第27話 数字の上がり方
「……今日は、潜らないから」
制服のシャツに腕を通しかけたところで、左腕が肩の高さで止まった。そこから上へは、どうやっても上がらない。
処刑人の警棒に打たれてから2日たつのに、服の下の打ち身はまだ熱を持っている。
今日は水曜で、配信する日だ。
右手首の包帯なら袖を引っ張れば隠れるけれど、上がらない腕は隠しようがない。
窓枠にもたれたピエロに、肩までしか上がらない腕を見せた。
来る、と身構える。配信する日を1つ減らせば、いつも2つ足せと言われてきた。
(その腕で、客人の前に出るな)
(傷んだ体を見せるのは、芸ではない)
見ている人の前に、傷んだ体で出るな。言葉はそれで終わりで、ねだる声も値切る声もあとに続かない。
朝の柔軟にだけは感心してきたピエロらしい言い分だ。
ゆうべ僕がスキルの一覧の鎌術をにらんでいた間も、ピエロは黙って見ていただけだった。
片腕でボタンを留める。枕元のスマートフォンは伏せたまま、一度も鳴っていない。
今日は潜らないのだから、知らせることもない。潜る日の知らせはもういらないと、きのうの帰りぎわに店の戸の前で、結衣ねえに言われている。
表に返しても、通知は1つもない。
送る先のない画面を、もう一度伏せた。
(少年)
振り向くと、ピエロがこちらに顔を向けていた。
(数は、分かった)
(では、どうすれば増える)
ピエロが数の仕組みを自分から聞いてきたのは、これが初めてだ。
「えっと……モンスターを、倒せば、増えるよ」
(それは知っている。どう倒せば、早く増える)
「それは……えっと」
続きが出てこない。
半年潜っても、自分の数字の増やし方を、倒せば増える、としか言えない。
「きみ、知らないの? 何でも知ってるみたいな顔して、いつも偉そうなのに」
(何でもは知らないさ。知っているのは、聞いたことだけだ)
「……それ、誰の言い方?」
(少年が寝る前に見ていた、小さな画面の中の娘だ)
寝る前に見ていたアニメの台詞だ。人の夜ふかしを勝手に覚えないでほしい。
知っていそうな大人で思いつくのは、店長1人だけだ。放課後に聞きに行こう。
◇
水曜は結衣ねえが部の練習に出る日で、放課後の店にはいない。
戸を開けると、帳場の奥のスマートフォンから丁寧な声が聞こえた。
「ご指名の主演さんが――」
声はそこで切れた。店長が太い指で画面を押さえている。
あの夜、僕をそう呼んで配信の向こうへ紹介した、処刑人の声だった。僕に聞かせまいとして、店長は止めたのだ。
「おっと。……おつかれさん、律くん」
「処刑人のアカウント、止まったってさ。昨日の昼に」
天気の話をするみたいな言い方だった。
でも、止まったのはアカウントだけで、処刑人は捕まっていない。
止まった、の一言で落ち着けるほど、あの声は遠くなかった。
「あの、店長。……レベルって、どうしたら、早く上がりますか」
聞いてきたのはピエロでも、答えが欲しいのは僕のほうだった。
店長は、ほう、とスマートフォンを伏せて、杖をついて棚へ行った。戻ってきた手には、売り物の折りたたみのカップと、いちばん大きな水筒がある。
「上層じゃ、レベルはなかなか上がらないよ」
「上層のモンスター1匹が、このカップ1杯。律くんが次のレベルに上がるのに要る経験値は、もうこの水筒くらいある。上がるたびに、要る量のほうが大きくなるってわけ」
並べると、カップは水筒のふたほどしかない。
「強い相手ほど、1杯が大きい。8層から10層を回るようになると、カップがマグカップくらいにはなる」
(少年は半年、その小さなカップで水筒を満たそうとしていたわけか)
言い返せない。半年、上層ばかり回ってきたのは僕だ。
道具の点検は毎日欠かさないのに、自分の数字の上がり方は一度も調べたことがなかった。
(強い相手は、どこにいる。聞け、少年)
「……上層で、いちばん強いのって」
「10層の、いちばん奥だね」
店長は帳面の白いページに、鉛筆で横長の丸を1つ描いた。
「奥が行き止まりの、広い部屋でね。ボス部屋って呼ばれてて、中間ボスが1匹だけいるってわけ」
「部屋から、出てこないんですか」
「出ない。部屋の外へは、絶対にね。人が部屋の中ほどまで踏み込むまで、伏せたまま起きもしない」
店長が、丸の真ん中に横線を1本引いた。
