001
「マスター、マスター・ジン。起きてください」
「んあっ?」
ぺちぺちと頬が叩かれている。
その可愛い衝撃に八神迅が目を覚ますと、目に入るのはいつもの汚い天井ではなく、青い空と白い雲が流れていた。風がすっと頬を撫でる。
(アビスゲート・オンラインか。寝落ちしたかな……いや、なんかおかしい)
寝ぼけた頭でそう思ったが、目が覚めて来ると違和感に気付いてガバッと起き上がった。
視覚、聴覚、触覚……、あらゆる解像度が違う。
「なんだこれ」
圧倒的なリアルさ。どこかの高原にでも来たかと思った。
ただそれを明確に否定する存在がいる。
AIナビのアイリス。デフォルトでは六角形の無機質なサポートAIだが青を基調としたピクシーのアバターを課金して可愛らしく装飾している。三百円の子供でも買えるお値段で、他にもハムスターや猫などのアバターもあったがピクシー型が一番人気が高かった。
そしてそれが《《実際に飛んで自分から話しかけてくれている》》。
「おはようございます、マスター。いっつもお寝坊さんですね」
「アイリスか?」
「はい、マスターの相棒、アイリスですよ」
眼の前にアイリスがパタパタと羽を震わせながら嬉しそうに飛び回っている。まるで自我があるように……。
アイリスが居るならココはゲームな筈だ。だがこの解像度はなんだ? それにゲームではアイリスはこんな風には話しかけてはこなかった。
手のひらに伝わる土の感触。頬を撫でる風。そしてアイリスの表情。迅が起きたことをすごく嬉しそうに見つめてきているのがわかる。
立ち上がって周りを見渡す。視界が高い。元の迅の身長は百六十五センチメートル。ただしプレイヤーキャラクターであるジンの身長の設定は百八十センチメートル。その差十五センチメートルの差が違和感の正体だと気付いた。
(身長はアバターの設定だけで視界に反映される技術はなかった筈なんだけどな……)
そう思いながらも自分の手を見る。その際ハラリと前髪が落ちた。ブルネットで色合いは少し記憶にある物よりも薄い。それにこんなにサラサラした髪はしていなかった。硬くてゴワゴワして天然パーマ。それが三十年以上付き合ってきた髪の毛だった筈だ。
触ってみるとさらりと指が通る。長さはショートより少し長いくらい。迅が使っていたキャラクターと一致する。
「やっぱりアバターのジンだ」
手も違う。小さく、ピアノでオクターブがギリギリだった小さな手ではない。大きくゴツゴツとしていて、筋肉も程よくついている。足も長く、自分の物とは思えない。
周囲を見渡す。見覚えのある景色。膝丈まである草が風でそよいでいる草原。
「アイリス」
「はい、マスター」
「ここはどこだ?」
「マスターもよくご存知の筈では? 始まりの草原と呼ばれる場所ですよ」
「……やっぱりそうか」
始まりの草原。アビスゲート・オンラインを始めると必ずそこにログインする。ただし宿に泊まったりギルドルームや課金で得られるマイルームでログアウトすればそこからログインできる。
(落ちる前は何をしてたんだっけか……確かエンドコンテンツをソロ攻略しようとして)
──そこで記憶は途切れている。
狭い六畳の部屋で大きな音を立てるハイスペックPC。ゲーミングチェアに身を預け、HMDをつけ、一瞬の隙も許されないプレイをしていた……筈だ。
「ステータス」
何も起きない。
「GMコール。アイテムボックス」
何も起きない。
残念ながらゲーム内で使えていた便利機能はないようだ。
そういえばUIもない。本来なら自身のHP:生命力と魔力、SP:スキルを使う際のゲージが画面上部に見え、右上にはミニマップが表示され、右側には魔法やスキルのショートカット、左側にはアイテムのショートカット、下部にはアイテムボックスや魔法にアクセスするためにドックが表示されていた。
「目がよくなったのだけは幸運だな」
迅の元の視力は〇.一を切っていた。メガネかコンタクトなしでは視界はぼやけてしまってほとんど見えない。だが迅のアバターは遠くにある木の葉が一枚一枚見分ける事すらできる。
「アイリス」
「はい、マスター」
「俺はどうすればいい?」
「とりあえず始まりの村に向かって見ては如何でしょうか」
「やっぱりそうか。金も武器もないから心配なんだけどな」
迅はそう溢しながら始まりの草原の南側に街道があった筈だと歩を進めた。
◇ ◇
「やっと慣れてきたな」
コンパスの違い。単純に足が長くなったことを喜ぶ事はできず、少し歩くのに戸惑った。ただ転ぶことはなく、元の身体のように扱うことができる。軽く落ちていた棒を振ってみたが剣術もできそうだ。少なくともゲーム内部のように身体が覚えている。
そして身につけているのは初期装備だ。
