第17話:思惑
街中の建物が一つ残らず明かりを落とし、深い沈黙が一帯を支配した頃、blanumakfaの建物もまた、眠りの中にいた。月明かりの差し込む部屋にある音といえば誰かの寝息や鼾だけで、あれだけ馬鹿騒ぎしていた面々は皆寝静まっている。
――ただ一人の男を除いて。
彼はイタズラをする子供のようにゆっくり、音を立てずに歩き出した。時折床板の軋む音に冷や汗をかきながら、彼は目的の場所に辿り着いてしゃがみ込んだ。そこには床に横たわっている少年がいる。
「レニー」
「……んにぁ」
「レニーくん」
「ん……ふにぅ……」
「これでどうだ」
「んな!?」
「しーっ」
彼の手から放たれた静電気のような電撃はレニーの頬に当たって小さく音を立てた。その痛みで目を覚まし、声を上げる彼の口元に、男は慌てて手を当てる。
「皆を起こさないように」
「……マスター?」
年の割に幼い子供のような無邪気な笑みを浮かべる彼のひそひそ声に釣られて、レニーは小さな声で問うた。
「君に見せたいものがある」
マスターはそう言うとまたそっと立ち上がって忍び足で歩き出した。レニーも重たい体を起こして、そこいらに寝転がっている人たちを起こさないように付いて行く。
マスターはどうやら練習場に向かうらしい。慎重に移動して、ようやく大きな扉の前に立つと、彼らは少しだけ扉を開けて練習場の中へと体を滑り込ませた。
「ここが練習場……」
「初めて入ったかい?」
扉を閉めた彼らは、少しだけ声量を戻して言った。
マスターが手を振ってやると、天井にある明かりが点灯し、部屋の全貌が明らかになる。フットサルコートくらいの大きさのその部屋は堅牢そうな壁に囲われており、床も丈夫な素材になっているらしい。それでも至るところに傷がついており、この中で行われたであろう訓練や手合わせの熾烈さが伝わってくる。
「もしかして……僕に魔法を?」
「なるほど……それも楽しそうだね。でも、今日はそういう用事じゃないんだ」
にこやかにそう言ったマスターは、練習場をキョロキョロと見回すレニーの肩を叩いて、緩慢な動作で練習場の真ん中へ向かった。
彼はそこで片膝をつき、床に何やら魔法陣のような模様を描き始める。
「何をしてるんですか?」
「見ててごらん」
優しい声と同時に、ちょうどマスターのしわ深い手が模様の一番外側の円を書き切った。
すると、何の変哲もない床に見えた場所に今しがた書かれた模様が淡く光って浮かび上がり、床板の一部がゆっくり左右にスライドして――。
「か、隠し階段……!」
音もなく徐に動いた床板の向こう、ぽっかりと空いたその空間には、地下へと続く石の階段があった。左右の壁には廃坑にあったものと同じランタンが設置されているものの、奥は不気味に薄暗い。
この先は掃除も行き届いていないのか、少し埃っぽい空間に浮かぶ灯りが、誘うようにチラチラと瞬いている。
「行こう。この奥に見せたいものがあるんだ」
その怪しげな雰囲気に、レニーは足が竦んだ。
突然現れた斧の大男から自分を助けてくれた。見知らぬ土地――いや、見知らぬ世界で行き場のない自分に居場所をくれた。知らないことをたくさん教えてくれた。不可解な出来事が続き、混乱しておかしくなりそうな自分に心配することは無いと声をかけてくれた。
それだけのことで。たったそれだけのことで、彼らを信用することは出来るのだろうか。
あまりにも非常識な出来事が連続する中で欠いていた平静が、恐怖と孤独をきっかけに戻ってくる。
彼らは、本当に味方なのだろうか。信じていいのだろうか。彼らは自分を、どうしようとしているのか。
「レニー?」
「は、はい」
疑念の渦に飲み込まれそうなレニーは、名前を呼ばれて我に返った。マスターはそれを見て取ったのか、温和な笑みを浮かべる。
「ちょっと魔力にあてられてしまったかな? 大丈夫だよ」
