第1話 センターじゃない私
「杏奈、スマホしまって。あと三分」
「三分あるなら一本撮れる!」
「撮れない。前髪直して」
「美月がセンター権限を乱用してる!」
「はいはい、センター権限で没収しまーす」
新宿のライブハウス、その狭い楽屋で、小野寺杏奈のスマートフォンが白石美月の手に渡った。
「あっ、返して! 今日の『本番三分前なのに全然緊張感のないルミサン』撮ろうと思ってたのに!」
「そんなもの世間に出さなくていいから」
「世間はこういうのを求めてるんだって。完成されたアイドルより、舞台裏の素顔!」
「少なくとも今の杏奈の素顔は、前髪が一本だけ変な方向向いてる」
「えっ、嘘!」
杏奈が即座に鏡へ向き直る。その背後から、橘沙耶が無言でヘアスプレーを差し出した。
「ほら」
「沙耶ちゃん、神」
「さっき自分の置いてきたでしょ」
「なんで知ってるの?」
「拾ったから」
沙耶の大きめのトートバッグには、自分の荷物以外のものがかなりの割合で入っている。メンバーの充電器、絆創膏、予備のストッキング、喉飴、なぜか杏奈の折り畳み傘まで入っていたことがある。たぶん本人は世話を焼いているつもりすらない。
「あ、陽葵」
名前を呼ばれて、私は鏡越しに美月を見る。
「なに?」
「右のリボン、ちょっと下がってる」
「あ、本当だ」
「待って。動かないで」
美月は自分の衣装より先に、私の肩へ手を伸ばした。ステージ衣装の黄色いリボンを指先でつまみ、左右を見比べてから位置を直す。
「よし」
「ありがとう」
「琴葉もイヤモニ大丈夫?」
「大丈夫。それより杏奈、水飲んだ?」
「飲んだ飲んだ」
「何口?」
「えっ」
「何口?」
「そこまで管理されるの?」
「今日、二曲目の頭から喉ガサガサだったら、私が横で気になるから」
水瀬琴葉は普段、必要なことしか喋らない。なのに歌と喉の話になると急に細かい。
「じゃあ三口飲みます」
「五口」
「増えた!」
「喋ってる間に乾いた」
「横暴!」
「杏奈、あと二分だから本当に飲んで」
沙耶に言われて、杏奈が素直にペットボトルへ口をつけた。私はそのやり取りを見ながら笑っていた。
いつものことだ。結成して二年。売れたかと言われれば、まだぜんぜん売れていない。
今日のライブだってワンマンではなく、女性アイドル七組が出演する対バンイベントで、私たちLumière cinq――通称ルミサンは、出番が後ろの方になっただけで五人そろって喜んだくらいだ。
それでも、この狭い楽屋で本番を待っている時間を、私はかなり気に入っている。
「陽葵」
美月が今度は正面から私を見た。
「うん?」
「今日、二曲目の落ちサビ前、昨日変えた立ち位置だからね」
「あ」
「忘れてたでしょ」
「忘れてない。今、思い出した」
「それを忘れてたって言うの」
「大丈夫。美月の右後ろでしょ?」
「そう。ぶつかったら怒るよ」
「美月が私の方に来なければ」
「なんでセンターが避けるのよ」
「人気一位なんだから心も広く」
「人気四位に言われたくない」
「それ今関係ある?」
「ない」
二人で笑ったところで、楽屋の扉が開いた。
「ルミエール・サンクさん、板付きお願いします!」
「はい!」
五人の声が重なる。美月が一度だけ全員の顔を見た。
「行こっか」
その一言で、楽屋の空気が変わる。私はこの瞬間が好きだった。
◇
ステージに出れば、やっぱり美月は強い。最初の一歩で客席の視線をまとめて持っていく。
顔がいいとか、ダンスが上手いとか、それだけじゃない。そこに立った瞬間に「センターです」と伝わる人が、本当にいるのだと、私は美月を見て知った。琴葉は歌い出すだけで空気を変える。
沙耶は客席の端までちゃんと見ている。杏奈は予定になかった煽りを入れて、なぜかそれが一番盛り上がる。
そして私は、その全部の間にいるのが得意だった。
「今日、初めてルミサン見る人ー!」
杏奈が叫ぶと、客席のあちこちで手が上がる。
「結構いる! 帰らないでね!」
「始まったばっかりなのに帰す話しないで」
