言一句同じ反応だ」
照れ隠しに茶化すと、アトラは半目になった。
「リナリアが海外に行ったから、私の姿がある程度人目に触れても大丈夫だって言いたいの?」
「まあ、そうかな」
頷くと、アトラは頬に指先を当てた。しばらく思案するように斜め下を見る。物思いに耽っているらしい。
「それでさ、本題なんだけど」
アトラは、日の当たるカフェでケーキを食べるのは初めてだという。パラソルの下の円形の影の中で、彼女は眩しそうに目を細めていた。
「君のお義父さんから、君のことは好きにして良いって言われてるんだよね」
頬杖をついたまま言うと、アトラは眉をひそめる。フォークを下ろして、訝しむように首を傾げた。
「……一体、どうやって説得したんです?」
「国ひとつ人質に持ってって、脅した」
さらりと答え、ルカは二本指を立てて得意顔になる。
アトラは心なしか怯んだように見えた。
「それで、私のことをどうするっていうんですか」
警戒を示した彼女の言葉に、ルカはあっけらかんと「どうもしないよ」と答えた。
「僕は莫大な金を支払ったりとか、何かを失ったりだとか、そういう代償は特になかったよ。……だから、君が気に病むようなことは何もない」
とはいえ、やり方を一歩間違えていれば、口封じをされていたか、あるいは社会的に殺されていたか……。公爵の『ご寛大さ』には感謝しきりである。
理由も分からず外出を禁じられ鬱屈していたリナリアは、今は異国の地で溌剌と暮らしているという。ほとんど日記のような手紙が届いたのは、数日ほど前のことだ。楽しい生活を送っているようで安心した。
片手で頬杖をついたまま、ルカは柔らかい口調で告げた。
「これからは、お互い、ただの二人の人間として仲良くなれないかな。僕、君みたいに――ちょっと変わった女の子に会ったのは初めてなんだ」
不思議なものを見るような眼差しで、彼女は凜と背筋を伸ばしてこちらを見ていた。
「……私のこと、『ちょっと変わった人間』に収めていいんですか?」
「うん、良い」
頷くと、アトラはきゅっと唇を引き結んだ。
黄色に染まった街路樹が続く並木道には、時折、心地よい涼しさの風が吹き抜ける。アトラの柔らかい赤毛がそよそよと揺れるのを眺めながら、ルカは頬杖から顔を上げた。
アトラは途方に暮れたような顔で、呆然と黙り込んでいる。
「……どうして、そこまでしてくれるの?」
唇が薄く開いて、独り言のような呟きが漏れた。アトラの表情は心細そうだった。
「だって私たち、ほとんど面識もないし、私、いつだって酷い態度を取っていたでしょう」
酷い態度の自覚はあったらしい。内心で苦笑しながら、ルカは頬を掻く。
「ラチェタライトと、僕の母のことを教えてくれたでしょ。そのお礼ってだけ」
「それだけのことじゃない」
「一方の『それだけ』が、他方にとっては『そこまで』だったってことだよ」
アトラは文句ありげに口を開きかけたが、結局また口を閉じた。どうせ言いくるめられると諦めたらしい。
「分かりました。……私も、今まで友人を作るのは極力控えていましたから、状況が変わったのなら、友人を作るのはやぶさかではありません」
諦めたようなため息一つ、彼女はおずおずと微笑む。
「……仲良くしてくださいね」
にこ、と頬を緩めたアトラが思ったより可愛かったので、咄嗟に返事ができなかった。
三秒ほど絶句していたら、珍しいアトラの微笑みが一気に苦る。
「仲良くしたくなかったんですか?」
「まさか! する! するよ」
低い声で睨みつけられて、ルカは大慌てで首を振った。
アトラはしばらく唇を尖らせていたが、ふんと鼻を鳴らすと残りのケーキを大きな一口で食べ終えた。
頬をいっぱいにして、慣れない様子でもごもごと咀嚼している姿は、公爵令嬢のそれではない。
ぎこちなく口の端の生クリームを舌で舐めて、彼女は癖のある髪を耳にかけた。不慣れな仕草で足を組んで胸を反らす。
「公爵家や本物のリナリアに迷惑をかけたくないので、私はただの『酒場のアトラ』で、生まれも育ちも不確かな平民です。そんな私と交友があることで、あなたには迷惑をかけるかもしれません。……それでも良いのですか?」
「うん」
今度は迷いなく頷くと、アトラは頬杖をついた。「お馬鹿なひと」と聞こえよがしに呟いて、ふと思い出したように眉を上げる。
「そういえば、今度またラチェタライトが競売にかけられますよ」
「え、もう?」
つい数ヶ月前に、例のオークションで競り落とされた品のはずだ。再び売りに出されるには、随分と早くないか?