あくまでも優しい、マスターの声。蜜とも罠とも取れるような、優しい声だ。
封じられていた様々な思いが溢れ出すが、結局無力な彼は、その声に縋るしかない。
「……大丈夫です、ありがとうございます」
「気分が悪くなったらすぐ言ってほしい。どうにかするから」
マスターはそう言って階段を降り始めた。その後ろをレニーもゆっくり歩く。
冷水に浸したガーゼのようにひんやりとしたかび臭い空気が肌に張り付くようで気持ちが悪い。両手を伸ばせば左右の壁に手が届くほどの狭い通路の中を、二種類の足音が控えめに響く。
降りれば降りるほどに、辺りは深海のように冷たく重くなっていく。それはただ純粋な温度の変化のみによるものではないようだ。
レニーの額に嫌な汗が浮かび始めた時、長い階段の終点に辿り着いた。そこには練習場の扉よりも更に堅牢そうな扉があった。
マスターはその扉を引き、中へと歩を進めた。
「うわぁ……」
続いて室内に入ったレニーの目に飛び込んできたのは、大きな紫色の水晶だ。
一度目にしてしまえば二度と視線を外せなくなってしまいそうな危険な輝きを放つ水晶は、非常に美しいことには違いないが、どこか禍々しい。形容しがたい奇妙な魅力をたたえた妖しい光が、そこに存在する万象を照らす。
「レニー、大丈夫かな?」
「……っは、はい」
レニーは呼び掛けに応えようとして初めて、呼吸を忘れていたことに気がついた。彼の心臓が、焦ったように早く拍動する。
「カノイミ。私はそう呼んでいる」
水晶の方を見たまま語りかけるマスターの少しだけ強ばった表情が、水晶の煌めきによって照らされている。
「レニー。これに触ってみてほしいんだけど、できるかい?」
「えっ……」
「大丈夫、何かあれば私がすぐに助ける」
レニーはゴクリと唾を飲んだ。マスターの隣に立って、正面からカノイミと呼ばれた水晶を見据える。
「……やってみます」
レニーは数歩近寄って水晶のすぐ前に立った。震える肺に深呼吸で新しい酸素を送り、落ち着けると、そっと右手を持ち上げた。
ゆっくり、少しずつ、その掌を水晶へと近付けて……。
ついに触れた。ひたりと固い感触がして、冷たいような温かいような妙な感覚を抱く。
「やはりそうか……」
マスターの呟きを聞いて、レニーは振り返って手を離した。見れば、彼は顎に手を当てて難しい顔をしている。
「レニー、今見たものやこの部屋については誰にも言わないでくれるかい?」
「……はい」
いつも柔らかい微笑みを浮かべているマスターの顔が珍しく真剣味と緊張を帯びたものになっており、レニーはまた少しだけ怖くなる。
「ありがとう。すまないね」
マスターがそう言って申し訳なさそうに笑うと、その目尻に笑い皺ができた。
時を同じくして、blanumakfaの中を人知れず動く影がもう一つ。その影もまた、誰一人にも気づかれないようにこっそりと部屋を出て、建物の裏へ回った。その手には携帯端末のようなものが握られており、影は辺りに誰もいないことを確認して端末を操作して耳に当てた。
「ボス……はい。ご報告申し上げるために連絡致しました」
どうやら誰かに電話のようなものでコンタクトを取っているらしい。声量を絞って話すその人物の声は、街の誰にも聞こえていない。
「まず、情報のリークが……はい。その件で……はい、よろしくお願い致します」
端末の向こうからは男性の声が時折漏れてくる。ギルドから出てきた人物は暫くやり取りを続けていたが、やがて少し口元を歪めて言った。
「それと例の件。ついに接触しました。やはり、ビンゴでした」
影はそう言って声を出さずに笑った。寝静まった街を覆う暗闇を、様々な思惑が掻き回す。水面に落とされた雫が生む波のように、絡み合うそれらの思惑は平穏を乱す予感を孕んで冷たい静寂に溶けていく。
暗躍の気配が漂う夜が明けて、また新しい朝が来る。