光一郎大学一年生3
どっぷり。
そんな言葉が正しくて、そしてまさか自分に適用される日が来るなんて夢にも思っていなかったのだ。
優仁は目の前で目元を手で覆い隠して溜息を吐き出す光一郎を肴にソフトドリンクを流し込む。ピークを過ぎて客の減ったファミレスの角のボックス席。未成年故のソフトドリンクバーと、お財布と男子大学生の胃袋に優しい山盛りのポテト。互いに汚れてもいい服装。そのところどころには、擦れたような汚れや叩き落としきれなかった砂埃が残っていた。優仁の紹介で知ったバイト帰りである。
その金額に味を占めたのだと光一郎は主張しているが、目的が金だけではないことはあの日あの場に居た優仁にとっては明白であったし、光一郎本人もそれで押し切れるとは思っていない。つまるところ、光一郎の目的は金と、あの日熱烈にアプローチをかましてきた和沙である。
「で? 随分熱烈に口説かれてたわけだけどその後どーなん? ……まさかとは思うけどもう喰われたってことはないよな?」
自分の出した仮説にはっと顔を強張らせた優仁に、光一郎は力なく笑ってひらりと手を振って見せた。
「や、それはない。マジで。噂で聞くよりずっと紳士的だから困ってる」
「……だろうね。あん人どっちかってーと“陰”の人だよ」
「そこまでか……?」
「どっちかって言えばの話よ。中心でわーっとするより一歩引いてにこにこしてるだろ」
「まあ、そう……か?」
光一郎は首を傾げて記憶を探る。そう言われると確かに、記憶の中の和沙は人の真ん中でワイワイ盛り上げるよりも輪の一部としてのバランサーに努めていた。気が、しなくもない。自信がないのはおそらく先輩と思しき快活な人物が和沙を楽し気に構い倒していたからだ。そのせいで人の輪の中心に引っ張られていたのだろう。
「そそ、噂もどんどん改変されるもんだしさ」
噂。
あの日、光一郎は自分よりも大きな男に口説かれて。一体自分の身に何が起こったのかと呆然としたまま家に帰り、ベッドに入ったところでようやく気が付いた。
名乗られた「本城和沙」という音に聞き覚えがあったのは、大学の中でちらちらと耳に入ってきたからだ。
────曰く、博愛主義者だと。
────曰く、彼と交際できるのは「すごいこと」なのだと。
────曰く、まるで自分が世界で一番価値のあるように感じるのだと。
曰く、曰く、曰く。
噂の内容に多少の差異はあれど。そのどれもが「本城和沙」という男との交際することは己が周りより一段上にいるというステイタスに成りえるという内容で。そんな人物が入学したてのガキに一体何事かと思ったものだ。
面白半分にちょっかいを掛けられたのだという認識は、マメな連絡と控えめながらもはっきりとしたアピールによってとっくにひっくり返されている。
わからない話ではない。
血の半分が欧州由来、日本人離れした薄めの色素と整った顔立ちに大きな身体。控えめに言っても和沙は目立つ。誤解を恐れずに言えば「レアモノ」というやつだ。そんなレアモノを隣に置いている人間が居れば、必然的にその人間も注目されるわけで。
和沙本人がぐいぐいと人波を裂いて進んで行くような性格でないことも拍車をかけている。相手の歩みに合わせ、視線に合わせ、話に合わせ。穏やかに笑いかけられ、言葉でも行動でも大切に扱われてしまえばまるで自分がとてつもなく素晴らしい何者かになったように感じるだろう。
本城和沙との交際は、ある種のトロフィーであるのだろう。
と言うのが冷静な第三者である優仁の分析であり、光一郎自身も理解するところではあるのだが。
「で、実際当事者になってどう? 噂の色男に迫られてる感想は?」
「わかっててもマズイ。マジになる……」
蚊の鳴くような声で搾りだされた声に、優仁はだろうなと笑った。
あの日以降。戦術の通り和沙の熱烈なアプローチは冷めることなく続いていた。メール、電話、時にはバイトで顔を合わせた帰り。ヘーゼルの瞳をとろりと蕩けさせて、白い肌を薄く桃色に色づかせながら光一郎が好きだとそっと指先を掬いあげる姿は、成程落ちるなという方が無理な話である。現に光一郎は絆されかけているのだ。
光一郎の意志を無視してところかまわず押してくるでもない。大学内はちょっと……と伝えたそれを律儀に守り、接触もきちんと事前に声をかけて許可を求めてくる。おかげで大学生の恋愛としては随分と可愛らしいうえに、本来は威圧感を感じてもおかしくないその恵まれすぎた体格に光一郎が恐怖したことはただの一度だってない。きっと過去恋人となった者達も、驚きはすれ和沙の大きな身体を恐れたことはないのだろうなと思う。
