第1話 不要な部品
「アレン、もっとしっかり握りなさいよ! 魔力の供給が遅れてるじゃない!」
耳元で金切り声が響く。鼓膜を劈くようなその声の主は、俺が両手で包み込んでいる白く華奢な手の持ち主、聖女ルミナだ。
目の前には、迷宮都市オラリオの深層階層主、アビス・ヒュドラがその醜悪な鎌首をもたげている。腐食性の毒液が床石を溶かす音が、戦場の緊張感を極限まで高めていた。
「分かってる、いま調整しているところだ……! ルミナ、意識を散らすな、回路がブレる!」
俺は必死に声を絞り出す。額から流れる汗が目に入り染みるが、拭う余裕などない。俺、アレンの役割は「魔力導管」。自身の魔力は空っぽに近いが、他者の魔力を体内に取り込み、不純物を取り除き、圧縮・加速させて送り返す特異体質だ。
ルミナが放とうとしているのは、神聖魔法の最上位に位置する『神聖殲滅光』。本来ならば、大聖堂の奥深くで十数人の神官に囲まれ、複雑怪奇な魔法陣の上で長時間の儀式を経てようやく発動できる代物だ。戦場の最前線、それも動き回る魔物を相手に撃てるような魔法ではない。
だが、俺がいるからそれが可能になる。
ルミナの膨大だが粗削りな魔力を俺が引き受け、体内の魔力回路で瞬時に精錬し、最適な術式へと変換して彼女へ送り返す。本来十分間は必要とされる詠唱プロセスを、俺の肉体を媒体にすることで強引にショートカットさせているのだ。
全身の血管が焼き切れそうな激痛が走る。魔力の奔流が俺の細い神経を無理やり押し広げていく感覚は、体の中に熱した鉛を流し込まれるに等しい。
「遅い! まだなの!?」
「くっ……接続完了! いけるぞ、撃てッ!」
俺の叫びと共に、ルミナの手のひらから眩い閃光が迸った。
本来の詠唱時間、十分。
しかし、俺たちが要した時間はわずか十秒。
閃光は一直線にヒュドラの中央の首を捉え、その巨体を神聖な炎で包み込んだ。断末魔の咆哮すら上げる間もなく、階層主の体は光の粒となって霧散していく。
圧倒的な火力。理不尽なまでの殲滅速度。
これが俺たち『勇者の剣』が最強と呼ばれる所以であり、俺がボロ雑巾のように酷使される理由でもあった。
「はぁ、はぁ……」
魔力を使い果たし、膝をつく。指先が痙攣して動かない。視界が明滅し、激しい吐き気に襲われる。毎度のことだが、魔力導管の反動は凄まじい。俺の体はただのパイプではない。フィルターであり、加圧ポンプであり、冷却装置でもあるのだ。生身の人間がやっていいことではない。
「やったか……!」
前衛で盾を構えていた勇者レオンが、大剣を肩に担ぎながら振り返った。整った金髪に、自信に満ちた碧眼。絵に描いたような英雄の姿だ。
「さすがはルミナだ。あのヒュドラを一撃とはな。詠唱破棄に近い速度でこれを撃てるのは、世界広しといえど君だけだろう」
「ふふ、当然よレオン。私は女神に愛された聖女だもの。これくらい造作もないわ」
ルミナは先ほどまでの金切り声が嘘のように、愛らしい笑みを浮かべてレオンに駆け寄った。その途中、彼女は汚いものを見るような目で、地面に這いつくばっている俺を一瞥し、わざとらしく鼻を鳴らした。
「……それにしても、アレン。あんたいつまで寝てるの? 戦闘は終わったのよ。さっさとドロップアイテムを回収してきて」
「ごめん……少し、休ませてくれ。今回は特に負荷が……」
「はあ? 負荷? あんた私の手を握ってただけじゃない。魔法を撃ったのは私。魔力を消費したのも私。あんたはただの付属品。何が疲れることがあるのよ」
ルミナの言葉には、一片の慈悲も理解もなかった。彼女は本気でそう思っているのだ。俺が何をしているか、彼女自身の魔力がどうやって制御されているか、彼女は何も知らない。いや、知ろうともしない。彼女にとって、魔法がすぐに発動するのは「自分の才能が凄すぎるから」であり、俺は単なる「お守り」程度の認識なのだ。
俺はふらつく足で立ち上がり、ヒュドラが消滅した後に残された魔石を拾い集めた。握りしめた魔石はまだ熱を持っていて、俺の冷え切った指先を微かに温めた。
(……これでSランク昇格試験も合格間違いなしだな)
そう自分に言い聞かせ、俺はレオンたちのもとへ戻った。これで少しは俺の待遇も改善されるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。
しかし、待っていたのは称賛でも労いの言葉でもなかった。
「アレン。単刀直入に言おう」