初期装備……というか裸の状態ではTシャツとズボンなのだが生地が薄い。幸いにも靴は履いていたので裸足で歩くことにならずに済んだ。
「マスター、何度か転びそうになっていましたね。転びそうになっているところを初めてみました」
そりゃそうだろう。キャラクターが何もないところで転ぶというのはゲームとしては有り得ない。当然回避動作や移動の為に転がる事はあるが、単純に転ぶと言う動作は当初からプログラミングされていないのだ。
「笑うな、アイリス。ただようやく慣れてきた。戦いになるとわからないけれどな」
迅は苦笑しながらアイリスの笑いに返した。
冗談ではない。戦闘時にゲームと同じように動けるのか。それは勝敗だけではなく、おそらく生死を分ける。
ゲーム内に入ったからと言って死んだからリスポーンするとは限らない。と、言うかその可能性は限りなく低いと考えている。少なくとも楽観的に考えるべきではない。
「マスター、敵が来ますよ」
「ちっ」
アイリスの警告に半身に構える。小中高と空手をやっていたのでそれなりに戦える自信はあった。
「角ウサギか」
ホッとする。始まりの草原でエンカウントする相手の中では弱い部類だ。
「うおっ」
ただその安心は危険だった。
こちらを視認して即座にその角を突き立てようとした角ウサギのスピードが予想以上だったのだ。構えていなければ、もしくは角ウサギの攻撃パターンを知らなければ避けられなかった。
振り向けば同様に地面に着地してこちらを向いている角ウサギが居る。
同時に角ウサギが更に地面を蹴る。
「はぁぁぁっ」
今度は余裕があった。角ウサギの突進を避け、ちょうど目の前に来るところに正拳を打ち出す。その一撃は角ウサギの胴体に当たり、肉の感触と骨を砕いた感触が拳に残った。
角ウサギはその威力に吹き飛んでいく。思った以上の威力だ。
「死んだ、か?」
角ウサギはピクリとも動いていない。
ゲームならばポリゴンが分解されてドロップアイテムになるが、見ただけでは生死すら判断がつかない。だがこの状況ならもう危険はないだろう。
「一応持っていくか」
首筋に手を当てて脈動がないことを確認した後、迅は角ウサギの耳をあわせて左手で持った。これを持っていけば始まりの村で金銭に交換できるかもしれない。何せ今は一文無しな上に武器もない。
「解体はな~」
「せめてナイフがないとダメですね」
迅が独り言を言うとアイリスが突っ込んできた。
解体の知識がない。道具もない。ドロップアイテムになって毛皮なり角なりになってくれれば良かったのだがそんな都合の良いことはなかった。
予定通り街道を見つけ、記憶にあるマップの中では村がある方向に歩く。暫くすると遠くに森が見えた。
「煙?」
ただの煙ならば特に気にならない。炊事などで煙が出る事もあるだろう。
ただそれは黒煙だった。しかも三本上がっている。
「アイリス、急ぐぞ」
「はい、マスター」
迅は走った。目的の場所に村はあった。ただ門番すら居らず、人の姿が見えない。村の中心に向かって歩いていく。
黒煙は村の北側、森の方向から上がっている。視界を凝らして見ると村人とナニカが戦っているのが見えた。赤い髪の少女が短剣を持ってゴブリンの首を切り裂いていた。
左手からは死んだ角ウサギがボトリと音を立てて地面に落ちた。
「フィーネ」
この村に居る筈の、そして有能なお助けキャラになる筈のNPC。
「マスター、助けに行かなくていいんですか?」
「行く。だがその前に行く場所がある」
迅は駆けた。目的の場所は村の南東の枯井戸だ。
上に乗っていた板を外すと三メートルほどの深さだった。飛び降りるのは少し危ないので石に手を引っ掛けて降りる。
「確かここに……あってくれ」
確信はない。ただアイリスの存在がある。だからこそココに来た。
「ないか、そんな都合の良いことはないよな」
本来なら色の違う石。それを押すとガコンと石壁が開いた筈だった。そしてその先には石に突き刺さっている剣。地面に置かれている鞘。アイテムボックス拡張パック。治癒魔法と火矢の魔法のスクロール。
それが初期課金装備と言われる三種の神器だ。
だがないものは仕方がない、ならばやるべきことをやるだけだ。少なくともゴブリン程度なら怪我せずに倒せる。その自信があった。
このゲームのやりこみなら誰にも負けない。PvP大会でも世界一位を取り、クランレイドでもMVPにも何度も輝いた。その技術がこのアバターに詰め込まれているのならば負ける要素はない。
「待ってろよ、フィーネ」
迅は素早く枯井戸から脱出し、戦いの場へ走った。
新作です。良ければ五話まで読んでやってください。今日三話、明日二話投稿します。フォロー、星評価お待ちしております((。・ω・)。_ _))ペコリ




