第58話 零れ落ちる雫
古鬼が冬夜に向けて薙刀を振り下ろそうとした時だった。
「――冬夜さまぁーっ!」
コハクの悲鳴じみた声が聞こえてきたと思った次の瞬間、冬夜の身体は何かの力によって勢いよく押され、そのまま横倒しになる。
床に左肩と腕を思い切り打ちつけたが、それはどうやら古鬼の攻撃のせいではないようだった。
あまりにも突然のことに、まだ横になったままの冬夜が呆けたままで瞳を瞬かせると、
「コハくん!」
志季の掠れた叫び声が体育館に響く。
(……コハク?)
冬夜には今何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。
とにかく状況の確認をしなければと、身体をゆっくり起こそうとする。
(まだ、身体は動かない……?)
冬夜は不安になりながらも、まずは指先から動かしてみることにした。
(あ、ちゃんと動く)
倒れた時のショックか何かだろうか、どうにか動かすことができてほっとする。
そのまま起きようとすると左腕は少々痛んだが、幸い大きな怪我もなく起き上がることができた。
しかし、それからすぐ視界に捉えた光景に、冬夜は志季と同じように大声を上げることしかできなかった。
「コハクっ!」
冬夜の傍、その足元には血にまみれたコハクの姿がある。
うつ伏せになって倒れている人間姿のコハクを見て、冬夜は瞬時に状況を悟った。
きっとコハクは、冬夜の危機に結界を破って飛び出してきたのだろう。あれほど『絶対に結界から出ないように』と言い聞かせていたのに。
そして、冬夜と古鬼のいる方に向かいながら人間姿に変化すると、思い切り冬夜を突き飛ばしたのだ。
結果が今の状況である。
コハクの背中には大きな切り傷が見えた。おそらく古鬼の薙刀でやられたものだろう。
「あ、あ、コハク……っ」
距離にして一メートルほど離れたコハクの元へと、冬夜は血だまりを避けることなく、なりふり構わず這っていく。
今は自分がコハクの血で汚れるだとか、腕の痛みだとか、そんなことはどうでもよかった。
コハクの前までやってくると、それに気づいたのか、コハクは薄く瞼を持ち上げて冬夜を見てから、そっと微笑む。
「……とうや、さま……。ぶじ、で……、よかった、です……」
「コハク、コハク! しっかりして! 今治癒術で治すから……っ!」
笑みと苦しげな表情が入り混じったまま、荒い呼吸を繰り返すコハクの様子に、冬夜は懸命になって名前を呼んだ。
「……ボクは……だいじょうぶ、です……。だから、とうやさま、は……ちからを、すこしでも、おんぞん、して……ください……」
「でも……っ!」
コハクを見下ろす冬夜の瞳から、大粒の雫がいくつも零れ落ちる。落ちた雫はコハクの顔を覆う黒髪を伝い、その頬を静かに濡らしていった。
(コハクを助けなきゃ……! でもコハクは力を温存しろって……っ!)
冬夜にはどうしていいかわからず、次から次へと溢れてくる涙を拭うこともできない。
ただ小さく肩を震わせていると、志季の声が飛んできた。
「冬夜! あれ、持ってねーか!?」
まだ苦しげな声音に、冬夜が思わず顔を上げる。
「あれ……?」
「征一郎さんからもらった薬!」
さっき飲んだだろ、志季はそこまで言ってから、また顔を歪め、咳き込んだ。
「あ、多分まだある……っ」
「じゃあ、それをコハくんに飲ませろ!」
ようやく志季の言葉の意味を理解した冬夜が、慌てて着ているシャツの胸ポケットを探し始める。
手についた血でシャツが汚れるのも構わず必死になって探すと、一つだけポケットの中に残っていた。
「……あった!」
落とさないように気をつけながらパッケージを開けて、出てきた錠剤をコハクの口元に運ぶ。
水がないから少し飲みにくいかもしれないが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「コハク、頑張って飲み込んで」
血にまみれた指で、コハクの口の中に錠剤を押し込んだ。
これを飲み込めれば、少しして治癒効果が現れるだろう。完全にとまではいかないまでも、そこそこの回復は見込める。
コハクが喉を鳴らして飲み込むのを確認した冬夜は、ようやく一安心したように息を吐いたのだった。