「挑めるのは、一緒に潜る仲間の1組ずつ。ほかの組は、入口の外で待つのが協会の決まりだ」
1人きりの僕でも、1組に数えてもらえるんだろうか。
「中身は中層の種で、ランクはD。そのぶん経験値は、ふつうのやつの数倍ある。カップどころか、バケツってわけ」
「それに、倒せばランクはDまで上がる。Fからでも、一度にね。講習で聞いたろう?」
聞いた。聞いて、自分には関係のない話だと思った。
「おじさんも、昔、倒したよ」
店長はそれだけ言って、鉛筆の先で丸を軽くたたいた。
杖を膝に立てかけた今の店長からは、うまく想像がつかない。それでも、この店の棚に並ぶ刃物はみんな、その手で確かめてから置いたものだ。
(広間に1匹きりで、客が入ってくるのを待っている主か)
(いい。あれは、舞台だ)
丸の入口に自分が立っているのが、一瞬見えた気がした。
見えた気がしただけなのに、喉が渇く。
「でも、律くん」
店長の声が少し低くなった。
「Dになっても、親御さんとの約束は、上層だけかい?」
答えられなかった。鉛筆の丸から、目を上げられない。
店長はそれ以上は聞かなかった。
「ついでに、もう1つ。Lv20まで上がるとね、今の職業が進化する。律くんなら、斥候がね」
「それまでどう戦ってきたかで、進化の候補が出る。選べば、その職業に変わるってわけ」
「おじさんが見た中だと、跳んだり転がったりして戦ってきた人に、軽業師が出てたなあ」
(軽業師)
棚の脇で、ピエロの声が跳ねた。
(軽業師、と言ったな。いい名だ。……実にいい)
ピエロの声がこんなにまっすぐ弾むのは、久しぶりだった。
跳んで、転がる。僕と入れ替わると、ピエロは僕の体でいつもそうして戦っている。
あれも、僕の体の戦い方に数えられるのかもしれない。
背中が少しだけ寒くなった。
「それとね、強い相手とやると、スキルも早く育つよ」
「……《挑発》は、いつも、僕の武器なんですけど。効き目が切れるまで、相手は僕だけを追うし」
「強いやつは、効き目が切れる前に、《挑発》を振り切ることがある。切れる前に、早めにもう一度かけてごらん。もう一度かければ、時間は初めから数え直しになるから」
《挑発》は効き目が切れてからもう一度使うものだと、ずっと思っていた。
半年のあいだ相手が弱かったから、それで間に合っていただけだ。
店長の話はそこで途切れた。
胸ポケットからメモ帳を出して、帳場のランプの下で新しいページを開く。
いちばん上に、処刑人のLvを大きく書いた。41。処刑人の配信の画面に、いつも出ている数字だ。
書いてみると、どこから歩きだせばいいのかも分からないくらい、遠い数だった。
帳場の上では、店長の描いた横長の丸が、まだランプの光を受けている。
手を伸ばせば、届く所にあった。
41の下に、小さく『10層 中間ボス』と書き足す。
一度、息を吸った。
「店長」
「進化の候補を出して、10層の中間ボスを倒します」
店長が鉛筆を止めた。
「……ほう」
「律くんが、自分から先の層の話をするのは、初めてだなあ」
目尻の笑いじわがぐっと深くなる。
けれど次の声は、売り物の刃を確かめるときの低さだった。
「それなら、協会の資料を読んでごらん。命の話だからね」
スマートフォンで協会の資料を開き、立川の10層のページを出す。
写真の中では、大人の背ほどもある灰色の大狼が、暗がりに伏せていた。
伏せているだけなのに、画面ごしでも大きい。
メモ帳の『10層 中間ボス』の下に、『ダイアウルフ 急所=首の後ろの付け根 奥に伏せる 近づくと起きる』と写した。
資料に載っているのは、この種のふつうの話だ。あの部屋の1匹がどれだけ大きいかも、どこまで近づけば起きるかも、行かないと分からない。
肩越しに、ピエロがメモ帳をのぞきこんでいる。
(灰色の、大きな犬か。毛並みは悪くない)
(よく決めた、少年。いい相手だ)
◇
店を閉める時間になって、メモ帳を胸ポケットにしまった。
(少年)
振り向くと、棚の脇のピエロは笑っていなかった。
(その広間の舞台には、少年が立て)
(一幕は、私がやる)
広間までの用意は僕、入れ替わってからの戦いはピエロ、ということだ。
包帯を1つ足すたびに、臆病者の買い物だと笑ってきたくせに。
言葉が出ない。
しまったばかりのメモ帳を、もう一度開いた。
41の下に、僕の字が並んでいる。