ふたりの接触は未だ和沙が光一郎の指先をそっと掬い上げて握る程度でとどまっていた。これもおそらく光一郎が和沙への返答を保留にしているからだろう。現状のふたりの関係は「同じ大学の先輩と後輩」の域を出ない。
しかし、しかしだ。
「時間の問題っぽいなあ」
優仁の言葉に光一郎がぐう、と唸る。自覚はあるのだ。顔がまあ好みであるのもなお悪い。自分が同性もイケる口であるとは知らなかった。容姿の整った、好みの顔をした男が自分を好きだと甘い言葉を注いでくるのだ。揺れるなという方が無茶だ。
光一郎が関係の名前を変えるために頷きひとつ返すだけで、どっぷりと甘い蜜に浸るような愛を囁かれるのは想像に難くない。そうなっていないのは偏に和沙が光一郎のパーソナルスペースへ無理に立ち入るような真似をしていないからに過ぎない。
大学生という生き物はもっと理性の緩いものではなかったのかと光一郎としては首をひねるばかりだ。
ズコ、とストローが空気を吸い込んで音を立てる。未だじわりと耳を赤く染めた光一郎を眺めながら冷めかけたポテトを数本まとめて口へ放り込む。普段は見ることのできないつむじが良く見えた。
「まあ、気ィつけろよ」
「……?」
恋バナにしては随分不穏な言葉に、光一郎は眉を顰めて顔を上げる。優仁はなんとも言い難い表情をしていた。
「気を付けろって……どういう……」
「そのまんまの意味だよ」
「……付き合ったら豹変するタイプとか」
「ないね。そうならとっくにそういう話が出てるだろ」
「まあ、そうか。ならなんだよ」
ますます意味が分からないと光一郎は眉間にしわを寄せた。その様子を見た優仁は困ったようにゆるりと視線を机の上に彷徨わせてから口を開く。
「語弊があるかもだけどダメ人間製造機なんだよね、あの人。甘やかして大事にしすぎて、ダメにしちゃう」
予想外の方向からの言葉に、光一郎は思わずつまんでいたポテトをテーブルの上に落っことした。あまりにも想定していなかったことに、反応を返しきれない。
「そ、れは……」
「みーんな愛されて大事にされることに慣らされて、壊れるか、疲れてカズさん振るか」
光一郎の揺れるのを気が付かないふりをして、優仁は続ける。
「もっと言えばそれがカズさんが原因だとはなかなか気づけない」
「なんで、お前はそれを知ってるんだよ。気づけないんだろ」
否定したいのかもしれない。光一郎は反論の根拠もなくかみついた。それに腹を立てるでもなく、優仁は一等長いポテトを摘まみ上げて小皿のケチャップに沈めた。
「俺はあの人のタイプじゃないし、あの人も俺のタイプじゃあない。互いに恋愛に発展しようがないからこそ、冷静に見られたんじゃないのか」
知らんけど、と最後になんとも無責任な言葉を付け足して優仁は口を閉ざす。何も返す言葉が見つからない光一郎と共に、沈黙が下りる。
「……遊ばれてる、と、思うか?」
「それはない。それだけはない」
少しばかり弱くなってしまった声を、優仁はきっぱりと否定した。
「あの人一途だし、誠実だよ。隠れてなんて器用なこともできないし。仮に遊ぶなら恋人のポジションは作らない」
「……うん、知ってる」
返答が頼りない音になってしまったことに触れられなかったのはありがたかった。
なんの慰めにも解決にもならないかもだけど、と前置きをした優仁が光一郎を見る。
「基本的に来るもの拒まず去る者追わずだけどさあ」
すっかり冷えてしまった、残った短いポテトをかき集めながら話すのは、自信がないからなのか。それとも別の理由があるのかはわからない。
「あの人から追いかけたのは俺の記憶の中ではお前が初めてだよ、光一郎」
「ぇあ……、」
「ふは、真っ赤」
じわ、と。光一郎の顔が誤魔化しようもないほどに熱くなってしまったのが答えのようなものだ。
気が付かないように、溢れ出さないように。知らずのうちに抑えようとしていた何かの蓋が開いてしまったような感覚。今更誰に指摘されずともわかっていた。
絆されかけているなんて中途半端なものじゃない。光一郎は、すっかり和沙に絆されている。
「……傷つかないでね。俺あの人のことも光一郎のことも大事な友達なんだ」
そう言いつつ祝福をしてくれた優仁に、随分と不安がるのだなと光一郎は首を傾げた。




