第19話 死角
(少年。《三日月斬り》さえあれば、あの大きいのも、今度は鎌で――)
《鎌術》を取って鎌の大技を覚えろと、潜ってからずっとねだっていたピエロの声が、途中で切れた。
火曜の放課後、立川ダンジョンの6層にいる。今日は配信しないでただ潜る日で、ドローンはポーチにしまったまま、鎌は部屋の長物用のケースに置いてきた。
壁にもたれたピエロが、僕の背中の向こうへ目を動かす。振り向くと、大人の冒険者が2人、広い通路を話しながら来るところだった。
首に何も巻いていない男が前を、剣を背に負った男が後ろを歩いている。2週間前、この層で僕に声をかけた2人だ。
声をかけられたあと、ピエロは前を歩く男の首と後ろの男の剣を見比べて、あの首なら少年の短剣でも斬れる、と値踏みした。
ピエロが僕の体を動かせるのは、僕が気を失っている間だけだ。
僕が気を失えば、この体は、あの2人の声のする所まで歩いていける。
ピエロはそれきり何も言わない。黙ったのは、たぶん、ねだるより欲しいものが来たからだ。
足音がすぐ後ろまで来たので、僕は壁際に寄って頭を下げた。
「おう、また一人か。気をつけろよ」
「あ、はい……すみません」
2週間たっても、僕の返事は一字も変わっていない。
2人は、鎌もドローンもない猫背の僕を、また新人として追い越していった。今日はそのおかげで助かっている。
「で、処刑人の新しいの、見たか」
「見た。また人を襲うところを配信してたな。襲われたやつ、その日は自分の配信してなかったんだってな」
「前の回のやつも、そうだったらしいぞ。切り抜きのコメントで言われてた」
「伸びてるやつの、配信してない日を狙うってことか」
「なら俺らは平気だな。配信もしねえし、伸びてもいねえ」
2人分の笑い声が通路の壁に跳ね返ってくる。
登録者が伸びてもいない、というところだけが、僕には当てはまらない。
今日の僕も、配信していない。
約束だから、潜る前に結衣ねえへ、今日潜る、6層、と送ってある。
怖いと思うより先に、膝の裏が冷たくなった。
2人は、広い通路の脇に開いた狭い通路の入口を過ぎて、その数歩先で足を止めた。2週間前、コボルトが出てきた入口だ。
剣を背に負った男がスマートフォンを出し、2人で画面をのぞきこむ。機械で平らにした声が、ここまで小さく漏れてきた。さっき話していた切り抜きだろう。
あの背中のすぐ後ろを歩くのは、今日だけはごめんだ。2人が先へ行くまで待とうと、僕は狭い通路の入口の数歩手前で立ち止まり、ポーチを開けて点検のふりをした。
広い通路に、僕、狭い通路の入口、2人の背中が、一列に並んでいる。
撒き菱の袋を指でなぞっている途中で、《気配察知》が肌をざわつかせた。
すぐ前の壁の向こう、狭い通路の中に、子どもより少し大きい気配が1つある。気配だけでは、人かモンスターかは分からない。
気配は入口のほうへ速く近づいてくる。
かり、と爪が石をかく音がした。
考えるより先に、僕は体で思い出していた。初めての日に僕を壁へ叩きつけたやつの音で、2週間前に僕が自分で勝ったやつの音だ。
コボルトだ。
入口の数歩先で、2人は背中を向けて笑っている。
呼ぶのはだめだ。呼べば、2人のほうから、コボルトの出てくる入口へ戻ってきてしまう。
手袋をはめた右手で短剣を抜いたときには、僕はもう入口へ踏み出していた。
《気配察知》が先に知らせてくれた分だけ、間に合う。
入口に立ったとき、犬の顔はもう目の前にあった。
撒き菱を撒く間はない。2週間前は撒いて待てたのに。
「こっち。……こっち、見て」
声と一緒に、僕のスキルの《挑発》を使う。モンスターの注意を僕に集めるスキルだ。黄ばんだ牙が僕だけに向いた。
体をひねって、飛びこんできた爪をよける。毎晩のストレッチが、ここで役に立った。
狭い通路の壁際で、ピエロが黙って僕を見ている。体を貸せ、とも言わない。
下がれば、まだ息がつける。
下がれば、こいつは入口から、あの2つの背中のほうへ出ていく。
下がらない。
見えなかった体当たりを胸に受けて、背中から壁に叩きつけられる。
後ろ頭が石を打った。
初めての日と、同じ打ち方だ。
音が遠くなっていく。最後まで聞こえていたのは、通路の先の、2人の笑い声だった。
今日だけは気を失っちゃいけないのに。
目が開かない。
◇
その間、剣を背に負った男は、相棒と肩を並べて、自分のスマートフォンをのぞきこんでいた。
処刑人の切り抜きだ。気分のいい動画じゃないのに、男は目が離せない。
後ろで、硬い物が石を打つ音がした。
男は肩越しに振り向いた。音がしたのは、さっき過ぎた狭い通路の入口のあたりだ。犬に似た鳴き声が上がって、途中でぷつりと切れる。
