第17話 匂いを追った先
幻妖の匂いを追って辿り着いたのは、スーパーに向かう途中で横に逸れた、細い路地である。
そこで冬夜たちの瞳に映ったのは、一人の人物だった。
「あの、すみません」
冬夜は迷うことなく、その背中に声を掛ける。
「……何でしょうか?」
特に驚くこともなく静かに振り向いたのは、冬夜たちと歳の近そうな青年だ。
一目見ただけでも気品を感じられるその青年は、冬夜や志季よりもやや華奢な身体つきをしている。
綺麗に切り揃えられたストレートの黒髪は、どこか古風な雰囲気を醸していた。
「あれ? どこかで見たような……」
振り返った青年の顔を見て、冬夜が小さく零す。すぐさま懸命に記憶を辿り始めた。
最近、見た気がする。それは一体どこだったか。
依頼人、はずっと来ていないから、きっとその線はない。
では、どこかですれ違ったことでもあったのか。いや、ここまで印象的な人物に出会ったりした記憶はない。それならすぐに思い出せるはずだ。
「何か、オレも見たことある気がするわ」
志季がそう言った時、冬夜はようやく記憶の中から一本の糸を掴んだ。
「そうだ! こないだ新聞で見た宗像財閥の!」
「ああ、事故に遭ったっていう御曹司か」
「お金持ちの人ですね!」
冬夜の大きな声に、志季とコハクも「そういえば」と思い出したように頷く。
そんなことを話している三人に、青年はただ黙って、訝しむような表情を浮かべた。
勝手に盛り上がっていたことに気づいた冬夜が、申し訳なさを感じつつも、恐る恐る話し掛ける。
「あの、宗像利苑……さんですよね?」
「そうですけど、それが何か?」
冬夜をまっすぐに見ながら正直に答えた利苑だったが、その視線がほんの一瞬だけ鋭いものに変わったのを冬夜は見逃さなかった。
しかし、すぐに利苑の表情が和らいだのを見て、
(今、ちょっとだけど睨まれたよね……。まあ、いきなり声掛けられたら普通は怪しむだろうし、そのせいかな)
冬夜はそう思い直す。
「あ、えっと、その、今ここに何か、人とか動物とか怪しいものはいませんでしたか? いや、俺たちも怪しいかもですけど」
きっと怪しまれたからだ、そう自身に言い聞かせながら、冬夜は慌てて笑顔を作った。
今のはかなりおかしな言動になってしまったような気もするが、それはもう仕方がないと諦める。
「いいえ? 何も見てないですけど、それがどうかしたんですか?」
冬夜が訊くと、利苑は不思議そうな表情で首を横に振った。そして逆に冬夜に問い返す。
「いえ、それならいいんです」
笑みを浮かべたままの冬夜が冷静を装って答えると、利苑は納得がいかないとでも言いたげな顔で首を傾げた。
「……はあ。そうですか」
そんな利苑に向けて、冬夜はさらに思い出したように質問を重ねる。
「あ、そうだ。最近身の回りで変わったことはありませんでしたか?」
「さあ? 変わったことと言われても、最近だと事故に遭ったことくらいしか僕には記憶がないですよ?」
「ですよねぇ」
利苑が宙を睨みながらそう答えると、冬夜の顔に苦笑が浮かぶ。
確かに利苑の言った通り、「変わったこと」と訊かれたら、真っ先にこの出来事が頭の中に浮かぶだろう。
(これ以上は訊くわけにいかないよね。事故のことなんて思い出したくないだろうし)
冬夜は心の中で、瞬時にそう結論付けた。
赤の他人、しかも今会ったばかりの人間がこれ以上深く追求するべきではない。
このままだと、自分たちの方がさらに不審者だと思われても仕方がないだろう。これで警察に通報でもされたら、それはそれでかなり面倒だ。
冬夜が口を噤むと、今度は反対に利苑が口を開いた。
「それでは、僕はもう帰らないといけないので。失礼します」