レオンは俺から魔石を受け取ると、冷ややかな瞳で俺を見下ろした。その隣では、ルミナが腕を組み、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。嫌な予感が背筋を駆け上がった。
「お前を、このパーティから追放する」
思考が凍り付く。
追放。その二文字が意味するところを理解するのに、数秒の時間を要した。
「……え? レオン、いま何て」
「聞こえなかったか? お前はクビだと言ったんだ。今日限りで『勇者の剣』から出ていけ」
冗談を言っている雰囲気ではない。レオンの目は本気だった。俺は混乱する頭を必死に回転させる。
「ま、待ってくれ。どうして急に……俺に何か不手際があったか? 回復のタイミングも、補助魔法の展開も、ミスはなかったはずだ」
「不手際? ああ、戦闘においてはな。だがなアレン、お前は我々のパーティの格に見合わないんだよ」
レオンは溜息交じりに言った。
「お前には攻撃魔法の才能がない。魔力量もゴミ屑レベル。できることといえば、ルミナの手を握ってブツブツと念じるだけ。正直、見栄えが悪いんだよ。最強の勇者パーティに、ただ突っ立っているだけの無能力者がいるなんてな」
「無能力者……? 待ってくれ、俺がいなければルミナの魔法は……」
「あーもう! うるさいわね!」
突然、ルミナがヒステリックに叫んだ。彼女は眉間に深い皺を寄せ、あからさまな嫌悪感を俺に向けて指差した。
「あんた、勘違いしてない? 私の魔法が速いのは私の才能なの! あんたがいてもいなくても変わらないのよ! それにね、はっきり言って気持ち悪いのよ!」
ルミナは自分の右手を、まるで汚物に触れたかのように服でごしごしと拭った。
「戦闘中、ずっと私の手をベタベタと触って……手汗とか本当にあり得ないし。生理的に無理なのよ。レオンにお願いして我慢してたけど、もう限界! これからはSランクパーティになるんだから、あんたみたいな陰気な男と手なんて繋いでられないわ!」
「気持ち悪い、って……」
俺は言葉を失った。魔法の発動を安定させるため、魔力回路の接点を増やすために手を握っていた。それも、可能な限り彼女に負担がかからないよう、指先の神経を研ぎ澄ませて。
それを、「気持ち悪い」の一言で切り捨てられるとは。
「それにだ、アレン」
レオンが一歩前に出る。威圧的な態度で俺を睨みつけた。
「Sランクになれば報酬も跳ね上がる。だが、お前のような役立たずに等分に分配するのは、他のメンバーに対する侮辱だと思わないか? 剣聖のガイルも、魔導士のミリアも、お前の寄生にはうんざりしていたんだ」
後ろに控えていた他のメンバーたちも、気まずそうに、しかし同意するように視線を逸らした。彼らもまた、俺の「見えない仕事」を理解していなかったのだ。いや、理解しようともしなかった。派手な魔法や剣技の影で、誰がその場の魔力フィールドを安定させているかなど、凡才には見えないのかもしれない。
俺の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
それは、幼い頃からルミナに尽くしてきた情か、あるいはパーティへの忠誠心か。
今まで俺を支えていた「いつか分かってくれるはず」という希望が、粉々に砕け散った音だった。
「……本気で言ってるのか?」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷えていた。
「ルミナの『神聖殲滅光』は、本来なら儀式魔法だ。詠唱に十分、触媒の設置に五分、クールタイムに三十分はかかる。それを俺が『魔力導管』として肩代わりしているから、十秒で撃てているんだぞ?」
「はっ、まだそんな妄言を吐くのか」
レオンは鼻で笑った。
「十分? 馬鹿を言え。ルミナは天才だぞ? お前がいようがいまいが、彼女なら十秒……いや、もっと速く撃てるに決まっているだろう。お前はただ、自分の居場所を守るために嘘をついて、彼女の才能にタダ乗りしていただけだ」
「そうよ! まったく、恩着せがましい男って最低ね。あんたみたいな詐欺師、このパーティには必要ないわ!」
ルミナが蔑むような視線を投げかけてくる。
ああ、駄目だ。通じない。
言葉が通じない相手というのは、魔物よりも恐ろしい。彼らは自分たちの都合のいい「真実」の中に生きていて、そこには俺の居場所も、俺の実績も存在しないのだ。
俺は深く息を吐き出し、熱くなりかけた頭を冷やした。怒りよりも先に、呆れと虚無感が押し寄せてくる。
ここまで言われて、縋り付く義理はない。
「……分かった。抜けるよ」
「ほう、やっと理解したか」