コボルトだろう。この層なら珍しくもない。
あの入口の手前には、追い越したばかりの新人がいたはずだ。
少しして、狭い通路の入口から、その新人が出てきた。
抜いたままの短剣を右手に提げている。片づけたらしい。気をつけろと言うほどの相手でもなかったか。
追い越したときは、頭を下げて丸まっていた背中だ。それが今はまっすぐになっている。
石の床を歩いてくるのに、足音がしない。
妙だなとは思ったものの、顔までは見ていない。
スピーカーから襲われている配信者の悲鳴が上がって、男は画面へ目を戻した。
「終わった。もう一回、頭から」
相棒が画面の端をつつく。平らな声がまた最初から始まった。
「皆さん、お待たせしました。当チャンネルへ、ようこそ」
「何回見ても、この挨拶。テレビかよ」
「丁寧なのが逆に怖えんだって」
2人で笑っていると、傾いた画面の黒い縁に、すぐ後ろまで来た人影が映りこんだ。
人影は相棒の真後ろで止まる。
大人2人で、通路の真ん中をふさいでいる。新人は抜けるのを待っているんだろう。あの調子なら、どいてくれとも言えないはずだ。
もうすぐ、今日襲われる配信者の紹介だ。どくのはそのあとでいい。
◇
耳のすぐそばで笑い声がして、僕は目を開けた。柄に食いこむ指の感触が、僕のものに戻ってくる。
後ろへなでつけてあった前髪が目の上に落ちてくる。
すぐ前に、スマートフォンをのぞきこむ大人の背中が2つ。
肩と肩の間の小さな画面に、赤いフルフェイスのヘルメットが映っている。
僕の短剣が、首に何も巻いていない男の首筋まで、指一本の所で止まっている。
刃は横に寝かせてあった。
柄を握っているのは、白い折り返しの付いた手袋をはめた、僕の右手だ。
男の襟足の短い髪が、刃の腹に触れそうで触れない。
「本日の出演者さんは、登録者さん3万人。いま伸びていらっしゃる、こちらの方です」
「ほら出た、伸びていらっしゃる」
男が笑う。笑うたびに首が揺れる。
刃は、揺れない。
画面の中で、狙われた配信者が壁から背中を離して走りだした。
逃げる足音は、小さなスピーカーの中でだけ鳴っている。
赤いヘルメットは走らない。逃げる背中の後ろを、足音も立てずに歩いていく。
「うわ、始まった」
「ここから長えんだよな、こいつ」
「襲われるほう、ぜんぜん後ろ見ねえのな」
「見たら終わりだろ。そういう回だよ」
刃を寝かせたこの手首の角度を、僕の体は覚えていた。土曜の配信で、ピエロがオークの喉を払う直前の角度だ。
僕は短剣を下ろした。
まっすぐのまま固まっていた背中を、やっと丸めた。
息を止めたまま、一歩も動けない。
膝の横で、下ろした切っ先が細かく震えだした。震えているのは僕の手だ。
「次の切り抜き、どれ」
「歩きながら見ようぜ。奥、行くんだろ」
剣を背に負った男が、画面に笑いかけながら歩きだす。首に何も巻いていない男も、画面をのぞいたまま並んでいく。
振り向かない。
「出演者さん、かわいそうにな」
「言いながら、顔が笑ってんぞ。ほら、前見て歩けよ」
前を見ろと言われた男は、それでも画面から目を上げなかった。
皆さん、と呼びかける平らな声が、2人の肩の間からもう一度だけ聞こえる。
司会の声と笑い声が一緒に遠ざかっていく。
誰も気づいていない。
この体は今日、本当に、あの2人の真後ろまで歩いていった。
2人の声が聞こえなくなっても、僕はしばらく、石の床から足を上げられなかった。
ピエロが、いつの間にか僕の頭のすぐ横に顔を寄せている。
(少年、頭だ。……頭を、打ったろう)
後ろ頭に手をやると、髪の下がぬれていた。指先に、こぶの硬さが当たる。
ピエロは僕の指先と顔を一度だけ見比べてから、いつもの斜めの立ち方に戻った。うつむいたままの僕の顎は、胸につくほど引けている。
(顎。上げろ)
頭の傷に慌てた声が、もう毎日の小言の声に戻っている。
僕は顎を上げられなかった。
傷薬を塗って、たたんだ包帯を髪の下に押し当てる。歩きだすと、腰と左脚が軽くきしんだ。
その痛みがどこから来たのかは、考えたくない。
出口へ戻る途中、狭い通路の入口の床に、魔石が1つ落ちていた。親指の先ほどの、くすんだ石だ。
僕にはコボルトを倒した覚えがない。倒したのは、気を失った僕の体を動かしていたピエロだ。
それなのに僕は、点検のときと同じ手つきで石を拾っていた。
目を覚まさなかったら、きみはどうしてたの。
聞こうとして、口を開けた。通路の先にはまだ2人がいて、声が届くかもしれない。それに、答えを聞くのが怖い。
その一言は最後まで声にならなかった。
ピエロは2週間前と同じ目で、2人の消えた通路の先をまだ見ていた。