小さく頭を下げると、こちらに向けて歩き出す。
冬夜と志季の間をすり抜けるようにして通り過ぎた時、ほのかに香水のいい香りが漂った。
利苑はそのまま振り返ることなく去っていく。
大通りの方へと消えていったその背中を、冬夜たちはただ黙って見送るだけだった。
利苑の姿が完全に消えた後、路地に残された三人はそれぞれ顔を見合わせる。
「どうしてこんなところに宗像利苑がいたんだろう?」
冬夜が素朴な疑問を口にすると、志季も同じように首を傾げた。
「それも気になるけど、何でこの辺りから幻妖の匂いがしたんだ? コハくん、まだ幻妖の匂いするか?」
「確かにさっきまでは匂いしてたんですけど、この路地に入ってからよくわかんなくなっちゃったんですよね……」
「じゃあ、今は匂いしないの? この先に匂いが続いてるとかは?」
冬夜が路地の先を指差すと、その指を目で追ったコハクは、申し訳なさそうに答えた。
「ここで匂いは消えてるっぽいです」
「ってことは、宗像利苑が怪しいんじゃないのか? ここにいた理由にもなるだろ」
今ここにいたのはあいつだけなんだし、と腕を組んだ志季が、訝しむような視線を利苑が消えていった大通りに向ける。
「でも、彼からは幻妖の気配とかは感じなかったよ。志季もそうじゃない?」
「うーん、確かにそれはそうだな」
唸りながら空を見上げる志季の姿を見て、冬夜はさらに続けた。
「なら、宗像利苑は今回の件とは無関係じゃない?」
「コハくん。一応訊くけど、宗像利苑から幻妖の匂いしたか?」
「あの人はちゃんと人間の匂いしてましたよ? 香水の匂いもしましたけど」
幻妖の匂いはしてなかったと思います、とコハクは正直にそう答える。
コハクの答えに、また志季は首を捻り、しゃがみ込んだ。
「じゃあ幻妖はここまで来たけど、たまたまいた宗像利苑を見て咄嗟に姿を消した、とかか?」
「その可能性は捨てきれないよねぇ」
「後は、すでに宗像利苑に取り憑いてる可能性か。オレたちに気づいて今だけ姿を消したっていう線もありかもしれねーな」
志季の言葉に、冬夜は弾かれたように顔を上げ、手を叩く。
「ああ、そのせいで事故に遭ったのかもしれないよね」
「それなら心配ですね。また事故に遭うかもです」
冬夜と志季の話に、今度はコハクが不安そうにうつむいた。
幻妖が人間に取り憑くと、その人間には災いが降りかかると言われている。実際、幻妖は人間に害をなすものなので、それはあながち間違ってはいない。
まだしゃがみ込んだままの志季が、利苑を心配するコハクの顔を見上げる。そして、さらに続けた。
「でもとっくに本人は帰ったし、事故以外で変わったことはないって言ってたから、オレたちには何もできねーな。依頼人でもないし」
「そうだね。心配ではあるけど、まだ取り憑かれてると決まったわけじゃないし。事故は普通に考えて、たまたまだった可能性の方が高いよね」
冬夜がまだうつむいたままのコハクの頭を撫でながら、そう答える。
「とりあえず、幻妖も見つけられなかったんだから、これ以上はどうにもなんねーな。退魔以前の問題だ」
改めて空を仰いだ志季は、諦めたようにぽつりと呟いた。
「匂いも消えたんじゃ追えないし、今回は諦めるしかないよね」
「冬夜さま、志季さん、ごめんなさい」
コハクが謝りながら頭を下げると、冬夜はその姿に向かって柔らかく微笑む。
「コハクが気にすることないよ」
「だな。コハくんは悪くない。消えたかもしれない幻妖が悪い」
珍しく、志季もコハクを擁護する。
「はい、ありがとうございます!」
元気よく顔を上げたコハクを見やってから、冬夜は気を取り直すように言った。
「さて、じゃあ気を取り直してスーパーに向かおうか」




