光一郎大学一年生4
ローソファに体を預ける和沙の脚の間に納まって、テレビ画面を見る。流れているのは海外で評判が良かった映画だ。光一郎の希望で吹き替え版でもなく、字幕もない。英語の聞き取り練習にちょうどいいなという思いが半分くらい。なにせ難解な言い回しや特有の表現なんかは光一郎が背もたれにしている男から贅沢にもポイントとアドバイスが降ってくるのだ。ハーフとはいえ母国語が英語である本場イギリス育ちの手ほどきを受けられるとはなんと贅沢なことだろうか。
もう半分は、解説の時に聴くことができる和沙の英語が心地よいから、とでも言っておこう。日本語を話す時よりも低い声は、慣れない言語もあってか光一郎の耳にはひどく新鮮で楽しい。
和沙からのアプローチに応えてからのお決まりのおうちデートの内容である。住人の体格を考慮すると狭いであろう1Kのアパート。本人曰く、寝に帰るところだからこんなものだと。寝床がベッドでないのは意外ではあったが、安いものははみ出ると聞いて折り畳みができるすのこに敷かれた布団に納得しかなかった。
『────、────……』
「────、────……」
ぽつぽつと振ってくる日本語。声の主をそっと仰ぎ見る。ヘーゼルの瞳はまっすぐテレビに注がれたままだ。光一郎は腹に置かれたまま脱力している大きな手を握ってやる。ぱっと和沙がこちらへ向いたかと思えば、その顔がふにゃりと蕩けた。
「どうしたの?」
「いえ、」
「ふふ、かわいー……」
するりと頬を撫でられて思わず肩を竦める。仕返しにと光一郎も和沙の頬にぺたりと手をくっつけてやれば、わかりやすく瞳が蕩けて熱がちらつく。頬にあてた手のひらの上から、一回り大きい手が添えられる。もっと、と言われているような気がしたので遠慮なくもちもちと揉んでやった。和沙の肌は手入れがされていて触っていて気持ちがいい。
「抱きしめていい?」
「どうぞ」
遠慮がちな要求に間を置かず応えてやれば、太い両の腕が腹に回ってごく弱い力で締め付ける。わずかな力で簡単に引き剥がせてしまうだろう抱擁がどうにももどかしかった。
たぶん。たぶんこの人は、自分の力の強さと恐さをよくわかっている。確かめたこともなければ確かめようとも思わない。憶測の域を出ない確信に似た何かだった。
体が大きいことはそれだけで脅威になりうる。積めるエンジンが大きければそれだけ出力できるパワーも大きくなるのは当然で。鍛えられた和沙の体ならなおのこと。過言ではなく和沙は人間を分類する場合「強い」部類に振り分けられるだろう。そして、強いことは同時に恐怖に直結することもある。まともに鍛えていない光一郎とて、大きいと言うその一点で他者を怖がらせてしまったり、驚かせてしまった記憶があるのだ。
故に、和沙がそうでないわけがないのだ。あえて断定してしまうが、そうでないはずがない。大きくて、鍛えあげられていて、日本人にとってはなじみの薄い欧州の血が色濃く出た顔立ち。言い方は悪いが、恐れられる要素としては十分にそろっている。
にもかかわらず。光一郎は現在まで、和沙に対し恐怖の感情を抱いたことは一度足りとてなかった。ついでに彼のことを話題に上げた噂話からも、その類の内容は聞いたことがない。それが何よりも恐ろしかった。つまるところ、過去和沙とお付き合いをした女性もまた、光一郎と同じように和沙を恐怖の対象と認識しなかったのだ。
むに、と頭頂部に柔い感触。和沙の頬が押し付けられたのだろう。立てた膝で間に収まる光一郎を挟み、腹に腕を回し、頬を頭に寄せる。四肢どころか頭まで使って行われる肉の檻には拘束力はひとかけらだってない。
身じろいで脱出したい意を示せば、この檻は開かれる。ほんの少し力を込めて胸を突けば、意を汲んでころりと倒される。ハグも、キスだって光一郎の望むがまま、甘くて柔らかな好意が注がれ続けるのだ。にこにこと柔らかな笑みを浮かべながら、心底幸せだと蕩けた顔で、整った顔立ちの大きな男が自分に尽くし、侍る。どっぷりと満たされる優越感に、ぞっとした。「この人には何をしてもいい」と誤認してしまいそうになる。成人してからね、と言われたセックスだって。光一郎がその年齢を超えてさえしまえば、簡単に押し倒されてヘーゼルの瞳を蕩けさせるのだろう。抱かせろと言えばこの長い脚を惜しげもなく開いて、抱けと言えば繊細なガラス細工を扱うように。和沙はすべてを光一郎に明け渡してしまうのだろう。それが当然だと言わんばかりの態度で、一片の躊躇いもなく。
優仁が困った顔で笑っていた理由がわかってしまったし、それを先に知っていてよかったと心の底から思った。そうでなかったら、愛され甘やかされるのに慣れてそれが当たり前になってしまっていただろう。そうなっていたら、自分は一体この人に何を強いていたのだろう。
これがこの人の愛し方なのだろうか。ぽつぽつと降ってくる英語と日本語をぼんやりと聞き流しながらそんなことを思った。
抱きしめられた腕の中、光一郎はぐるりと体を反転させて和沙と向かい合わせになる。突然のことにきょとりを目を瞬かせている和沙の頬を両手で揉んでやれば、わかりやすく破願した。
「んふ、ふふ、なあに?」
「んー……」
目尻を緩ませて、嬉しそうに笑う。この男が頭部に触れられるのをいっとう好んでいることに気が付いたのは、付き合い始めてすぐのことだ。和沙の頭部に触れるには本人に屈んでもらう必要がある。身長によっては手を伸ばせば届かないこともないだろうが、理由もなしに成人済みの男の頭を触るなんて機会は早々にない。
光一郎としては力の入っていないふかふかの胸筋が大変お気に入りだが、和沙としては頭を撫でられたり、頬に触れてもらう方が好きらしい。控えめに光一郎の手に顔を寄せてもっととねだっているのは無意識なのだろう。
よく手入れがされていてすべすべの肌を捏ね回しながら、そういえばこの人の好きなものって何だっけと光一郎は考えた。一緒にいるとき、食べるものはいつも光一郎の好みの物だったし、したいことも行きたいところも全て「君の好きなことがいいな」と柔らかな低い声が響くばかりだ。
目を閉じて光一郎の手を堪能する和沙。光一郎は口を開いた。
「そういえばなんですけど、」
「ん? うん?」
頬に触れていた手をぱ、と離した光一郎がそのまま先ほどまで考えていたことを音にする。
「あなたの好きなことってなんですか?」
何となく改めて言葉にするのが気恥ずかしくてそっと視線を下げる。ひく、と和沙の喉仏が震えたような気がした。
「いつも俺の好きなことばかりでしょう。だから」
────今度はあなたの好きなことを。
そう続けようとして視線を上げて、言葉は続かなかった。
「っえぁ、」
「……カズ?」
何故ならつい数分前までとろとろと甘やかに笑っていた和沙の表情は強張って、視線が動揺で揺れていたのだから。