私が横から拾うと、客席に笑いが起きた。
「陽葵が止めるから悪い!」
「止めなかったらもっと悪いでしょ!」
「二人とも、次の曲行くよー」
美月が笑いながら割って入り、歓声が上がる。たぶん、これがルミサンだった。
誰か一人だけを見に来た人が、帰るころには五人の名前をなんとなく覚えている。そんなグループ。
終演後、汗だくのまま楽屋へ戻ると、杏奈が開口一番叫んだ。
「今日、良くなかった!?」
「良かった」
琴葉が即答する。
「三曲目、二番のサビだけ走ったけど」
「褒めてから刺すのやめて!」
「でも最後戻った」
「じゃあ褒めてる!」
「陽葵、タオル」
「あ、ありがと」
沙耶から受け取ったタオルで額を拭きながら、私は鏡の中の自分を見た。頬は赤いし、前髪は汗で崩れている。
とてもじゃないけれど、完璧なアイドルには見えない。でも楽しかった。
「陽葵、今日のMCよかったよ」
美月が隣でペットボトルを開けながら言った。
「杏奈の事故処理?」
「事故扱いすんな」
「事故だったでしょ。初見のお客さん帰らせようとしてたし」
「引き止めてたの!」
「言葉の選び方が悪い」
沙耶まで混ざってくる。
「でも笑ってたじゃん!」
「笑われてたの」
「琴葉まで!」
五人で笑いながら着替え、二十分後には物販へ向かった。こういう日は、ライブが終わっても仕事は終わらない。
◇
「陽葵ちゃん、今日めっちゃ良かった」
「ほんと? ありがとう」
「最後の曲の表情、好きだった」
「そこ見てくれてたんだ。嬉しい」
チェキを受け取りながら、私は相手の顔を見る。何度か来てくれている人だった。
名前はタクミさん。
「あとさ」
「うん?」
「今日、美月ちゃんとぶつかりそうだったよね」
「見てた!?」
「見てた」
「危なかった……」
「美月ちゃんが避けてた」
「あとでちゃんと謝ります」
「センターが避けるのかよって顔してた」
「絶対あとで言われるやつだ」
タクミさんが笑う。こういう会話は好きだ。
私は写真を撮られるより、こうして目の前の人と喋っている方が得意だった。愛嬌がある。
話しやすく、気づけば以前よりずっと距離が近くなっていた。
ファンから言われるのは、だいたいそんな言葉だ。歌なら琴葉。
ダンスなら美月。配信なら杏奈。
外の人との会話なら沙耶。私は、これといって一番ではない。
人気順もだいたい四番目。五人しかいないのだから、かなり分かりやすい順位だと思う。
別に嫌ではなかった。一番になりたいと思わないわけではないけれど、それより五人の列が少しずつ長くなっていく方が嬉しい。
ただ、美月のセンター、琴葉の歌、杏奈のMC、沙耶の気配りみたいに、「桜井陽葵といえばこれ」と外から一言で言えるものが自分にはない。そのことだけは、たまに少し引っかかっていた。
「陽葵、あと一人!」
スタッフに声をかけられ、私は「はーい」と返した。物販を終えたころには、足がかなり重くなっていた。
「終わったー!」
杏奈が控室の椅子へ倒れ込む。
「寝ないで。まだ告知動画ある」
沙耶が容赦なく言った。
「聞いてない!」
「聞いてた。十五時に説明された」
「その時間の私はまだ今日を生きてなかった」
「哲学みたいに言うな」
私は笑いながら、杏奈の肩を軽く叩いた。
「ほら、行くよ」
「陽葵おんぶ」
「無理」
「即答!?」
「私も疲れてる」
「四位の体力見せて!」
「人気順位を体力に使わないで!」
どうして今日だけ四位を二回も言われなければならないのだ。
◇
告知動画は、ライブハウス二階の小さな撮影スペースで撮ることになった。来月開催される合同イベントの宣伝用で、各グループが三十秒ほどの動画を撮影するらしい。
「じゃあルミサンさん、普通にイベント名言って、最後に一言ずつお願いします」
「はーい」
美月が代表して返事をする。一回目は何事もなく終わった。
ところが、カメラマンが映像を確認している横で、若い制作スタッフが何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ。余裕あったら別パターンも撮りたいんですけど」