「ただし、忠告だけはしておいてやる。俺がいなくなったら、ルミナの大魔法は使い物にならなくなる。次の階層攻略はやめておけ。全滅するぞ」
俺は最後の情けでそう告げた。だが、返ってきたのは爆笑だった。
「ギャハハハ! 聞いたかルミナ、全滅だとよ!」
「傑作ね! 自分の価値を高く見積もりすぎじゃない? 心配しなくても、あんたがいなくなってせいせいするわ。むしろ集中力が増して、もっと速く撃てるようになるかもしれないわね!」
レオンとルミナだけでなく、他のメンバーたちもクスクスと笑っている。俺の警告は、負け犬の遠吠えとして処理されたようだ。
「……そうか。なら、もう何も言うことはない」
俺は背を向けた。これ以上ここにいても、惨めになるだけだ。
「おい、待ちたまえ」
レオンの声に足を止める。
「その装備、置いていってもらおうか。それはパーティの資金で買ったものだろう? 追放される人間に持ち逃げされては困る」
「……これは俺のサイズに合わせて特注したローブだぞ。お前らが持っていても意味がないだろ」
「売れば金になる。それに、お前のような無能力者に上等な装備は豚に真珠だ」
徹底していた。彼らは俺から尊厳だけでなく、生存に必要な道具さえも奪おうというのか。
俺は無言で愛用のローブを脱ぎ、魔法の増幅機能がついた手袋を外し、腰の短剣を外して地面に置いた。今の俺は、薄汚れたシャツとズボンだけの無防備な姿だ。
「これで満足か?」
「ああ、満足だ。あ、そうだ。これを持っていけ」
レオンが足元にチャリ、と小銭を投げた。銅貨が数枚、土埃にまみれる。
「今日までの手切れ金だ。街までの馬車代くらいにはなるだろう。感謝して受け取れよ」
俺は地面に落ちた銅貨を見下ろした。
拾うつもりはなかった。だが、ここで意地を張って死ぬのも馬鹿らしい。俺はゆっくりと屈みこみ、銅貨を拾い上げた。屈辱で指が震えるかと思ったが、不思議と心は凪いでいた。
ただただ、目の前の連中が「他人」になった感覚。
「……世話になったな」
俺は銅貨をポケットにねじ込み、一度も振り返ることなく歩き出した。
背後からはまだ、彼らの笑い声が聞こえてくる。
「やっと貧乏神がいなくなったな」「これでお祝いができるわ」「今日は高いワインを開けようぜ」
俺は迷宮の出口へ向かう薄暗い通路を一人で進んだ。
魔力枯渇による頭痛は続いている。装備もなく、武器もない。このまま魔物に遭遇すれば即死もあり得る状況だ。
だが、不思議と足取りは軽かった。
十秒に一度、ルミナの脈拍に合わせて魔力を調整し続ける必要もない。
レオンの機嫌を伺いながら、回復魔法のタイミングを計る必要もない。
「気持ち悪い」と罵られながら、必死に手を握り続ける必要もない。
(ああ……そうだ。俺はずっと、無理をしていたんだ)
そのことに気づいた瞬間、肩の荷が下りたような気がした。
俺の『魔力導管』の能力は、他者に尽くすためのものだと信じていた。だが、尽くす相手を間違えれば、それはただの搾取でしかない。
「十分、か……」
俺は独りごちた。
あいつらは知らない。俺がどれほどの密度で魔力を圧縮していたか。
ルミナは次に魔法を使う時、思い知ることになるだろう。
詠唱が十秒経っても、二十秒経っても、一分経っても終わらない恐怖を。
魔物が迫りくる中、ただ棒立ちで祈りの言葉を紡ぎ続けなければならない絶望を。
「精々頑張ってくれよ。俺はもう、知ったことじゃない」
暗い通路の先、地上へと続く光が見えてきた。
その光は、俺にとっての新しい人生の始まりを告げているようだった。
迷宮を出ると、外は既に夕暮れ時だった。
茜色に染まる空を見上げながら、俺は大きく息を吸い込んだ。空気の味が違う。自由の味だ。
さて、これからどうするか。
金はない。装備もない。あるのは、酷使され続けて異常に発達した『魔力導管』としての回路と、魔力制御の技術だけ。
「……とりあえず、森の方へ行くか」
街へ戻れば、レオンたちの根回しで宿にも泊まれない可能性がある。それに、今の俺には静けさが必要だった。
迷宮から少し離れた場所にある『灰の森』。そこは強力な魔物が出ると噂され、人も寄り付かない場所だが、魔力の流れを隠すには好都合だ。野宿にはなるが、あいつらの嘲笑を聞くよりはずっとマシだ。
俺は街道を外れ、鬱蒼と茂る森へと足を踏み入れた。
まさかそこで、運命を変える出会いが待っているとは知らずに。
世界を滅ぼしかけたと言われる災厄、『灰の魔女』。彼女との出会いが、俺を、そして世界を大きく変えることになる。
だがそれは、もう少し先の話。
今はただ、泥のように眠りたかった。