「前回ラチェタライトを購入されたお客様が、『もう自分は十分望みが叶ったので、一秒でも早く手放したい』と、店の方にいらして」
「な……何があったの?」
「お客様の個人的な事情を言い触らしたりなんてできませんよ」
「友達のよしみで教えてくれたって良いじゃないか」
哀れがましく弱った声を出すと、アトラはひょいと肩を竦めた。
ちょいちょい、と小さく手招きをされて身を乗り出す。アトラは口の脇に手を立てると、「どうやらね」と切り出した。
「あのお客様、何年も前に旦那さんと仲違いをしたきり、敷地内にある別邸で暮らしていたそうなんです」
「え、あの人が?」
さる貴婦人が家庭でそんな問題を抱えていたとは知らなかった。社交界で会ったときはごくごく普通の夫婦に見えたのに。
「当時の言動を反省して仲直りをしたくて、でもすっかり機会を失って勇気が出なかったので、ラチェタライトを購入したんだそうです。それで、その力の手助けを受けようと思ったら、――何でも、大きな庭木が倒れてきてお屋敷が半壊になったんですって」
「半壊!?」
思わず大きな声を出すと、アトラが鋭く歯擦音を発する。慌てて手で口を塞いで、ルカは目顔で続きを促した。
「まあそれで、別邸が見事に潰れてしまったから奥様は本邸に戻られて、そのついでに長年のわだかまりもある程度解消された――ということらしいです」
以上、と言いたげに席に座り直したアトラに、ルカは「うーん」と眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「それは……良い話なのか悪い話なのか……」
「微妙ですよね」
アトラも中々ぞっとしないような表情で、複雑そうである。
「とにかく、これ以上家を壊されたら堪らないということで、あの石は売りに出したいという風にお話を頂いたんです。まだ詳細な日時は決まっていませんが、オークションの日程が確定したら、どこからともなく情報が来ると思います」
なるほど、と頷いて、ルカは腕を組んだまま唸る。
「どうするかな、もう一回くらい挑戦してみようかなぁ」
「まあ、止め立てはしませんけど」
意味深に言葉を切って、アトラは聞こえよがしに呟いた。
「一度しかない人生に、魔石はひとつで十分じゃないですか?」
頬杖をついて、横を見ながらそう言って、数秒おいて、反応を窺うように目線だけがちらりとこちらを向く。絶句しているルカを見つけて、アトラの耳がゆっくりと赤くなる。
顔ごと背けて黙り込んでしまったアトラは、ごく普通の少女に見えた。
どこにでもいる、平和な生活をしている人間である。
道行く人が見かけたって、何とも思わず日常のワンシーンとして消えていくような、何の変哲もないような顔をして。
ルカはふと思い出してアトラを見た。
「一応確認しとくんだけどさ、雪山はお好き?」
アトラは少し虚を衝かれたような顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。言わなくても分かるでしょう、と言うような顔だった。
「じゃあさ、僕が北の方で城を継いだあと、もし良かったらおいでよ。一人じゃ寂しいからさ、僕が」
「そこまで仰るなら、考えておきますよ」
勿体ぶった口調で、アトラはつんと鼻先を上げて答えた。その口元には面映ゆいような笑みが浮かんでいる。
可愛らしい大きさの円テーブルに向かい合わせに座って、人目を憚るように顔を寄せ合って、小さな声で囁き合う。
「私より長生きして、私のこと、壊してくれますか」
「君となら一緒に火口に飛び込んでも良いよ」
「まあ、口の上手いこと。火山があるの?」
「ここ百年は噴火してないけどね。――鉱山もある」
きらりとアトラの目が光る。
日常の中に一粒落とされた痛烈なスパイスが、背筋を痺れさせるようだった。
自分たちが、何食わぬ顔でこんな会話をしているだなんて、背後をゆくウェイターも、通り過ぎていった家族連れも、隣の席の老紳士も、誰も知らない。
そうした、悪戯めいた非日常的な紐帯が、どうにも楽しくて仕方ないのである。
「ほんと、癖になるよなぁ」
「何ですか?」
「いや、こっちの話」
と、アトラはふと思い出したような顔をして指を立てた。
「ちなみに、私には常に警備がつけられていて、私の身に危険が及ぶと報告が行くように魔術がかかっている、と先日オークション側から聞いたのですが、」
「うん?」
いきなり何の話だろう、とルカは身を乗り出した。
「その金額が、ざっと一ヶ月あたり――これくらいかかるそうでして」
そう言ってアトラが指で示した数字が、しばらく信じられなかった。絶句するルカに、アトラがやや申し訳なさそうな顔になる。
「もしそちらにお世話になるなら、警備は打ち切った方が良いかしら?」
「い、いや……警備はつけておいた方が良いよ、絶対」
ルカがアトラをただの女の子として扱ったとしても、皆が皆同じ考えを持つわけではない。
彼女の正体が何かの拍子で知れたときのことを考えれば、用心に用心を重ねて守るべきなのは当然だ。
いやしかし、別に払えないわけじゃないけど、無理って訳じゃないけど……。
ルカは腕を組んでしみじみと呟いた。
「君ってやっぱり、世界で一番くらいに高くつく女の子だね」
「嫌になった?」
「嫌だったらもっと早く手を引いてるよ」
アトラはちょっと眉をひそめて、ルカをまじまじと見た。
「やっぱり、変なひと」