「別パターン?」
「今回、イベントのテーマが『放課後』なんで、ちょっと寸劇っぽいやつ」
杏奈の目が輝いた。
「やります!」
「返事早いな」
「動画になるものは全部やる」
「そういうところだけプロ意識高いよね」
「そういうところだけって何!」
スタッフが笑いながら、一枚の紙を渡してきた。
「本当に簡単なやつです。五人が学校帰りにイベントへ誘い合う、みたいな」
「台詞あるんだ」
私は紙を覗き込んだ。ほんの数行だった。
美月が友達を誘い、杏奈が騒ぎ、沙耶がまとめ、琴葉が一言挟む。私の台詞は最後、『行こうよ。きっと楽しいから』
それだけだった。
「じゃ、一回やってみましょう」
立ち位置を決める。カメラが回る。
美月はこういうときも器用だ。ちゃんとアイドルらしく、明るく、可愛く演じる。杏奈はほぼ普段のままだった。
沙耶が自然にまとめ、琴葉は少し照れている。そして私の番が来た。
『行こうよ。きっと楽しいから』 最初の一回は、普通に言った。
「はい、オッケーでーす」
カメラマンが答える。そのとき、横にいた制作スタッフが紙を見ながら言った。
「桜井さん、すみません。もう一個だけいいですか?」
「はい」
「最後のところ、友達が本当は行きたいのに迷ってる、って設定にしてもらってもいいです?」
「迷ってる?」
「そう。お金ないとか、最近ちょっと学校来れてないとか……理由までは何でもいいんですけど」
「分かりました」
私は一度、隣に立っている美月を見る。美月が首を傾げた。
設定上、私が声をかける相手は美月になった。
「じゃあ回します」
カメラの赤いランプが点く。直前まで聞こえていた杏奈の小さな鼻歌が、意識の外へ落ちた。
美月は行きたい。でも行けない理由がある。
だったら、ただ明るく誘ったら駄目だ。断られることを怖がっている相手へ、無理に手を引くのでもない。
私は美月を見る。ほんの少しだけ、声を落とした。
『……行こうよ』 美月の目が止まった。
『私、待ってるから』 一拍置く。
『きっと楽しいから』 言い終えたあとも、私は美月を見ていた。
相手が返事をするまで、待つ。カメラはまだ回っている。
数秒。誰も声を出さなかった。
「あれ?」
私が先に素へ戻った。
「終わりですよね?」
「あ、はい」
スタッフが慌てたように返事をした。
「ごめんなさい、止めるの忘れてました」
「えっ」
「いや……」
カメラマンがモニターを見る。
「桜井さん、演技やってました?」
「少しだけ。レッスンと、小さい舞台とか」
「へえ」
横を見ると、美月が妙な顔で私を見ていた。
「なに?」
「いや」
「変だった?」
「逆」
「逆?」
琴葉も私を見ている。杏奈だけが首を傾げた。
「何? 私だけ分かってない?」
「私も説明できない」
沙耶がそう言ったところで、スタッフがもう一度映像を再生した。画面の中に私がいる。
なのに、少しだけ自分ではないように見えた。
「これ、使います?」
スタッフがカメラマンへ聞く。
「こっちの方がいいでしょ」
「ですよね」
私はよく分からないまま美月を見た。
「そんな違った?」
「違った」
「どこが?」
「それが分かんないから見てた」
「怖い言い方しないで」
みんなが笑ったので、私も笑った。それで、その話は終わると思っていた。
撮影機材を片付け始めたスタッフに挨拶して、五人で帰ろうとしたときだった。
「あ、桜井さん」
「はい?」
さっきの制作スタッフが追いかけてくる。
「明日のMV撮影、ルミサンさんですよね?」
「そうです」
「僕、そっちも入るんですけど」
スタッフは手元の進行表を見てから、私へ言った。
「桜井さん、演技パート少し増やせます?」
一番になれるものなんてないと思っていた私に、その人はごく普通の顔で、初めてそんな仕事を増やしたいと言った。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




